第5話:裏切りの報酬

雨はこの街の古い癖だった。ネオンの血管を伝って落ち、錆びた排水溝に黒い泡を作る。カイはフードの縁から滴る水を指で弾いた。指先に残るのは冷えた水じゃない。金属の味がする湿気だ。


路地の奥、看板の半分が死んだバーの裏口。扉の隙間から漏れる音は、ベースの低い唸りと、古い換気扇の咳。煙草の煙が湿った空気に絡みつき、甘い樹脂の匂いで喉の奥をざらつかせる。


ミナは雨を嫌がらない。嫌う機能がない。濡れた合成皮膚にネオンが滑り、軍用フレームの継ぎ目だけが鈍く光った。歩幅は正確で、靴底が水溜まりを切る音まで均一だった。


「ここだ」カイは短く言った。


裏口の錠は古い。ピックを差し込む必要もない。掌で押せば、湿った木が呻いて開いた。中は暖かい。暖かいだけで、清潔じゃない。床にこびりついた酒と血の匂いが、甘い香料に誤魔化されている。


カウンターの端に、情報屋がいた。背中を丸め、指先でグラスを転がしている。爪がガラスを擦る乾いた音が、音楽より目立った。彼の名はリュウ。街の裏側の穴を知ってる男の目をしていた。だが今日は、穴の縁で落ちかけている目だ。


「遅かったな」リュウが言った。笑いは薄い。歯の間に煙草のヤニが見えた。


カイは濡れたコートの裾を払わない。払えば、こっちが客になる。ここでは客は弱い。


「時間は売ってない」カイ。


リュウの視線がミナに滑った。人間の視線は、いつも値札を探す。ミナには値札がない。あるのは規格番号と、消えない傷だけだ。


「例のメモリ、まだ生きてるのか?」リュウ。


カイの胸の内側、内ポケットの奥で、冷たいカートリッジが存在を主張した。熱を持たない小さな墓石。そこに入ってるのは“顔”だ。妻を殺したものの顔。データとしては軽い。記憶としては重い。重さは、持ち主の骨を折る。


「生きてる」カイは答えた。声は乾いてる。乾いてるのに、喉の奥が錆びる。


リュウが肩をすくめた。「なら、買い手はつく。お前が思ってるより高くな」


「売らない」カイ。


「じゃあ、捨てろ」リュウはグラスを回した。「この街はな、真実で腹が膨れない」


ミナが横から言った。「真実はノイズ。ノイズは処理対象」


カイはミナを見ない。見れば、そこに映るのは正解だ。正解はいつも冷たい。


「場所を教えろ」カイ。「局の動き。グレイの手がどこまで伸びてる」


リュウの舌が唇を湿らせた。雨の湿気じゃ足りない、乾いた仕草だった。「伸びてるさ。お前の首まで」


カイはポケットから小さなチップを出し、カウンターに滑らせた。濡れた指の跡が残る。チップは金属の板みたいに冷たく、リュウの指が触れた瞬間、彼の喉が動いた。


「これで?」リュウ。


「前金だ」カイ。「残りは、出口まで案内したら」


リュウは笑った。笑いが短すぎて、笑いにならない。


そのとき、バーの奥のスピーカーが一瞬だけノイズを吐いた。音楽が途切れ、代わりに聞こえたのは、床下から伝わる低い振動。重い靴が水を踏む音じゃない。建物の外側を囲む規則的な圧。壁が呼吸を止める前の静けさ。


ミナの首が僅かに傾いた。耳の内側のセンサーが拾うものは、人間の不安より早い。


「接近。複数。装備重量大」ミナ。


リュウの顔色が一段落ちた。彼はグラスを置く手が震えた。震えを隠すために、わざと大きく腕を動かす。そういう動きは、裏切りの匂いがする。


カイは何も言わず、コートの内側に指を入れた。冷たい金属の感触。銃はいつも嘘をつかない。弾があるかないかだけだ。


「お前、呼んだのか」カイの声は低い。怒りじゃない。確認だ。怒りは後でいい。生き残ったら。


リュウは目を逸らした。「違う。違うって言ったら信じるか?」


「信じない」カイ。


外で何かが割れた。ガラスが雨に混じって散る音。次に、扉が叩かれた。木が悲鳴を上げ、蝶番が軋む。バーの客が一斉に伏せる。椅子が倒れ、ボトルが転がる。酒の匂いが一気に広がり、湿った空気が甘く腐った。


