第6話:凍りついた時間

雨は屋根を叩くのをやめなかった。薄いトタンが鳴るたび、部屋の空気が少しずつ痩せていく。隠れ家は高架下の旧冷凍倉庫の一角だった。外のネオンが割れた窓ガラスに滲み、青と紫の筋が床の水たまりに揺れていた。かつて肉を凍らせていた場所だ。今は時間だけが凍っている。


カイは濡れたコートを脱がずに椅子へ沈んだ。革が冷たく、背中の芯まで水の匂いが染みた。煙草に火をつける。火口が赤く脈を打ち、煙が天井の配管へ這い上がっていく。配管の継ぎ目からは、古い冷媒の甘ったるい臭いがまだ残っていた。


机の上には携帯用のメモリ・デッキ。黒い樹脂の筐体が雨の湿気を吸って鈍く光っている。横に置かれた小さな真空ケースの中で、摘出した神経チップが眠っていた。死者の頭の中の残り香。触れれば崩れる砂糖菓子みたいなものだ。


ミナは部屋の隅で膝を折り、背中を壁に預けていた。軍用の骨格が無駄なく組まれた肢体。皮膚は人工の白で、濡れた髪が肩に貼りついている。目だけが乾いていた。瞳孔が微細に収縮し、机上のデッキへ焦点を合わせ続けている。


カイがケースを開けると、冷えた空気が指に噛みついた。神経チップをデッキに滑り込ませる。ロックが「カチ」と鳴る。安っぽい音のくせに、戻れない音だった。


ミナが手を伸ばし、デッキの側面にケーブルを挿した。端子が噛み合う金属音が、倉庫の静けさを一枚剥がした。


「劣化が進んでる」ミナの声は平坦だった。温度のない刃物みたいに、言葉が切れて落ちる。「残り、四十八時間。運がよければ六十」


カイは煙を吐いた。白い筋がネオンに染まって紫になる。煙はすぐ天井の冷たい空気に潰された。


「運は嫌いだ」


「好き嫌いは、ここでは変数にならない」


ミナはデッキを起動した。内部のファンが回り、乾いた回転音が床の水たまりに震えを走らせた。画面にノイズが走り、波形が立ち上がる。死者の脳が最後に残した電気の癖が、線になって踊った。


カイは片手を机に置いた。義手の関節が小さく軋む。軋みが、胸の奥のどこかと同じ音をしていた。妻の顔を思い出そうとすると、そこはいつも白い霧で埋まる。自分で霧をかけた。痛みの代わりに空白を選んだ。葬儀屋のくせに。


ミナが解析を進めていく。指先はほとんど動かない。目の中で処理している。軍用の演算が、死者の断片を殴って形にする。画面の波形が一瞬、規則正しく整列した。


「暗号層、ひとつ目」ミナが言った。「解ける。けど、代償がある」


カイは煙草を灰皿に押しつけた。湿った灰が黒い泥になる。


「言え」


ミナはケーブルを指で弾いた。金属が軽く鳴る。


「このチップ、二重に封印されてる。外側は遺族向けの“綺麗な編集”。内側は……別の誰かが触った痕跡。治安局の署名が混じってる」


カイの喉が、乾いた冷凍庫の空気を飲み込んだ。冷たいものが肺を撫でていく。グレイの顔が浮かびかけて、すぐに煙の向こうへ逃げた。


「グレイか」


「署名は個人じゃなくシステムの鍵」ミナは淡々と訂正した。「個人の罪にしたいなら、あなたの願望」


カイは笑わなかった。笑うと、何かが割れる気がした。


「開けるのか」


ミナは頷きも首振りもしない。ただ言った。


「開けると、外側の編集が崩れる。遺族に渡す“救い”は消える。復元はできない」


救い。忘れることの救い。カイはそれを売って生きてきた。死者の尊厳を守ると自分に言い聞かせながら、遺族の目から痛みを奪い、代わりに偽物の光を入れてきた。偽物でも、光は光だ。暗闇よりは。


