第8話:チェックメイトの予感

雨は止んでいなかった。ただ、祝祭日のネオンがそれを誤魔化していた。路面を叩く水滴は、赤と青と毒々しいピンクを吸って、油膜の虹に化ける。カイの靴底がその上を滑り、わずかに軋んだ。湿った金属の匂い。焼けた糖の匂い。屋台の合成肉が焦げる煙が、排気の苦さに混ざって喉を刺す。


通りは人で詰まっていた。顔に投影フィルタを被せた連中が、誰でもない誰かの笑顔で笑い、誰でもない誰かの歓声で叫ぶ。空にはドローンが浮かび、紙吹雪みたいなホログラムを撒き散らす。祝祭の音楽は低域が強く、胸骨の奥を叩く。鼓動と同じテンポで、都市そのものが踊っているふりをしていた。


カイのコートの内側で、薄いケースが体温を奪っていた。死者の脳から抜いたメモリ。劣化が進むたびに、そこに映っているはずの顔が、ノイズに食われていく。時間は味方じゃない。味方だったことなんて、一度もない。


隣を歩くミナの足取りは雨を嫌わない。軍用の関節は水滴を弾き、微かなサーボ音だけが湿った空気に混じった。彼女は群衆の流れを測り、最短距離を選び、角度を変える。人間みたいに肩をぶつけて謝ったりはしない。ぶつかりそうな相手が勝手に避ける。視線がそうさせる。目の奥の冷たい光が、祝祭の色を全部殺していた。


タワーは遠くからでも見えた。雲を刺す黒い柱。上層は霧に溶け、下層は広告と監視の光で濡れている。都市の心臓。そこに入るには、正面からじゃ話にならない。正面は祝祭用のゲートで飾られ、警備は笑顔のマスクをつけていた。


カイは群衆の中で立ち止まり、屋台の軒先にぶら下がった紙の提灯を見上げた。紙じゃない。薄い樹脂。雨に濡れても破れない。幸福も同じだ、と彼は思った。濡れないように加工されている。破れないように補強されている。だから、臭いだけは本物みたいに残る。


ミナが言った。「行動開始。あなたの心拍が上昇している」


「祝祭が嫌いなだけだ」


「嘘。あなたは嘘をつくと、左の指が動く」


カイの左手の義指が、無意識に親指の付け根を擦っていた。金属が金属を撫でる音は、音楽に紛れても耳に残る。彼は手をポケットに押し込んだ。


「黙れ」


「了解。沈黙はあなたの宗教」


タワーへ向かう路地は、表通りの光から一歩外れただけで暗くなった。祝祭は壁の向こうで続いているのに、ここには雨の匂いしかない。排水溝から上がる蒸気が、古い血みたいに鉄臭い。壁の配線は露出し、ところどころで火花が散っている。都市の裏側は、いつも同じ顔だ。


路地の突き当たりに、サービス用の搬入口があった。タワーの外皮に貼り付いた、無愛想な金属の扉。上には監視カメラ。レンズは雨粒で濡れている。濡れても見える。見えるように作られている。


カイは足を止め、コートの襟を立てた。雨が首筋を舐める。冷たい。冷たさは現実だ。記憶は冷たくない。データは冷たくも熱くもない。ただ、腐る。


ミナが扉の脇にしゃがみ、パネルを開いた。細い指が配線に触れる。触れた瞬間、微かな青い光が彼女の爪先に走った。彼女の皮膚は人間のように見えるが、雨に濡れると違いが出る。水滴が染み込まない。表面を滑って落ちる。


「この入口は祝祭モードで警戒が下がっている」とミナが言った。「だが、ログは残る」


「残らないようにしろ」


「不可能。残る。ただし、誰が見たかは別」


カイは笑わなかった。笑う余裕は、いつも死者に預けてきた。扉の向こうにあるのは、都市の中枢と、グレイの影と、妻の死の顔だ。どれも、戻れない匂いがする。


ミナの指が止まった。「開く。三秒」


カイは呼吸を浅くした。肺に入る空気が湿って重い。煙草を吸いたかったが、火はこの雨じゃ死ぬ。彼は火の代わりに、ポケットの中でメモリケースを握った。硬い角が掌に食い込む。痛みは、まだ自分が生きている証拠だった。


扉のロックが外れる音は、祝祭の音楽よりも低く、腹の底に響いた。金属が金属を解放する、乾いた一撃。ミナが扉を押すと、隙間から冷えた空気が流れ出た。室内の冷却。機械の呼吸。そこには雨の匂いがない。代わりに、消毒液とオゾンの匂いがする。


カイは一歩踏み込んだ。靴底が床のゴムを鳴らす。外の喧騒が、扉の厚みで切られる。祝祭が遠ざかる。遠ざかった分だけ、耳に入ってくるものが増えた。換気の唸り。遠いエレベーターの上下。配電盤の微かな鳴き声。都市の神経が、ここでは裸だ。


ミナが後ろで扉を閉めた。金属が噛み合う音。雨の音が遮断される。カイの背中に、見えない鍵が掛かった気がした。戻る道は、いつもこうやって静かに閉じる。


通路の壁には、祝祭用の装飾が貼られていた。笑顔のキャラクター。平和のスローガン。光るリボン。だが、ここでは誰も見ていない。薄いホログラムが湿気でちらつき、時々、顔が歪む。幸福がバグる瞬間。カイはそれに目を留めた。歪んだ笑顔は、妻の最期の表情に似ていた。似ているだけだ。違う。違うはずだ。データは似せられる。記憶は勝手に似てくる。