「治安局だ!」拡声器の声が壁を叩いた。「武器を捨てろ!抵抗するな!」


リュウが唇を噛んだ。噛みすぎて血が滲む。血は赤い。ネオンより生々しい。


カイは一歩引いた。背中に冷たい壁。壁紙が剥げ、指に紙の繊維が絡む。出口は裏口だけじゃない。厨房の奥、ゴミ捨て場に繋がる鉄扉がある。だが、鉄扉は音が出る。音は死ぬ。


ミナがカイの横に立った。目は乾いたガラスみたいで、そこに恐怖は映らない。映るのは計算だけだ。


「最適解。メモリを破棄。投降」ミナ。


カイは息を吐いた。煙草の煙じゃない。白い息が、ネオンに染まる前に消える。


「その最適解は、俺の墓も掘る」カイ。


扉が破られた。木片が飛び、雨が室内に吹き込む。ネオンの光が裂け目から差し込み、床の水溜まりに紫と青の刃を作る。そこへ黒い影が流れ込んだ。防弾プレート、フェイスシールド、肩に治安局の紋章。銃口の先にレーザーサイトの赤い点が踊る。赤い点は虫みたいに増えていく。


カイは先に撃った。音は乾いた破裂。反動が手首を叩き、火薬の匂いが鼻を刺す。最初の一発が盾に当たって弾け、火花が散った。火花が床の酒に落ち、青い炎が一瞬だけ舌を出す。


返ってくる弾は、壁を削り、ボトルを砕き、ガラスの雨を降らせた。銃声がバーの狭い空間で跳ね返り、耳の奥を殴る。音楽はもう死んでいる。代わりに流れるのは金属と火薬のリズムだ。


ミナが動いた。人間の動きじゃない。機械の加速。床を蹴り、カウンターを滑り、飛び出してきた局員の銃身を掴む。合成指が金属を捻り、嫌な音がした。銃が曲がる音。局員の腕が折れる音。どっちが先かは重要じゃない。結果だけが残る。


局員が叫ぶ。叫びはヘルメットの内側でこもり、獣みたいになる。次の瞬間、ミナの膝が彼の胸に入った。プレートが凹み、空気が吐き出される。男は床に落ち、雨水と酒に顔を浸した。


カイはカウンターの影から撃つ。狙いは膝。殺すより、動きを止める。弾は肉を裂き、血が床に広がる。血は雨に薄まり、赤い水になる。赤い水は排水溝へ向かう。街は血を飲み込むのに慣れている。


「カイ!」リュウが叫んだ。声が裏返ってる。「俺は——」


カイはリュウを見た。リュウの手には、通信端末。画面が光っている。送信中の表示。相手は一つじゃない。複数の暗号化チャンネル。売り先を選んでる手だ。


カイの銃口がリュウに向いた。銃口の黒い穴は、言葉より正直だ。


「報酬は?」カイ。


リュウの喉が鳴った。「生き残るためだ。お前だって——」


「俺は自分を売る」カイ。「他人の死体は売らない」


言い終える前に、天井の一部が吹き飛んだ。閃光弾。白い光が視界を焼き、耳が一瞬無音になる。無音の中で、心臓の鼓動だけが重く響いた。次に遅れて爆音が来る。鼓膜が破れたみたいに世界が歪む。


カイは目を細め、涙で滲む視界の中で影を探した。赤いレーザーがまた増える。局員が二手に分かれ、包囲を作る。訓練された動き。グレイの匂いがする。無駄がない。慈悲もない。


ミナがカイの腕を掴んだ。握力は痛みを与えない程度に正確だ。だが、痛みがないのが逆に怖い。


「退路。厨房」ミナ。


カイは頷き、カウンターを蹴って身を低くした。弾が頭上を切り、壁のネオン看板の配線を裂く。火花が雨に散り、焦げたプラスチックの匂いが立つ。匂いは記憶を呼ぶ。妻の髪が焦げた匂い。思い出じゃない。データの断片が嗅覚に刺さる。