机の上のデッキが、低く唸った。ファンの音が少し上がる。時間が削れていく音だった。


カイは指を伸ばし、デッキの縁を撫でた。樹脂の冷たさが指紋を奪う。


「外側は、誰のものだ」


「依頼人」ミナが言った。「死者の家族。あなたが受けた仕事の相手」


「内側は」


ミナの瞳孔がわずかに縮む。人工の虹彩が、ネオンの青を飲み込んで黒くなる。


「あなたの妻を殺した犯人の顔がある可能性。あなたが追ってる“根”に繋がる可能性。どちらも、確率でしかない」


確率。数字。データ。ミナの世界はいつもそうだ。カイの世界は、血の匂いと雨の冷たさと、誰かの声が喉の奥に残る感触だった。記憶はデータじゃない。痛み方が違う。


カイは立ち上がった。椅子の脚が濡れた床を擦り、嫌な音を立てた。窓の外で高架を走る車両が唸り、振動が壁のコンクリに伝わる。都市が、ここにも追いついてくる。


「遺族の救いを壊せば、俺はただの泥棒だ」


ミナは即答した。「あなたは最初から泥棒。死者から都合の悪いものを盗んで、都合のいいものを売ってる」


カイは黙って煙草をもう一本取り出した。火をつける指が少し遅れた。ライターの火が湿気で揺らぎ、何度か空を舐めてからようやく点いた。


「それでも、死者を汚すのは違う」


「汚すのは真実じゃない。隠すこと」ミナが言った。「あなたは隠す側にいた。今、隠されたものがあなたを噛む」


噛む。確かにそうだ。喉の奥に残る金属の味。あれは恐怖じゃない。怒りでもない。凍った時間がひび割れる前の、きしむ音だ。


デッキの画面に小さな警告が出た。劣化率が上がっている。波形が乱れ、ところどころ欠ける。死者の脳は、もう長くは持たない。


カイはミナの顔を見た。そこには涙も迷いもない。代わりに、ただ演算の静けさがあった。冷凍庫の冷たさに似ている。だがその冷たさは、壊れた感情機能のせいだけじゃない。彼女は彼女なりに、何かを守る設計で動いている。守る対象が人間じゃないだけだ。


「開けたら、戻れないな」


ミナは短く言った。「戻る場所があると思ってる?」


カイは煙を吐いた。煙はネオンに染まり、すぐに消えた。消えるのが救いなら、残るのは罰だ。


彼はデッキの操作パネルに指を置いた。義手の指先が、金属の感触を返さない。だが押す重さだけは分かる。押せば壊れる。壊せば見える。見えれば、もう眠れない。


「やれ」カイが言った。


ミナの指が動いた。ほんの数ミリ。だが倉庫の空気が変わった。デッキが低い唸りを上げ、画面のノイズが一瞬、白く弾けた。外側の編集が裂ける。きれいに整えられた波形が、乱暴に剥がされていく。


音がした。スピーカーから漏れる、湿った息のようなノイズ。誰かの声の断片が、凍ったガラスを擦る。


カイの背中に、冷たい汗が浮いた。雨の冷たさとは違う。体の内側から出てくる冷えだ。


画面に映像が立ち上がりかける。色がない。輪郭だけが先に来る。廊下のような狭い空間。蛍光灯のちらつき。床に落ちた水滴が、光を拾って点になる。靴音。遠い警報。何かが倒れる音。


そして、顔。


顔が、半分だけ現れたところで映像が歪んだ。データの端が焼け焦げた紙みたいに縮れ、暗号の残骸が画面に噛みつく。輪郭が崩れ、再びノイズに飲まれる。


ミナが淡々と告げた。「一部、開いた。けど完全じゃない。内側の鍵が強い。次の層を破るなら——」


「何を捨てる」カイが遮った。


ミナの視線がデッキから外れ、カイの胸元の内ポケットに止まった。そこに入っているのは、カイ自身のバックアップ・メモリ。彼が自分から抜き取った、いくつかの夜。妻の死に触れる手前で切り取った空白の周辺。痛みを回避するための保険。


「あなたの手持ちの鍵が必要」ミナが言った。「同じ署名。あなたの過去に、同じ層がある。そこを使えば通れる可能性が上がる」


カイの指がポケットの上で止まった。布の向こうに硬いケースの角。小さな棺だ。


「つまり、俺の記憶を燃料にする」


「記憶じゃない」ミナが言った。「データ。あなたが削った欠片。あなたが捨てたもの」


カイは笑いそうになって、やめた。口の端が少し動いただけで、苦い煙が喉に刺さった。


捨てたもの。捨てたはずのものが、今、鍵になる。皮肉は都市の基本構造だ。


デッキの警告音が短く鳴った。劣化率がまた上がる。死者の断片が、砂のように指の間から落ちていく。


カイはケースを取り出さなかった。まだだ。ここでそれを差し出したら、本当に戻れなくなる。戻る場所があるかどうかじゃない。戻れないと決めるのは、自分の指だ。


「今日はここまでだ」カイが言った。


ミナが首を傾けた。感情じゃない。計算の角度だ。


「時間はあなたの味方じゃない」


「味方なんて、最初からいない」


カイはデッキの電源を落とした。ファンの音が止まり、倉庫の静けさが戻る。戻った静けさは、さっきより重かった。画面の黒に、ネオンの青が薄く映り込む。そこに映る自分の顔が、知らない誰かみたいに見えた。


ミナはケーブルを抜き、神経チップをケースへ戻した。指先の動きが丁寧だった。葬儀屋の助手らしく、死者の残骸に礼儀だけは払う。


カイは窓の外を見た。雨がネオンを引き延ばし、街の光を線に変えていた。高架の下では水が溜まり、車のライトがそこに刺さって砕ける。都市は何も覚えていない顔で、同じ夜を繰り返す。