ミナが先を歩きながら言った。「目標階層までの最短ルートは搬送用エレベーター。監視は二系統。片方は死んでいる。もう片方は生きている」


「生きてる方を殺す」


「比喩が雑」


カイは肩の力を抜かずに歩いた。通路の角を曲がるたび、カメラの死角を拾う。壁の反射を避ける。床の水滴が靴に付かないように足を運ぶ。こういう動きは身体が覚えている。覚えているのに、記憶としては残っていない。彼は自分の頭の中の空白を、何度も触ってきた。触るたびに、そこには冷たい風が吹いた。


搬送用のエレベーターホールは広い。天井は高く、蛍光灯が白くて無慈悲だ。床にはフォークリフトのタイヤ痕。油とゴムの匂い。壁際に積まれたコンテナには、医療廃棄物のマークが見えた。祝祭の裏で、都市はいつも何かを捨てている。


ミナが端末にケーブルを繋いだ。彼女の手首のポートが開き、内側の金属が覗く。そこに雨は入らない。入らないように設計されている。彼女は都市に似ている。壊れないように作られている。壊れない代わりに、濡れた匂いがしない。


「エレベーターを呼ぶ」とミナが言った。「偽装IDで。祝祭用の搬入業者として」


「祝祭の荷物は何だ」


「幸福の演出。大量の花。大量の紙。大量の嘘」


カイは壁の監視カメラを見た。レンズがこちらを向いている。向いているのに、見ていないふりをしている。都市の目は、必要なときだけ開く。グレイの目も同じだ。必要なときだけ、誰かを撃つ。


エレベーターの到着音。低いチャイム。扉が開くと、冷気がさらに強くなった。中はステンレスの箱で、床に滑り止めの溝が刻まれている。壁には傷。何か重いものが何度もぶつかった跡。人間の人生みたいに、運ばれてきたものの痕が残っている。


カイは乗り込む前に、もう一度背後を見た。閉じた搬入口の方角。そこには祝祭がある。雨がある。人の声がある。戻ろうと思えば戻れる距離だ。だが、戻ったところで、メモリは腐る。腐ったら、妻を殺した顔は霧になる。霧になったら、彼はまた自分に嘘をつける。嘘をつけたら、生き延びられる。都市はそれを望んでいる。


カイはエレベーターに足を入れた。床の溝が靴底を噛む。噛まれた瞬間、選択が決まった気がした。マシな地獄を選ぶんじゃない。マシな地獄が、彼を選ぶ。


ミナが続いて乗り込み、扉が閉まった。金属が擦れる音。箱が震え、上昇を始める。耳が少し詰まり、腹が浮く。上に行くほど、空気は薄くなる。薄くなるほど、嘘は軽くなる。真実は重い。重いものは落ちる。落ちる先には、いつも血がある。


壁の表示が階を刻む。数字が上がるたび、カイの掌の中でメモリケースの角が深く食い込んだ。痛みは増える。データは減る。祝祭の音はもう聞こえない。代わりに、エレベーターのケーブルが唸る音だけが、都市の喉の奥みたいに鳴っていた。


ミナが言った。「ここから先は、あなたが消したいものと向き合うことになる」


カイは答えなかった。答えは、扉の向こうにある。開いた瞬間、戻れない。戻れないことだけが、確かな情報だった。エレベーターは止まらずに上がり続けた。タワーの腹の中へ。チェックメイトの匂いが、消毒液の向こうから滲んできた。



雨は高架の腹を叩き、跳ね返った水が路地の灯りを歪ませていた。ネオンは濡れたアスファルトに溶け、紫と緑の油膜がゆっくり流れる。カイのコートの裾が水を吸って重くなり、歩くたびに靴底が薄い水たまりを裂いた。


彼の胸ポケットの内側、遮蔽フィルムに包んだメモリカプセルが、体温でじわじわ温まっていた。温度が上がると劣化が進む。冷やせば結露で死ぬ。どっちに転んでも時間は味方じゃない。舌の奥に残った金属の苦味が、さっきの安物の鎮痛剤だと気づくまでに数歩かかった。


ミナは一歩後ろを滑るように歩いた。雨粒が彼女の頬を打っても、肌は濡れたふりをしない。水は表面を走って落ちるだけだ。軍用の樹脂コーティング。死体にも似た清潔さ。


「ここは遠回りだ」ミナが言った。声は雨音に割り込む刃だった。


「近道はだいたい死に道だ」カイは煙草を探し、湿った箱を握り潰した。フィルターがふやけて、紙が指に貼りつく。火をつける気にもならなかった。


高架の影の先に、古いデータ礼拝堂が見えた。外壁は黒い煤と錆でまだらで、入口の上に残った看板は半分欠けている。かつては合法の「記憶安置所」だった。今は誰も名前を呼ばない場所だ。都市のシステムからこぼれたものが、ここで静かに腐る。


扉の前のセンサーは死んでいた。代わりに手動のロックが付いている。カイは掌で冷えた金属を押し、軋む音と一緒に扉を開けた。


中は暗い。湿った空気が鼻の奥に絡みつく。古い消毒薬とカビと、焼けた基板の匂い。床に散ったガラス片が、外のネオンを拾って小さく光った。天井の配管から水滴が落ち、一定のリズムでコンクリートを叩く。まるで心臓の代わりみたいに。