カイは歯を食いしばった。食いしばる音が自分の頭の中で鳴る。痛みが現実に引き戻す。記憶は痛い。データは冷たい。冷たいものは、削除できる。痛いものは、残る。


厨房へ飛び込むと、油の匂いが鼻を殴った。古いフライヤーの油。洗いきれない獣の脂。床は滑る。雨水と油が混ざって、足が取られる。ここで転べば終わりだ。


ミナが先に入り、棚を蹴り倒した。鍋が落ち、金属が鳴り、局員の足音を一瞬だけ乱す。乱れた一瞬が命を延ばす。延びた命は、別の代償を要求する。


カイは鉄扉に手を伸ばした。取っ手は冷たい。開けるときの音が頭に浮かぶ。金属が擦れる音。鍵が鳴る音。音は追手に道を教える。


背後でリュウが転がり込んできた。顔に血。血が雨で薄まり、ピンクの筋になっている。


「頼む!」リュウ。「ここから出してくれ!俺は——」


カイは扉を開ける手を止めた。止めた時間が、銃声に換算される。局員の靴音が近い。盾が床を擦る音。無線の短い指示。グレイの声じゃないが、グレイの言葉だ。


ミナが言った。「彼は追跡ビーコン。除去が必要」


リュウが首を振る。「違う!違うって——」


カイはリュウの胸元を見た。ジャケットの内側に、小さな膨らみ。局のタグ。雨に濡れても光る薄いLED。裏切りの報酬は、いつも小さい。命より小さい。


カイは銃を下げたまま、リュウの襟を掴んだ。指に布の湿り気と体温が伝わる。生きてる温度。だが、その温度は他人の死を運んでくる。


「選べ」カイが言った。「ここで俺に撃たれるか。外で局に拾われるか」


リュウの目が泳いだ。泳いだ目は、もう岸に戻れない。


「……金だ」リュウが吐いた。「俺は、金しか——」


カイは頷いた。理解じゃない。判決だ。


銃声は一発だけ。乾いた音が厨房の油に吸われ、鈍く響く。リュウの体が床に落ち、油と雨水が混ざった液体に血が広がった。血は温かい。温かいものは、すぐ冷える。この街では。


ミナがリュウの胸元からタグを引きちぎった。プラスチックが割れる音。LEDが消える。消えるのは光だけだ。やったことは消えない。


局員が厨房の入口に影を落とした。盾の縁が見える。銃口が覗く。赤い点がカイの胸に止まる。


カイは鉄扉を引いた。金属の悲鳴が鳴る。鳴った瞬間、背中に弾が当たる気配がした。だが当たったのは扉の縁だ。火花が散り、熱が頬を舐めた。


外は路地。雨が顔を叩く。空気が冷たい。冷たさが肺に刺さり、火薬の煙を洗い流す。だが洗い流せない匂いが残る。油と血と、裏切りの甘さ。


ミナが後ろから出て、扉を半分閉めた。閉めきらない。閉めきれば、局が扉を撃ち抜く。半分開けておけば、次に投げ込まれるのは閃光弾じゃなくなる。選択肢はいつも悪い。


「追跡、再開まで十六秒」ミナ。


カイは走り出した。靴が水を叩き、路地の水溜まりが跳ねる。ネオンが雨に滲み、街全体が泣いているみたいに見える。泣いているのは街じゃない。街は泣かない。泣くのは、そこに残されたものだ。


胸の内側で、メモリカートリッジが冷たく鳴った気がした。データは黙っている。黙っているくせに、重い。重さは、捨てれば軽くなる。捨てれば、平和になる。平和は、管理された幸福の味がする。


カイは雨の中で舌打ちした。幸福はいつも、口の中で錆びる。


背後で、厨房の鉄扉が完全に破られる音がした。金属が裂ける叫び。続いて、局員の足音が路地に溢れてくる。追跡の靴音は、雨のリズムと混ざらない。異物として響く。


カイは角を曲がり、ネオンの看板の下を潜った。光が一瞬、彼の濡れた頬を青く染めた。青は冷たい色だ。冷たい色は、消去の色だ。


消去するか、晒すか。どちらも地獄だ。


カイは地獄の中で、少しでもマシな火を探して走った。



路地裏の雨は、上から落ちるというより、ネオンを削って流れていた。看板の紫が水たまりに溶け、靴底に貼りつく油膜が虹を作る。カイのコートは湿気を吸って重くなり、煙草の火だけが乾いた赤を保っていた。


ミナが一歩先を歩く。軍用の脚部は静かで、濡れたアスファルトの上でも滑らない。人間の足音だけが、夜の底でみっともなく鳴った。


「時間がない」ミナが言った。声は雨と同じ温度だった。


カイは答えない。ポケットの内側で、薄いカプセルが指に当たる。死者の脳から抜いたメモリ片。そこに妻の最後がある。データは冷たいはずなのに、指先だけが熱を持つ。劣化は進む。時間は、どんな嘘にも優しくない。


路地の奥、廃棄された配電盤の影に、情報屋がいた。痩せた男で、目だけがやたらと光っている。顔の半分は安物の皮膚パッチで繕われ、継ぎ目が雨を吸って黒く膨らんでいた。彼は手を上げた。指は震えていた。寒さのせいじゃない。