背後でミナが言った。「開いた断片、保存した。あなたが見た顔の半分。次は、残り半分」


カイは振り返らなかった。煙草の火が短くなり、指に熱が近づく。熱は確かだ。痛みも確かだ。データは冷たい。記憶は熱い。熱いものほど、手放すときに皮膚が剥がれる。


「半分で十分だ」カイが言った。


ミナが静かに返す。「嘘」


カイは煙草を床の水たまりに落とした。ジュッと音がして、火が即座に死んだ。小さな蒸気が立ち、消える。救いみたいに早い消え方だった。


彼はコートの襟を立て、椅子の背に掛けたままの濡れた重さを肩で受けた。冷凍庫の冷気が首筋に入り込む。凍った時間が、少しだけ動き出した気がした。動き出したものは、止められない。


机の上のケースが、ネオンの青を受けて鈍く光った。そこに入っているのは死者のデータだ。だが、この部屋に漂い始めたのは、誰かの記憶の匂いだった。錆と雨と、取り返しのつかない夜の匂い。



雨は止まなかった。止む気配すら見せない。配管の継ぎ目から落ちる水が、床の鉄板を叩いて、小さな銃声みたいな音を立てていた。


カイは端末の前に座った。スクラップ屋の奥、冷蔵庫みたいな遮蔽ケースの中で、再生装置が低く唸っている。ファンの回転が空気を削り、焦げた樹脂と錆の匂いをかき混ぜた。メモリ・カプセルは掌の上で冷たく、濡れた石みたいに重い。


ミナは背後に立ったまま、視線だけで装置の状態を追っている。軍用の関節が、微かな遅延で追従する。人間なら落ち着きのない仕草に見えた。


カイはカプセルをスロットに差し込んだ。金属が擦れて、短い悲鳴を上げた。


装置の表示が脈を打つ。同期。復号。再構成。文字が淡く滲み、雨の音に合わせて揺れた。


「劣化率、上昇。」ミナが言った。「再生は一回。二回目は砂。」


「一回で足りる。」カイは煙草に火を点けた。火種が赤く膨らみ、すぐに雨の匂いに呑まれた。


再生。


視界が裏返る。暗い部屋の鉄板が消え、代わりに、柔らかい光が頬を撫でた。空気が違う。洗剤と温いパンの匂い。窓の外には雨じゃなく、薄い陽があった。あり得ないほど、静かだった。


キッチン。小さなテーブル。安い木目の化粧板。カップから立つ湯気が、朝の光を裂いていく。


彼女がいた。


妻の髪は、濡れていない。頬には温度がある。笑うと、目尻に細い皺が寄る。カイの記憶の中で何度も死んだ顔が、ここでは生きていた。


「また徹夜?」彼女が言う。声は柔らかい。だが、柔らかすぎた。磨かれたガラスみたいに、引っかかりがない。


カイの手がカップに伸びる。指先が陶器の熱を拾う。温度が正確すぎた。熱い、の一段階手前で止まっている。


「仕事。」カイが答える。自分の声が、この場に馴染まない。乾いた砂が布に擦れる音みたいだ。


彼女は笑い、パンを皿に置く。バターの匂いが立つ。ナイフが滑り、薄い音を残す。すべてが整いすぎていた。生活の乱れがない。皿の欠けも、シンクの水垢も、床の小さな傷も。


窓の外を、鳥が横切る。羽ばたきが、音を伴わない。


カイは煙草を探した。ない。灰皿もない。代わりに、観葉植物の葉が艶々と光っている。葉の表面に、露が一粒もない。湿度の計算が、完璧すぎた。


妻が、カイの頬に指を当てた。指先は温い。だが、皮膚の下の微かな脈がない。触れているのに、触れられていない感覚。データの手触りだった。


「今日は、忘れないで。」彼女が言う。


その言葉が、部屋の空気を一瞬で冷やした。カイの喉の奥が、鉄の味を思い出す。忘れるな。忘れるな。誰が、誰に言わせている。


妻の背後、壁の時計が目に入る。秒針が滑る。だが、同じ位置を二度通った。ほんの一瞬、針が跳ねた。映像の継ぎ目。編集の縫い目。


カイはテーブルの下を見た。床の影が、光源に逆らっていた。影が先に動き、物が後から追いつく。遅延。同期ズレ。


「ミナ。」カイは口に出したつもりだった。だが、ここでは声が反響しない。音が壁に当たって戻らない。部屋は吸音材でできているみたいだった。


妻が、首を傾げる。あまりにも正しい角度で。


「あなた、疲れてる。」彼女が言う。「少し休もう。ここは、安全だから。」


安全。都市が好きな言葉だ。血の匂いを消すために使う。


カイは立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音がしない。足元の感触が、柔らかいのに硬い。ラバーの上に薄い氷を貼ったみたいな矛盾。