ミナの視線が左右に走る。彼女の耳の下、露出したコネクタに雨水が溜まり、細い線で落ちた。短絡しない。彼女はそう作られている。


「ここに何がある」ミナが言った。


「昔の友達が、ここなら目を向けないと思った」カイは言った。自分の声が空間に吸われていくのが分かった。吸い込まれるのは音だけじゃない。ここは記憶を食う場所だ。


奥に進むと、安置カプセルの列が見えた。透明な樹脂の棺桶が壁沿いに並び、ほとんどは空で、いくつかは内部に黒いシートがかけられている。シートの下に何があったか、想像する必要はない。カイは何度も見てきた。死者の脳と、そこから抜き出された「都合のいい部分」だけ。


彼は中央の操作卓に手を伸ばした。薄い埃が指先にまとわりつく。電源を入れると、古いファンが唸り、画面が遅れて点いた。緑の走査線が一瞬揺れ、ログイン画面が出る。ここは古い。都市の最新の監視網から外れている。そう信じたかった。


背後で、靴音がした。


雨の音とは違う。濡れた床を踏む、重い規則的な音。迷いがない。カイは振り返らなかった。振り返る前に分かる匂いがあった。高級なレザーのコートに染みついた、乾いたタバコとオゾンの匂い。治安局の車内の匂い。


「その端末、まだ生きてたか」男の声が言った。低く、乾いていて、笑っていないのに嘲る響きがある。


ミナが静かに半歩前に出た。彼女の指先が腰の内側に触れ、隠していた小型のカッターを確かめる。刃はセラミック。金属探知をすり抜けるためのやつだ。


カイはゆっくり振り向いた。


グレイがそこにいた。入口の影から一歩だけ中に入り、背中にネオンの滲んだ光を背負っている。治安局の局長の制服は着ていない。代わりに黒いコートと、首元に薄い防弾繊維のスカーフ。雨で濡れたはずなのに、布は水を弾いていた。肩には小さなドローンが一機、鴉みたいに止まっている。レンズが赤く瞬いた。


グレイの目は、昔と同じ色だった。疲れた灰色。都市の空と同じで、何も映さないように見えて、全部見ている。


「よう」カイが言った。喉が乾いていた。煙草が欲しい。火じゃなく、煙が欲しい。何かが燃えているって証拠が。


グレイは口角だけ動かした。「ここに来ることは予測済みだ」


その言葉は、銃声みたいに空気を割った。カイは右手を動かさないようにした。動けば、相手が理由を得る。理由はいつだって向こうが持っている。


「予測ってのは便利だな」カイは言った。「外れたらどうする」


「外れない」グレイが言った。短く。確信は銃口と同じで、向けられると冷える。


ミナの視線がグレイの肩のドローンに固定された。ドローンの翼が微かに震え、空気を切る音がした。虫の羽音に似ている。小さくて、うるさい。殺すのに十分だ。


「カイ」グレイが言った。名前の呼び方だけは昔のままだった。「逃げるのは勝手だが、持ってるものが問題だ」


カイは胸ポケットの重みを感じた。カプセルはただのデータだ。だが妻の死がそこに詰まっている。妻の顔の最後の光景。犯人の顔。都市の根っこ。どれも同じ重さで胸を押した。


「仕事だろ」カイは言った。「お前の」


「俺の仕事は、街が眠れるようにすることだ」グレイは言った。言い切った。そこに誇りも罪悪感もない。雨のように当然のものとして落ちてくる。


ミナが言った。「眠りは死と同義。効率的」


グレイの視線がミナに移った。初めて見る玩具を評価する目だ。「まだそのガラクタを連れてるのか」


「ガラクタはお前の方だ」カイは言った。自分の声が少しだけ硬くなるのが分かった。硬さは感情じゃない。生存反射だ。ここで柔らかくなったら、折れる。


グレイは一歩前に出た。濡れた床がきしむ。距離が縮まると、彼のコートの下のホルスターの形が見えた。銃は隠していない。隠す必要がない。ここでは彼が法律だ。


「そのメモリ」グレイが言った。「渡せ。消す。お前も消える必要はない」


消える。記憶葬儀屋が言われ慣れた言葉だ。だが、グレイの口から出ると意味が違う。脳から削るのか、街から削るのか。どっちにしても、戻らない。


カイは操作卓の端に指を置いた。冷たい金属。指紋が薄い水で滲む。端末の画面には、古いシステムのメニューが点滅している。ここでメモリを複製できる。できるはずだ。だが複製すれば劣化が進む。コピーはデータになる。記憶の温度が消える。妻の声の揺れが、ただの波形になる。真実は残っても、痛みが薄れる。薄れた痛みは、怒りを鈍らせる。鈍った怒りは、街に飲み込まれる。


一方で、オリジナルを守れば、追手に追いつかれる。守った記憶ごと、頭を撃ち抜かれる。死者の尊厳も、妻の顔も、そこで終わる。


ミナが小さく言った。「選択。時間。劣化。あなたの得意分野」


カイは笑わなかった。笑えば、何かが壊れる。


「お前はいつから予言者になった」カイがグレイに言った。


グレイは肩をすくめた。「お前が消した記憶の癖だ。逃げる時は、必ず死体のそばに寄る。お前はいつも死者の近くでしか正直になれない」


その言葉が、胸の内側を擦った。痛みは出血じゃない。錆びた釘で引っかかれる感じだ。


カイは一歩、操作卓から離れた。代わりに、胸ポケットに手を入れた。ゆっくり。見せるために。メモリカプセルの冷たさが指先に触れた。冷たさは、妻の肌の最後の温度に似ていた。