窓に近づく。外の街並みは、白い。建物が、模型みたいに均一で、看板の汚れがない。ネオンもない。電線もない。あの都市の空は、いつも煤と広告の光で汚れているはずだった。


窓ガラスに手を当てる。冷たくない。温室の壁だ。指先が滑り、微かな抵抗で止まる。透明な膜。外が、外じゃない。


背後で、妻が言った。


「カイ。見て。」


振り返ると、テーブルの上に、小さな黒いケースが置かれていた。いつの間に。ケースの表面には、政府の紋章。磨かれた金属が、朝の光を跳ね返す。


カイの胸が、無音で沈んだ。胃の奥が冷える。幸福な朝に、そんなものがあるはずがない。


ケースが開く。自分の手で開けたのか、誰かに開けさせられたのか、境界が曖昧だった。中には、細い針と、白いコネクタ。脳幹に刺すタイプの古い規格。医療用に見せかけた、教育用の杭。


妻が、椅子に座り直す。袖をまくる。腕の内側に、点々とした痕。注射痕じゃない。ポートの取り付け跡。皮膚の下に埋められた端子の輪郭が、薄く浮いている。


「これ、何だ。」カイの声が、ようやく部屋に傷をつけた。空気が震えた。だが、妻の表情は揺れない。


「テスト。」彼女が言う。「あなたのための。」


カイの目の端で、壁が一瞬だけ透けた。白い部屋の向こうに、別の白。天井に並ぶライト。ガラス越しの影。人影が、クリップボードを持っている。


幸福のセットの裏側。


妻が笑う。その笑いは、録音を薄く伸ばしたみたいに平坦だった。


「記憶は、痛いでしょう?」彼女が言う。「だから、痛くないものにするの。あなたは、喜ぶはず。」


カイは、彼女の目を見た。虹彩の中に、微細なノイズが走っている。走査線。圧縮の痕。生身の目じゃない。誰かが作った目だ。


彼女の後ろの壁に、白い文字が浮かび上がった。投影。ラベル。


《プロトコル:MEMORIA-PASTORAL》

《対象:Kai》

《挿入パッケージ:家庭・安定・服従》

《副作用:現実認識の鈍化》


文字はすぐ消える。だが、消え方が乱暴だった。消去じゃない。上書きの失敗。


カイの喉が鳴った。煙草の煙が欲しい。だが、ここには煙が存在しない。肺が空回りする。血が、現実の匂いを探している。


妻が立ち上がり、カイに近づく。距離が縮まるほど、彼女の輪郭が崩れる。肩の線が二重になる。唇の端が、ほんの一フレームずれる。完璧な幸福が、近づくと粗になる。


「ねえ。」彼女が言う。「ここにいよう。外は、危ない。」


外。危ない。だから、ここで眠れ。忘れろ。思い出すな。都市の声だ。


カイは、妻の肩を掴んだ。布の感触が薄い。指が沈まない。人間の肉の抵抗がない。手の中にあるのは、温度のついたデータだった。


「お前は……」カイは言いかけて、言葉を飲んだ。名前を呼べば、嘘に息を与える。


妻の背後で、ガラス越しの影が動く。白衣。腕章。治安局の色。グレイの部下か、もっと古い連中か。どちらにせよ、同じ匂いだ。消毒液と権力。


スピーカーが鳴った。天井から、乾いた男の声。感情のない、仕事の声。


「被験者、反応良好。拒否反応、検出。挿入強度、上げる。」


部屋の光が一段明るくなる。眩しさが、目の奥を刺す。妻の笑顔が固定される。瞳孔が、機械みたいに収縮する。


カイの頭蓋の内側に、冷たい指が入ってくる感覚が走った。誰かが、脳の棚を開けて、ラベルを貼り替えようとしている。妻の死が、棚から抜かれ、代わりにこの朝が押し込まれる。痛みの代わりに、管理された温度。


ミナの声が、遠くから割り込んだ。ノイズ混じりで、鉄板を引っ掻くみたいに。


「カイ。そこは映像。引き戻す。今。」


カイは、テーブルの黒いケースを掴んだ。重い。ここで初めて、物が本当の重さを持った。偽物の世界に紛れ込んだ、現実の塊。政府の道具は、いつも現実的だ。


ケースの角で、自分の手首を叩いた。痛みが走る。赤い線が浮かぶ。血は出ない。だが痛みは、データじゃない。痛みは、嘘を剥がす。


部屋がひび割れた。食パンの匂いが、急にプラスチックの甘さに変わる。光が、蛍光灯の白に変わる。床が冷たくなる。遠くで、機械の駆動音が唸る。


妻の顔が、最後に残った。笑顔のまま、像が荒れ、粒子に崩れる。その崩れ方が、あまりにも丁寧で、腹が立った。別れの演出まで用意してやがる。


彼女が、最後に言った。


「忘れて。」


カイの耳に、雨の音が戻った。鉄板を叩く水滴。ファンの唸り。焦げた樹脂。錆。煙草の煙が、やっと肺に入る。


視界が現実に固定される。端末の前。遮蔽ケース。ミナの無表情。装置のランプが赤く点滅している。


カイの手は、まだ空を掴んでいた。指の関節が白い。掌に汗。汗は冷たかった。


ミナが言った。「偽造記憶。政府の挿入実験ログ。あなたの妻は、素材にされた。」


カイは笑わなかった。代わりに、煙草の灰が、指先で崩れ落ちた。灰は鉄板に落ち、雨の水たまりに吸われて消えた。消えるのは簡単だ。消されるのも簡単だ。


端末の隅に、再生ログが残っていた。タイムコードと、署名。治安局の暗号鍵。グレイの部署のものじゃない。もっと上、都市の心臓部の鍵だった。


カイはその文字列を見た。見た瞬間、背中の皮膚が薄くなった気がした。ここから先は、戻れない。妻の死は、個人の悲劇じゃない。都市の仕様だ。


ミナが静かに言った。「消すなら、今。あなたの脳からも。追手は、これを探している。」


カイはカプセルを抜いた。指先が震え、金属が装置に当たって乾いた音を立てた。カプセルは、冷たさを増していた。凍った弾丸みたいだった。


彼はそれをポケットに入れた。布越しに、冷えが皮膚を噛んだ。


「消したら。」ミナが言う。「あなたは楽になる。都市も、静かになる。」


カイは立ち上がった。膝が鳴る。義手のモーターが低く唸り、噛み合いの悪さを隠さない。煙草を咥え直し、火を落とさないように掌で庇った。小さな炎が、雨の匂いの中で必死に揺れていた。


「静かは、死体に似てる。」カイは言った。


ミナが首を傾けた。「あなたは死体の仕事をしている。」


「だから、嫌いなんだ。」


端末の画面には、まだ白い部屋の残像が焼き付いている。幸福のセットの裏側。妻の笑顔のノイズ。あれは記憶じゃない。誰かが作ったデータだ。だが、胸の奥の痛みだけは、編集できない形で残っている。


カイは出口へ向かった。扉の隙間から、雨の冷気が刃物みたいに入ってくる。外に出れば、追手。中にいれば、忘却。選べるのは、どっちがマシな地獄かだけだった。


彼は扉を押し開けた。ネオンの光が濡れた路地に滲み、足元の水たまりに裂けて映った。冷たい雨が頬を叩き、現実の重さを教えてきた。


ポケットの中で、カプセルが静かに冷え続けていた。時間は凍ったまま、溶ける気配がない。



雨は止まなかった。止む気配もなかった。高架の裏腹で、排水溝が詰まった水たまりにネオンが割れて、赤と青が油膜の上で痙攣していた。カイはその光を踏んで歩いた。靴底が水を噛み、錆の味が喉の奥に戻ってくる。


ミナは数歩後ろをついてきた。軍用フレームの関節が、濡れた金属の擦過音を小さく撒き散らす。彼女の視線は周囲の暗がりを切り裂き、脅威の輪郭だけを拾う。追手の気配はまだ遠い。遠い、というだけだ。


カイは廃ビルの非常口を押し開けた。蝶番が泣き、冷えた空気が顔を殴った。階段室はコンクリートの湿気と古い消毒液の匂いが混じっていて、死体袋の内側みたいだった。上階へ上がるたび、遠くでジェネレーターが咳をする音が腹に響いた。


屋上のドアを開けると、風が雨粒を横から叩きつけた。都市の灯りが霧に滲み、遠景は水彩画みたいに溶けている。カイはパラペットの陰に座り込み、胸ポケットから小さなケースを取り出した。濡れた指で留め具を外す。中には、黒いチップがひとつ。死者の脳から抜いた、都合の悪い記憶。妻の死の顔。そこまでは、わかっていた。


問題は、その先だった。


ミナがしゃがみ、カイの側頭部のインターフェースにケーブルを差し込んだ。接続音は乾いていて、雨の音と噛み合わない。彼女はケースからチップを取り、掌で一度転がしてから、読み取り器に挿した。


「劣化が進んでる」ミナが言った。「再生回数は一回が限界」


「贅沢だな」カイは口の端だけ動かした。煙草に火をつける。湿った風が火を舐め、炎が一瞬だけ青く跳ねた。吸い込むと、肺が冷えた。吐いた煙は雨に叩かれ、すぐにちぎれて消えた。


ミナが再生を走らせた。


視界の端が白くノイズを噛んだ。耳の奥で、古いスピーカーみたいなハム音が鳴り続ける。カイの脳内に、他人の夜が流れ込んできた。映像は断片的で、角が欠けたガラスのように鋭い。


薄暗い室内。壁紙の剥がれ。窓の外のネオンが、雨筋を通して揺れている。テーブルの上に、白い花。彼の指がそれに触れる。指先の感触まで、他人の皮膚の温度で伝わってくる。