グレイの目が細くなった。ドローンのレンズが赤く瞬く回数が増えた。狙いを定めている。


「それを出すな」グレイが言った。「ここで終わらせたくない」


「俺だってだ」カイは言った。「でも、終わり方は選べる」


グレイがほんの少しだけ息を吐いた。雨の匂いの中に、彼の疲労が混じった。「選ぶな。捨てろ。お前の奥さんはもう戻らない。街は戻る」


カイはカプセルを握りしめた。プラスチックが軋む。壊れない程度の強さで。壊れたら、妻は二度死ぬ。


ミナが言った。「街は戻る。あなたは戻らない。合理的な提案」


「合理的は嫌いじゃない」カイは言った。「ただ、俺は仕事柄、合理的な死に方を見飽きた」


グレイの手がコートの内側に触れた。銃に触れる前の、儀式みたいな動きだった。昔、同じ動きを何度も見た。二人で同じ標的を追っていた頃。今は標的が逆だ。


「最後に一つだけ言っておく」グレイが言った。「そのメモリを晒せば、死ぬのはお前だけじゃない。お前が守りたい死者も、遺族も、街の弱いところから順に巻き込まれる。平和は血でできてる。お前の血で薄めるな」


カイの指がカプセルの縁をなぞった。滑る。汗と雨と、過去の油が混じった感触。妻の顔はデータだ。だが、彼の中で痛むのはデータじゃない。削っても残る傷の方だ。


操作卓の画面が、突然ノイズを吐いた。緑の線が乱れ、文字が崩れる。古いシステムが外から触られている。グレイが来た時点で、ここはもう安全じゃない。安全なんて最初からなかった。カイが信じた「古さ」も、街にとってはただの穴だ。穴は塞がれる。


ミナが低く言った。「端末が乗っ取られた。逃走経路、再計算」


グレイは微笑まなかった。「逃げ道は残してある。お前が賢ければな」


残してある。飼い犬に繋ぐ鎖の長さみたいに。カイはそれを噛み切る歯が、自分に残っているか確かめたくなった。


彼はカプセルを取り出し、掌の上に乗せた。透明の殻の中で、微かな青い光が脈打っている。妻の最後の夜が、そこに閉じ込められている。光は弱い。時間が削っている。


「グレイ」カイは言った。「お前の予測が当たるなら、次も当ててみろ」


そう言って、カイはカプセルを床に落とした。


硬い音がした。割れない。代わりに、殻が跳ねて暗闇に転がった。水たまりを切り、安置カプセルの影に消える。探すには時間がいる。拾うには膝をつく必要がある。膝をつけば、撃たれる。


グレイの視線が一瞬だけ揺れた。ほんの一瞬。だがその一瞬で、カイは動いた。操作卓の下から古い電源ケーブルを引きちぎり、火花を散らせて床の水に落とした。


白い閃光。焦げた匂い。ファンの唸りが悲鳴に変わり、礼拝堂の灯りが一拍遅れて落ちた。暗闇が、雨より冷たく降りてくる。


ミナの手がカイの腕を掴んだ。指は氷みたいに硬い。彼女は引いた。カイは引かれるままに走った。靴が水を蹴り、ガラス片が鳴った。背後でドローンが羽音を上げ、赤い光が闇を切り裂く。


グレイの声が追ってくる。「カイ。お前はいつも、守るために壊す」


カイは振り返らない。振り返ったら、何かを選び直したくなる。選び直しは許されない。床に落としたカプセルの音だけが、まだ耳の奥で跳ねていた。あれがデータなら、拾い直せる。あれが記憶なら、拾う手は血で汚れる。


出口の向こう、雨の匂いが濃くなる。ネオンがまた視界に戻る。逃げる先に待っているのは救いじゃない。ただ、別の地獄だ。


それでも足を止めなかった。止めた瞬間、グレイの予測が完成する。完成した予測は、棺の蓋みたいに閉じる。



雨は屋上の排水溝を叩き、薄い金属音を何百にも裂いていた。遠くの高架を走る無人車列が、湿った空気を震わせる低周波を引きずっていく。ネオンは雨膜に滲み、紫と緑の光がコンクリの割れ目に溜まっていた。


カイは濡れた外套の襟を立て、煙草に火をつけた。火花が一瞬だけ指先を照らし、すぐに雨がそれを奪った。吸い込んだ煙は冷えた肺を擦って、吐き出すと風に千切れた。


背後でミナが膝をついた。屋上の保守端末——本来は空調と防火シャッターを管理するだけの、鈍い箱——のカバーを外し、指を差し込む。彼女の手首の継ぎ目が雨で光り、内部の駆動音が小さく鳴った。ケーブルを引きずり出す音は、濡れた蛇がコンクリを這う音に似ていた。


「時間」ミナが言った。声は乾いていた。


カイは頷くだけで、視線を前に置いた。屋上の出入口の扉。錆びた蝶番。そこに、いつ来てもおかしくない足音の余白があった。


扉が開いた。


風が一段冷たくなった。雨の匂いの奥に、消毒液と新品の樹脂の匂いが混じる。治安局の匂いだった。


グレイは傘を差していなかった。濡れたコートの肩から水が落ち、靴底がコンクリの水溜りを踏むたびに、薄い波が走った。顔は昔と同じ輪郭で、目だけが違った。あの頃は夜更けの安酒の色をしていたのに、今は端末画面の青白さが染みついている。


彼の後ろに部下はいない。単独。銃も見えない。見せないだけだ。


「屋上は好きだったか」グレイが言った。声は雨に溶けず、まっすぐ届いた。


カイは煙草を口の端にずらした。「好きだったのは、ここから落ちる奴が少ないことだ」


グレイの口元が少しだけ動いた。笑いの形に似た、別の何かだった。「落ちるのはこれから増える。お前が増やす」


ミナの指先が端末の内部で動き、微かな電子音が立った。雨音の裏で、薄いビープが規則的に鳴る。彼女は顔を上げない。視線は配線の奥の暗がりに刺さったままだ。


カイはグレイから目を外さない。「増やすのは、お前の仕事だろ」


「俺の仕事は減らすことだ」グレイは一歩進み、排水溝の脇に立った。溝へ落ちる水の流れが、彼の足元で泡を作っては消えた。「ノイズをな。街は音が多すぎる。真実ってやつは、たいてい騒音だ」