そして、彼女がいる。


妻。ミユ。


彼女は笑っていた。カイが知っている笑い方。口角の上がり方。頬の陰影。首筋に落ちる髪。あの細い指で、彼の頬をつつく癖。いつもと同じ。いつも、のはずだった。


だが、次の瞬間、映像が一度止まった。フリーズしたみたいに、彼女の瞳だけが妙に鮮明になった。瞳孔の奥に、微細な格子。カメラのセンサーのような規則性。人間の目にはない、冷たい整然。


カイの舌が乾いた。煙草の味が消え、金属の味だけが残った。


ノイズが走る。映像が巻き戻る。彼女が笑う。止まる。格子。巻き戻る。笑う。止まる。格子。


「……何だ、これ」カイの声は、喉の奥で擦れた。


ミナは瞬きもしない。「埋め込みタグ。合成記憶の署名」


カイは笑えなかった。頬の筋肉が固まったまま、ただ呼吸だけが荒くなる。風が雨を横殴りにし、彼のコートの襟から冷たさが背中へ滑り込んだ。


映像は続く。二人の食卓。湯気。安いスープの匂い。彼女が匙を口に運ぶ。彼が冗談を言う。彼女が笑う。——止まる。格子。——ノイズ。


次は、夜のベッド。薄いシーツ。彼女の背中の骨のライン。彼の手がそこをなぞる。肌は温かい。生きている温度。——止まる。格子。——ノイズ。


次は、彼女の葬儀の日。雨。白い棺。花の匂い。彼の胸が裂ける感覚。——止まる。格子。——ノイズ。


カイの指が、無意識に側頭部の接続部を押さえた。そこは冷たく、硬かった。自分の頭の中にあるものが、いつから自分のものじゃなくなったのか。あるいは最初から、そうだったのか。


「ミユは……」言葉が途中で折れた。


ミナが淡々と言う。「あなたの妻の記憶は、編集されている。あなたの側の記録も。同期してる。誰かが二人分を同じ型で作った」


カイは、雨の向こうの街を見た。ネオンは遠く、まるで他人の血管の中を流れる光みたいだった。喉の奥がひりつく。煙草を吸っても、何も埋まらない穴が開いている。


「じゃあ俺が……」カイは言いかけて、唇を噛んだ。噛んだところで痛みは遅れて来た。痛みまで鈍い。


ミナは答えない。答えなくてもいい。沈黙の形が、答えだった。


カイの脳内で、別の記憶が浮かび上がった。ミユと初めて会った日。雨上がりの路地。彼女が落とした傘。彼が拾った。手が触れた。——あの瞬間の、胸の奥の熱。


その熱が、今、冷凍庫に放り込まれたみたいに凍りついていく。熱が嘘なら、痛みも嘘だ。痛みが嘘なら、彼がここまで生きてきた理由も嘘だ。


彼は煙草を指で潰した。湿ったフィルターが指先に貼りつき、黒い汁が滲んだ。タバコの死骸。小さな葬儀。彼はそれを屋上の水たまりに投げた。赤いネオンが一瞬だけ火葬のように揺れ、すぐに沈んだ。


「誰がやった」カイは言った。声は低く、乾いていた。


ミナが視線を都市の中心へ向ける。霧の向こう、巨大な管理塔の輪郭がぼやけて見える。そこから伸びる通信線が、蜘蛛の糸みたいに街を縛っている。


「署名は市の標準」ミナが言う。「つまり、誰でも使える。けど、こんな精度で二人分を同期させるのは——」


「治安局か」カイが言った。


ミナは首を少しだけ傾けた。否定でも肯定でもない角度。「グレイなら可能」


カイの胃が冷えた。雨の冷たさとは別の冷え方だった。昔、相棒だった男。秩序のためにノイズを消す男。ノイズの中に、彼の人生が混ざっていた。


映像がまた跳ねた。今度は、妻の死の瞬間に近づく。暗い廊下。足音。銃声。彼女の身体が崩れる。血の匂い。鉄の匂い。——止まる。格子。——ノイズ。


そして、犯人の顔が映る寸前で、画面が黒く欠けた。データが腐っている。時間が、ここで凍りついている。


カイの喉から、乾いた息が漏れた。笑いに似ていて、笑いじゃない。雨が頬を伝う。涙と区別がつかない。区別がつかないことが、余計に腹立たしかった。


「犯人の顔も、嘘か」カイが言った。


ミナは答える。「顔のデータは、まだ残ってる可能性がある。だが、あなたが見たいのは顔じゃない」


「何だ」


「あなたの過去が本物かどうか」


カイはミナを見た。彼女の瞳はガラスみたいで、そこに雨粒が当たっても何も揺れない。その無感情が、今夜は救いでもあり、刃物でもあった。


「本物だったら、何だ」カイは言った。「偽物だったら、何だ」


ミナの声は変わらない。「本物なら、あなたは痛みを抱えて死ねる。偽物なら、あなたは痛みから解放される。どちらも地獄」


カイは立ち上がろうとして、膝が一瞬だけ言うことを聞かなかった。身体が、自分の所有物であることさえ怪しくなる。彼はパラペットに手をつき、濡れたコンクリートのざらつきを掌で確かめた。ざらつきは本物だ。冷たさも本物だ。だが、頭の中の温度は、誰かの手で調整できる。