カイは煙を吐いた。煙は雨に殴られて散った。「真実を騒音にするのは、いつも管理者だ」


グレイの視線がカイの背後へ一瞬だけ滑った。ミナの存在を確認しただけで、興味は戻ってきた。「軍用の廃材を連れて、どこまで行く気だ。カイ。お前が抱えてるのは、記憶だ。データじゃない」


カイの喉の奥が乾いた。雨は降っているのに、口の中だけ砂漠みたいだった。煙草の灰が湿って、指先に貼りつく。


「違う」カイは言った。「俺が抱えてるのはデータだ。だから、お前らが欲しがる」


グレイが首を傾げる。「お前はいつから自分をそんなに安く売るようになった」


カイは肩をすくめた。「葬儀屋だ。死んだものは値札が付く」


グレイの目が細くなった。「俺はお前の値札を知ってる。お前は金じゃ動かない。罪悪感で動く」


雨がグレイの髪を濡らし、額に貼りついた。街の広告塔が瞬き、彼の顔に赤い光が走った。血の色じゃない。もっと人工的な赤だ。


カイは煙草を踏み消した。靴底で押し潰すと、湿った音がした。「罪悪感は、消せる。お前がよく知ってるだろ」


グレイの口元が固くなった。「消せるのは痕跡だ。痛みは残る。お前はそれを仕事にしてたはずだ」


ミナの背中で小さくモーターが鳴った。ケーブルが一本、別の一本に繋がる。端末のランプが、死んだ魚の目みたいに点滅した。


カイはグレイの靴を見た。水溜りの中で、革が鈍く光っている。昔は安物のブーツだった。今は高級品だ。踏みしめるたびに、街の金が音を立てる。


「お前が言うな」カイは言った。「相棒だった頃、お前は俺に言った。『忘れろ』って。俺は忘れた。だから今ここにいる」


グレイの目が一瞬だけ揺れた。雨粒が睫毛に溜まり、落ちた。「忘れたから、また同じ場所に戻ってきたんだ。お前は学ばない。記憶を削っても、癖は残る」


カイは一歩、横にずれた。ミナとグレイの直線上に自分の身体を挟む。雨に濡れたコートが重く、動きが遅くなる。だが、遅い方がいい時もある。早い決断は、たいてい早い死だ。


「癖で生きてるのはお前も同じだ」カイは言った。「秩序の癖。正義の癖。人を消して、街を綺麗に見せる癖」


グレイはため息をついた。冷えた息が白くなるほどの温度じゃないのに、彼の息は白く見えた。広告塔の光がそう見せただけだ。「綺麗に見せるんじゃない。綺麗にする。違いが分からないなら、もう終わりだ」


カイは歯の裏で舌を動かした。口の中に金属の味が広がる。昔の血の味。あるいは、記憶処理の端子の味。


「終わりなら、始める必要はない」カイは言った。「お前が欲しいのは、俺の持ってる“顔”だろ。あれを消せば、街は静かになる。そういう算段だ」


グレイは否定しなかった。代わりに、雨の向こうの街を見た。高層の壁面広告が笑っている。幸福な家族。清潔な部屋。白い歯。嘘の匂いがする写真だ。


「お前が晒せば、街は燃える」グレイは言った。「燃える火は、罪のない奴も焼く。お前は死者の尊厳に執着するくせに、生者の皮膚は気にしないのか」


カイは喉の奥で笑った。音にならない笑いだった。「尊厳ってのは、生きてるうちは持てない。死んでからやっと手に入る。お前の街は、生きたまま棺に入れてる」


グレイの視線が戻ってきた。鋭い。雨で鈍らない刃だ。「お前の奥さんも、その棺に入ってた」


その言葉が、屋上の空気を一段重くした。雨音が少し遠くなった気がした。カイの耳の奥で、別の音がした。心臓じゃない。記憶端子が接触不良を起こしたときの、あの微かなノイズに似ている。


カイは顔色を変えなかった。変えられなかった。顔は便利だ。嘘を貼る場所がある。


「その名前を使うな」カイは言った。


グレイは肩をすくめた。「使う。お前がそれで動くからだ」


ミナの手が止まった。ほんの一拍。次の瞬間、再び動き出す。彼女の指先が速くなる。端末のランプが、点滅から点灯へ変わった。雨に濡れた金属の匂いに、焼けた埃の匂いが混じる。過負荷の匂いだ。


カイはグレイの目を見た。「お前は俺の痛みを、鍵にする」


「鍵は必要だ」グレイは言った。「扉の向こうに怪物がいるならな」


カイは唇を湿らせた。雨が頬を伝い、口元に入った。冷たい水が舌の上で鉄の味を薄める。「怪物は、扉のこちら側にもいる」


グレイの手がコートの内側へ滑った。抜くつもりじゃない。見せるつもりだ。彼は薄いカード状の端末を取り出し、指で弾いた。空中に透明なホログラムが立ち上がる。治安局の令状。カイの顔。ミナの機体識別。赤い「抹消」の文字。


雨粒がホログラムをすり抜け、光が歪んだ。


「選べ」グレイが言った。「そのデータを渡せ。お前の記憶も、ついでに整えてやる。痛みは消える。お前はまた仕事に戻れる」


カイはホログラムの赤を見た。赤はいつも同じだ。血でも警告でも、赤は赤だ。違うのは、誰が流すかだけ。


「戻る場所はない」カイは言った。「俺はもう、消してきた。自分の分まで」


グレイの眉がわずかに動いた。「なら、ここで終わる」


「終わらせるのは簡単だ」カイは言った。「難しいのは、続けることだ」


ミナの声が背後から刺さった。「侵入経路、確保。監視網の再編成が始まる。三十秒」


グレイの視線がミナへ飛んだ。雨の中で、彼の瞳孔が僅かに開く。驚きは一瞬で、すぐに計算に変わった。


「ハッキングか」グレイが言った。「お前はいつから、そんな派手な真似を」


カイは肩越しにミナを見ない。「俺は派手が嫌いだ。だが、地味に死ぬのはもっと嫌いだ」


グレイが端末を握り直した。指の関節が白くなる。「三十秒で何をするつもりだ」


カイは雨の向こうの街を見た。無数の窓。無数の生活。無数の眠り。どれもシステムが優しく撫でている。優しさは、刃物よりよく切れる。


「お前の目を潰す」カイは言った。「それだけだ」


グレイは鼻で笑った。「目を潰したら、街は転ぶぞ」


「転ぶなら、起き上がる」カイは言った。「お前が支えるから、転ぶんだ」


ミナの端末から、低いブーンという音が立った。屋上の照明が一瞬だけ暗くなり、次の瞬間、別の色で点いた。白い光が青に変わる。治安局の監視ドローンの航路表示が、屋上の空に薄く投影されるはずだったラインが、ぐにゃりと曲がった。


グレイの端末が小さく震えた。彼の指が止まる。ホログラムの令状が一瞬ノイズを走らせ、文字が欠けた。


「おい」グレイの声が少しだけ低くなった。


ミナが言う。「治安局の外周監視、こちらに偽装信号を流した。あなたの位置情報は、港湾区の冷凍倉庫にいることになっている」


カイは口の端を上げた。笑いじゃない。煙草を探す癖が出ただけだ。ポケットは空だった。


グレイは一歩、前に出た。距離が詰まる。雨の匂いが、彼の消毒液の匂いに負ける。カイはその匂いが嫌いだった。死体を綺麗にする匂いだ。腐敗を隠す匂い。


「それで逃げられると思うな」グレイが言った。「街は広いが、出口は少ない」


「出口は一つでいい」カイは言った。「お前が塞いでるなら、壊す」


グレイの目が細くなった。「壊した先に何がある。自由か? ただの瓦礫だ」


カイは雨に濡れたコンクリを見た。そこに映るネオンは、踏めば揺れる。現実も同じだ。踏めば揺れる。揺れないものは、最初から死んでいる。


「瓦礫でも、俺の足で立てる」カイは言った。


ミナの声が短くなる。「二十秒。内部ログの改竄に入る。不可逆」


不可逆。雨より冷たい言葉だった。カイの背中に、見えない刃が当たった気がした。ログを改竄すれば、戻せない。痕跡は消える。だが同時に、証明も消える。真実を晒すための道具が、真実の形を失う。