「俺は、記憶を売って生きてきた」カイは言った。雨が唇に入り、塩気がした。「他人の人生から都合の悪い部分を抜いて、綺麗にして、金に換えた」


ミナが言う。「あなたは死者の尊厳を守ると言った」


「言ったな」カイは笑った。短く、乾いた音が喉で鳴った。「尊厳ってのは便利だ。何でも包める。血も、嘘も」


ミナはケーブルを抜いた。接続が切れると、脳内のハム音が消えた。静けさが来た。静けさは、慰めじゃない。空洞だった。雨音がその空洞に落ちて、底まで響いた。


「選択肢」ミナが言った。「あなたが今できるのは二つ。記憶の署名を辿って、編集元を探す。あるいは——」


「消す」カイが言った。


ミナが頷いた。「あなた自身の中の同期データを消去すれば、追手が狙う価値は下がる。あなたの妻の死も、平穏も、全部、ただの空白になる」


カイは屋上の端へ歩いた。下を覗くと、路地の水たまりが小さな鏡になって、彼の顔を歪めて映した。そこに見える男は、疲れた目をしている。だが、その疲れが本物かどうか、保証するものは何もない。


風が強くなり、コートがばたついた。背中の縫い目が濡れて重くなる。街のサイレンが遠くで鳴り、音が霧に吸われていく。追手は近づいている。時間は腐っていく。チップのデータはもう一度再生したら死ぬ。


カイはポケットの中で、もう一つの小さなカートリッジに触れた。自己記憶消去用のブランク。いつでも逃げられる、最後の出口。出口の先は、何もない部屋だ。


「ミユが偽物でも」カイは言った。声は雨に濡れた紙みたいに薄かった。「俺は、あの時間を生きた」


ミナが言う。「生きたのは、あなたの脳が再生した映像だ。データだ」


カイは振り向かない。「データはコピーできる。売れる。改ざんできる」


ミナが続ける。「記憶も、改ざんできる」


カイは指の関節を鳴らした。濡れた革手袋がきしむ。きしみが、妙に人間臭かった。「違う。記憶は、俺の中で腐る。匂いがする。夜中に勝手に疼く。金にならない」


ミナは黙った。彼女の沈黙は、理解じゃない。学習の音だ。


カイはケースを閉じた。チップを守るみたいに、手の中で一度握りしめる。プラスチックの角が掌に食い込み、痛みが走った。痛みは本物だった。少なくとも今は。


遠くでローター音がした。ドローンの羽音。雨を切る音が、だんだん太くなる。屋上の縁に赤いスキャン光が走り、濡れたコンクリートを舐めた。


ミナが言った。「来る」


カイは頷いた。視線は街の中心から逸らさない。管理塔は霧の中で光っている。あそこが心臓なら、この街の血は冷たい。


彼はブランクのカートリッジを取り出し、指先で回した。これを差せば、楽になる。追われる理由も消える。妻の死も、笑い声も、格子の瞳も、全部、ただの空白になる。空白は、痛まない。


だが、空白は葬れない。


カイはカートリッジをポケットに戻した。代わりに、黒いチップを内ポケットの奥へ押し込む。心臓の近く。熱が残っている場所へ。


「逃げるぞ」カイが言った。


ミナが立ち上がる。関節が雨を弾き、金属音が短く鳴った。「どこへ」


カイは屋上の縁を見た。下は地獄だ。上も地獄だ。選べるのは、落ち方だけ。


「編集した奴の墓場へ」カイは言った。「俺が葬儀屋なら、最後くらいは自分で片をつける」


ドローンの赤い光が、今度は彼の背中を捉えた。スピーカーから機械の声が漏れる。警告。投降。定型文。雨に濡れても意味は変わらない。


カイは走り出した。濡れた屋上を蹴り、鉄の階段へ飛び込む。足音が響く。雨が追いすがる。後ろでミナの金属音が重なる。


凍りついた時間は、まだ彼の頭の中にある。動かないまま、腐っていく。腐る匂いが、彼を前へ押した。戻れないことだけが、確かな手触りだった。



冷却庫の扉が閉まると、外の街の騒音は薄い膜の向こうに押し込められた。代わりに残ったのは、循環ファンの乾いた唸りと、配管を走る冷媒のかすれた鳴き声だった。空気は金属の舌触りがした。吸い込むたび、肺の奥が小さく軋む。


カイは壁際のベンチに腰を落とした。樹脂の座面が冷え切っていて、コート越しに体温を奪っていく。ネオンはここまで届かない。天井の蛍光灯が白い死体みたいな光を落として、床の水たまりを銀紙に変える。雨は靴底からまだ滴っていた。