グレイもその意味を理解したらしい。彼の口角がわずかに上がった。「ほらな。お前はいつもそうだ。守るために消す。消すために守る。結局、俺と同じだ」


カイは雨の中で瞬きをした。瞼の裏に、顔が浮かびかけた。妻を殺した犯人の顔。輪郭だけが、データの劣化みたいに崩れる。握れば崩れる砂の像だ。


「同じじゃない」カイは言った。声が少しだけ掠れた。「お前は街を守るために人を消す。俺は人を守るために街を壊す」


グレイの手が、今度は本当にコートの内側へ入った。金属の擦れる音。拳銃のグリップ。雨の音の中で、それだけが乾いて聞こえた。


「最後に聞く」グレイが言った。「お前はそれを晒すのか。奥さんの顔を、もう一度殺すことになるぞ」


カイの喉が鳴った。雨が喉に落ちるわけじゃない。飲み込むのは言葉だ。言葉は刃物だ。吐けば誰かが切れる。飲めば自分が切れる。


背後でミナが言った。「十五秒。選択を」


カイはグレイを見た。昔、同じ壁にもたれて煙草を回し飲みした男。今は都市の首輪を握る男。首輪はいつも、握る手も擦り切らせる。


「晒す」カイは言った。


グレイの目が一度だけ閉じ、開いた。雨がその瞬間に落ち、睫毛から滴った。「なら、俺はお前を止める」


ミナの指先が端末の奥で最後の接点を押し込んだ。小さな火花。青白い閃光が雨粒に反射し、屋上の空気が焦げた匂いを吐いた。


「十秒」ミナが言った。「ログ改竄開始」


カイは一歩下がり、ミナとグレイの間に影を落とした。影はネオンで薄く、雨で途切れる。それでも、壁にはなる。


グレイの銃口は上がらない。まだ撃たない。撃てば、ここは戦闘になる。戦闘は情報を壊す。彼は情報を守りたい。だから撃てない。撃てないことが、彼の弱点だった。


カイはその弱点に煙草の火を押し付けるみたいに言った。「お前は秩序のために真実を消す。俺は真実のために秩序を消す。どっちも血が出る。違いは、誰の血かだ」


グレイの指が引き金に触れたまま止まった。雨が銃身を濡らし、金属が鈍く光る。


ミナが言った。「五秒。あなたの“顔”データ、外部へ送信準備。劣化が進行。完全性、保証不可」


保証不可。記憶じゃない。データだ。壊れれば、ただのノイズになる。だが記憶は、壊れても痛みだけ残る。


カイは歯を食いしばり、その音を雨に紛らせた。「送れ」


グレイが低く言った。「やめろ、カイ」


カイは答えなかった。答えはもう選んだ。選んだ瞬間に、戻れなくなる。戻れないことだけが、現実の手触りだった。


ミナの声が最後に落ちた。「送信」


屋上のどこかで、見えない回線が開く音がした。金属が軋むような、遠い雷のような。街の神経に針を刺す音。


グレイの端末が真っ黒になった。ホログラムが消え、雨だけが残った。


彼は銃を下ろさなかった。下ろせなかった。銃口の先にあるのは、もうカイの身体だけじゃない。街の静けさそのものだった。


「チェックメイトだと思うか」グレイが言った。


カイは雨の中で、濡れた息を吐いた。「予感だ。だが、たいてい当たる」


ミナが立ち上がった。膝の関節が小さく鳴り、雨水が装甲の溝から滴った。「追跡アルゴリズムが、修正される。あなたの位置偽装は長く持たない」


カイはグレイを見た。彼の目はもう、相棒の目じゃなかった。都市の目だった。都市は眠らない。眠れない。


「行くぞ」カイはミナに言った。


グレイが一歩、横へずれた。道を塞ぐ位置。銃口がわずかに上がる。撃てば終わる。撃たなければ、もっと悪い終わりが始まる。


「お前が逃げるほど、街はお前を殺す」グレイが言った。「そして、お前が守ろうとしてる死者の尊厳も、焼ける」


カイは雨に濡れた床を踏みしめた。靴底が滑り、コンクリの粒が擦れた。「焼けるなら、最初から燃えてた」


ミナがカイの横に並ぶ。彼女の視線はまっすぐで、そこに情はない。だが、雨粒が頬を伝う軌道だけが、人間の涙に似ていた。


グレイの銃口が、ほんの一ミリ揺れた。


その揺れが、答えだった。撃てない。撃てば秩序が汚れる。汚れを嫌う者は、汚れた手を持てない。


カイはその隙間を通る。雨とネオンの隙間。戻れない方へ。屋上の扉へ向かって歩きながら、背中に刺さる視線を感じた。視線は弾丸より遅い。だが、遅い分だけ長く痛む。


背後でグレイの声が落ちた。「次は言葉じゃ済まない」


カイは振り返らなかった。返事もしなかった。雨の音が返事の代わりに、屋上を叩き続けた。



雨は止まなかった。高架の腹の下、排水溝は詰まり、油膜の浮いた水たまりがネオンを歪めていた。カイのコートの裾が濡れて重くなるたび、靴底がぬめりを拾って嫌な音を立てた。遠くでドローンのローターが唸り、近くでは変圧器が虫の死骸みたいな焦げ臭さを吐いている。


ミナは影の端に立ち、顔を上げない。雨粒が頬を打っても瞬きの回数は一定だった。軍用の関節は濡れると微かに鳴る。人間なら寒さで肩をすくめるところだが、彼女はただ、濡れているという事実を受け入れていた。


カイの掌の中で、メモリ・カプセルが熱を持っていた。小さな円筒。中身は顔だ。妻を殺した顔。都市の根幹の顔。データは嘘をつかない。だが、データは痛みもしない。


背後から靴音がひとつ。水を割る音じゃない。乾いた、意図的なリズムだった。


「相変わらず、嫌な場所を選ぶ」


グレイが高架の柱の陰から出てきた。治安局のコートは雨を弾き、襟元の金属バッジだけが冷たく光っていた。顔は昔と同じだった。疲れ方だけが違う。目の下の影が、街の地図みたいに広がっている。


カイは振り向かない。煙草に火をつけた。湿った空気の中で火が小さく踊り、すぐに溺れかける。吸い込むと、肺の奥が錆びた。


「追ってくるなら、もっと早く来い」


「追ってるつもりはない」グレイは足を止め、カイと同じ水たまりを踏まない距離を選んだ。「話に来ただけだ。お前はまだ、話が通じる側にいる」


ミナが視線だけを動かした。グレイの脇腹のホルスター、通信端末、背中の小型ジャマー。武器より先に装備が目に入るのは、彼女がそういうふうに作られているからだ。


「通じる、か」カイは煙を吐いた。煙は雨に殴られて散った。「俺は記憶を切り売りしてる。通じるのは金だけだ」


グレイは笑わなかった。笑うには街が冷えすぎている。


「まだそんな言い方をするのか。お前がやってるのは、葬式だ」グレイは柱に背を預け、雨の線を見上げた。「死者の尊厳、だっけ。お前の口癖だったな」


カイの指がカプセルを握り直す。金属が皮膚に食い込む感触が、現実をつなぎ止めた。


「用件は」


「用件は簡単だ」グレイの声は低く、雨音の隙間に刺さった。「そのメモリを渡せ。お前が持っていれば、街が揺れる。揺れたら人が死ぬ。お前の妻だけじゃない」


ミナが口を挟む。「確率の話なら、あなたの方が人を殺します。隠蔽は常に追加の犠牲を要求する」


グレイはミナを見た。目が一瞬だけ狭くなる。機械を見る目じゃない。道具を見ている目でもない。都合の悪い鏡を見る目だった。


「お前の玩具は相変わらず口が悪い」


「玩具はあなたです」ミナは淡々と言った。「都市があなたを動かします」


雨が強くなり、鉄骨を叩く音が増えた。遠くでサイレンがひとつ鳴って、すぐに切れた。誰かが誰かを諦めた音だった。


グレイはミナを無視して、カイだけを見る。


「カイ。お前は知ってるはずだ。真実は人を救わない」グレイは指先でバッジを軽く叩いた。金属が小さく鳴った。「人々が欲しいのは、正しい世界じゃない。安定した世界だ。眠れる夜だ。朝、子どもが学校に行けることだ」


カイは煙草を指で潰した。濡れた指先に灰が貼りつく。


「嘘でできた朝は、長くは続かない」


「続く」グレイは即答した。「続けるんだ。俺たちが。お前も、そうだったはずだ」


カイの喉の奥に、昔の味が浮いた。安いコーヒー。夜明け前の署の廊下。血の匂い。誰かの泣き声。そこにあったのは正義じゃない。仕事だった。終わらない仕事。


グレイは一歩だけ近づいた。雨粒が彼の頬を滑っても、表情は変わらない。


「お前は昔、言った。『市民は真実なんか抱えられない。抱えさせるのは拷問だ』ってな」グレイの声が、雨の裏に潜った。「だからお前は、記憶を削った。都合の悪い部分を切り落として、遺族に渡した。優しい顔して、甘い嘘を売った」


カイは答えない。答えたら、何かが戻ってしまう気がした。戻ったら、また消さなきゃならない。消すたびに、何かが薄くなる。自分の輪郭が。


「お前自身もそうした」グレイは続けた。「自分の中の、耐えられないところを消して生き延びた。違うか」


ミナの関節が小さく鳴った。雨水が腕を伝って滴り、指先から落ちる。彼女はカイを見ない。見れば、答えが出てしまうからだ。


カイはカプセルをポケットの中で転がした。金属が布を擦る音が、耳の奥でやけに大きい。妻の顔が、そこにある。データは冷たい。冷たすぎて、手が覚えてしまう。


「お前は、俺に何を渡せって言ってる」カイは言った。「俺の妻の最後か。街の都合か」


グレイは肩をすくめた。雨が肩から流れ落ちる。


「両方だ」グレイは言った。「お前がそれを晒せば、妻の死はニュースになる。誰かが泣く。誰かが怒る。誰かが暴れる。だが、妻は戻らない。戻るのは混乱だけだ」


カイの視線が水たまりに落ちた。ネオンが揺れて、顔のない人間が何人もいるみたいに見えた。踏み込めば壊れる。壊れたら元には戻らない。


「混乱は真実の副作用だ」カイは言った。「俺は薬じゃない」


「薬になれ」グレイは言った。「お前には手がある。切って縫う手が。お前がいつもやってきたことだ。痛みを取り除いて、綺麗な部分だけ残す。人はそれで生きていける。お前が証明してきた」


雨が唇に触れて、鉄の味がした。カイはそれを舌で拭った。血じゃないのに血みたいだった。


「お前は俺に、また嘘を売れって言ってるのか」


「嘘じゃない」グレイは言った。「選択だ。都市のための選択。市民のための選択。お前のための選択だ」


ミナが静かに言う。「それは『管理』です。幸福の管理」


グレイは鼻で息を吐いた。「幸福は、野放しにすると暴れる。お前も見ただろ。自由にした痛みが、どれだけ人を壊すか」


カイの胸の奥で、何かが擦れた。機械じゃない。記憶でもない。削ったはずの場所が、空洞のまま鳴った。


「俺は、壊れた人間を何人も見た」カイは言った。「壊れたままでも、立ってた奴も見た」


「立ってたのは、嘘のおかげだ」グレイは言った。「忘れたからだ。お前が忘れさせたからだ」


雨が二人の間を線で埋めた。距離は縮まらない。縮めたら、どちらかが引き金を引く。引き金は金属で、戻らない。


グレイは手を広げた。掌は空だ。だが空の掌ほど危険なものはない。そこに何でも乗せられる。


「カイ。最後に一つだけ言う」グレイの声が少しだけ柔らかくなった。柔らかさは刃物に似ている。「人は辛い真実より、甘い嘘を選ぶ。お前もそうだった。だから生きてる。今度も同じだ。渡せ。お前は、まだ間に合う」


カイはポケットの中でカプセルを握り潰しそうになった。潰せば終わる。終われば追われない。終われば眠れるかもしれない。甘い嘘は、いつも手の届くところにある。


ミナの声が、雨の下から届く。「データは消せます。記憶は消えません。あなたが消えるだけです」


グレイの目が、カイの手元を見た。見えないものを見ようとする目だった。昔、同じ現場で同じ死体を見た目だ。


カイは息を吐いた。白い息は出ない。街の熱がそれを許さない。代わりに、肺の奥の煙が重く沈んだ。


「間に合うって言葉は嫌いだ」カイは言った。「いつも遅い」


グレイの口元がわずかに歪んだ。笑みじゃない。諦めでもない。チェックメイトの手前で駒を撫でる癖みたいなものだった。


「なら、遅くなる前に選べ」グレイは言った。「お前の地獄を。俺は、街の地獄を選ぶ」


雨が二人の靴を洗い続ける。洗っても、汚れは落ちない。錆は深い。ネオンはそれを美しく見せるだけだ。


カイは踵を返さなかった。まだ。背中を見せたら、それが最後の合図になる。代わりに、ポケットの中でカプセルを指先で回し、冷たさを確かめた。冷たいままなら、まだデータだ。温くなったら、記憶になる。


その境目は、いつも戻れない場所にある。



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記憶葬儀屋(メモリア・ブローカー) 深渡 ケイ @hiro12224

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