掌の中のメモリカプセルが、やけに重い。小さな円筒のくせに、妻の死体より重い顔をしている。カイはそれを見ないように、指で転がした。指先の感覚だけが、現実に縫い止めてくる。


背後でミナが立っていた。軍用の骨格が微かな駆動音を漏らす。氷点下の空気でも、彼女の皮膚は温度を持たない。無機質な黒い瞳が、カイの首筋を見ていた。


「追跡信号は遮断できている」ミナが言った。


カイは返事をしなかった。喉の奥に、錆びた釘が刺さっているみたいだった。息を吐くと白い霧が出た。霧が揺れて、すぐに消えた。


時間が凍っていた。凍った時間の中で、カイだけがじわじわと腐っていく。


ミナの視線が少しだけ下がった。カイの胸の辺りに、何か見えない計器でもあるみたいに。


「心拍数」ミナが言った。「異常」


その言葉は、診断結果みたいに乾いていた。カイの指がカプセルを握り潰しそうになった。プラスチックが軋む音が、冷却庫の壁に跳ね返った。


「壊すな」ミナが続けた。「それは証拠だ」


「証拠は、墓に入れるもんじゃない」カイは言った。声が自分のものに聞こえなかった。冷たい床から立ち上る湿気が、舌にまとわりつく。


ミナは一歩近づいた。足音がしない。代わりに、関節の微かなクリックが耳に刺さる。彼女はいつも通りの距離感で止まるはずだった。だが、その日は違った。


ミナの手が、カイの肩に乗った。


重さはない。温度もない。けれど、指の配置が妙に慎重だった。銃を構えるときの手つきじゃない。解体するときの手つきでもない。壊れた機械が、壊れたやり方で「触れる」を再現している。


カイの肩の筋肉が反射で硬くなった。逃げたいのに、逃げる先がない。冷却庫の白い光が、二人の影を床に貼り付ける。影だけが、少し震えていた。


「論理的に言えば」ミナが言った。「あなたはここで休息を取るべきだ。心拍数の変動は判断を鈍らせる」


カイは鼻で短く笑った。笑いはすぐに咳に変わった。咳のたび、胸の奥で何かが擦れた。血の味がした。


「慰めのつもりか」


ミナの指が、ほんのわずかに沈んだ。肩の布地が擦れる音がした。氷の中で布が鳴く、嫌な音だった。


「慰めは機能ではない」ミナが言う。「だが、あなたの心拍数は……あなたが痛みを保持していることを示す。保持は、あなたの選択だ」


カイはカプセルを見た。透明な樹脂の奥で、データは無言で眠っている。そこにあるのは「記録」だ。編集できる。切り貼りできる。売れる。捨てられる。


でも、胸の奥で暴れているのは、記録じゃない。ファイルじゃない。開けば済むものじゃない。閉じても消えないものだ。


ミナの手は、まだ肩にある。機械の慰めは、不器用で、冷たい。冷たいのに、カイの体はそれを振り払えなかった。振り払ったら、次に何を握ればいいのか分からなかった。


「グレイは、お前みたいに言う」カイが言った。「ノイズは消せって」


「私は消せる」ミナが言った。「あなたの心拍数を安定させる薬剤もある。あなたの脳内の該当領域を抑制する手段もある。あなたが望むなら」


カイは目を閉じた。妻の顔は思い出せない。自分で削ったからだ。代わりに、削り残した輪郭だけが脳の裏側で疼く。そこに、今日拾った「犯人の顔」が滑り込もうとしている。データは、記憶になりたがっている。


「望まない」カイは言った。


言った瞬間、肩の上のミナの指が僅かに動いた。確認するみたいに。あるいは、学習するみたいに。


「理解した」ミナが言った。「あなたは、より悪い選択肢を選んだ」


カイは目を開けた。蛍光灯の光が刺さった。冷たい汗が背中を流れて、すぐに冷えた。


「マシな地獄だ」カイは言った。


ミナは手を離さなかった。離し方が分からないみたいに、そこに置いたままだった。冷却庫のファンが唸り続ける。時間は凍ったまま、少しだけ亀裂を入れた。


カイは立ち上がった。肩に残る指の感触が、薄い痕みたいに付いてくる。カプセルを内ポケットに滑り込ませると、心臓がまた乱れた。胸の中で、何かが「保存」から「再生」に変わろうとしている。


ミナの黒い瞳が追ってくる。


「行くぞ」カイが言った。


「追手は近い」ミナが言った。「あなたの心拍数も」


カイは扉の取っ手に手をかけた。金属が皮膚に貼り付くほど冷たい。外に出れば雨だ。ネオンだ。銃声だ。戻れない道だ。


それでも、肩に置かれたあの冷たい手が、最後の引き返し口を塞いだ気がした。慰めにもならない慰めが、背中を押していた。



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