「遅いぞ、葬儀屋」情報屋は笑った。歯の間に金属の欠片が光る。「この街じゃ、遅い奴から死ぬ」


カイは距離を詰めない。暗闇の匂いを嗅ぐ。錆、オゾン、古い血。どれも馴染みすぎている。


「顔だ」カイが言った。短く。


情報屋は喉を鳴らした。「見たんだろ。お前の奥さんの——」


ミナが半歩、横にずれた。視線だけが路地の上をなぞる。空調ダクトの影。広告パネルの裏。雨粒の落ち方が一瞬だけ変わる場所。


「狙われています」ミナが言った。


情報屋の笑いが引きつった。「俺じゃねえ。今日は客だ。金も——」


言葉が最後まで形にならなかった。


乾いた破裂音。雨の音が一瞬、穴を開けられたみたいに途切れた。情報屋の胸元が跳ね、安い皮膚パッチが裂けた。中の肉が赤く開き、そこから黒い血が噴いた。弾は彼を通り抜け、背後の配電盤に当たって火花を散らした。焦げた匂いが雨に混じって鼻を刺す。


情報屋は膝をついた。手のひらが水たまりに沈み、指の間から泡が出た。口を開けようとして、咳き込み、血が雨に薄まっていく。


カイは動いた。銃は抜かない。情報屋の襟を掴み、背中を配電盤に預けさせる。濡れた布越しに、体温が落ちていくのがわかる。人間は、切られた回線みたいに静かになる。


ミナはすでに路地の出口を見ている。目が、狙撃線を計算している。彼女の手首がわずかに回転し、内蔵ブレードのロックが外れる音がした。小さな金属音が、やけに大きく聞こえた。


「場所、変えるべきです」ミナ。


カイは情報屋の顔を覗き込んだ。男の瞳孔が開き、ネオンの紫を飲み込んでいく。口の端が痙攣し、言葉を探している。


「喋れ」カイが言った。命令じゃない。祈りにもならない、ただの事実だった。


情報屋は笑おうとして失敗した。血が歯の金属に絡み、雨で洗われて落ちていく。


「……顔……」男は喘いだ。喉が鳴るたび、胸の穴から空気が漏れて、湿った笛みたいな音がした。「お前……見たんだろ……」


カイの指が、男の胸の裂け目を押さえる。無駄だとわかっている。無駄でも、手を離すと何かが終わる。終わったものを、終わったと認めるのが仕事のはずなのに、今はそれができない。


「誰だ」カイ。


情報屋の目が、ミナを一瞬だけ見た。機械を見る目じゃない。羨望でも恐怖でもない。ただ、羨ましいほどの空っぽを見た。


「……教える……」情報屋は息を吸った。吸えないはずの空気を、無理に肺に引きずり込む。「……でもな……」


また銃声が鳴った。今度は壁を削り、コンクリの粉が雨に混じって舞った。ミナがカイの肩を引き、影の深い位置に押し込む。彼女の力は正確で、容赦がない。カイの背中が冷たい壁に当たり、息が少しだけ詰まった。


情報屋はそのまま、地面に滑り落ちた。雨が彼の頬を叩き、涙みたいに見える。だがそれは街の水だ。誰の感情も混ざっていない。


カイは膝をつき、男の口元に耳を寄せた。耳朶に雨が当たり、冷えた針みたいだった。


情報屋の唇が動く。声はほとんど空気だった。それでも、言葉だけは刃物みたいに通った。


「……何も……知らないほうが……幸せだった……」


その言い方には、忠告の形をした呪いがあった。知る前に戻れないことを、死にかけの舌で確かめるような。


カイの煙草が指の間で濡れて、火が消えた。赤が消えると、路地は一段暗くなった。情報屋の瞳から光が抜け、紫のネオンがただの反射になる。


ミナがカイの肩越しに言った。「彼の心拍、停止。回収すべき情報は失われました」


カイは情報屋の襟から手を離した。指先に付いた血が雨で薄まり、排水溝へ流れていく。記憶は、そこには流れない。流れるのはデータだけだ。意味のない赤と、意味のあるゼロとイチ。


路地の向こうで、ドローンのローター音が近づいてきた。低い唸りが、雨粒を震わせる。治安局の機械は、いつも遅れて正確に来る。


ミナが言った。「次の選択を。ここに残れば、あなたは回収されます」


カイは情報屋の死体を一度だけ見た。男の口は半開きで、最後の言葉が雨に流されないように噛み締めているみたいだった。


「幸せってのは」カイは呟いた。誰に向けたわけでもない。声は雨に吸われた。「知らないことで買えるほど安くない」


ミナが無言で、逃走経路を示すように路地の反対側へ身体を向けた。


カイは立ち上がり、ポケットのカプセルを握り直した。濡れたプラスチックの感触が、妙に生々しい。もう後戻りはできない。知らないほうが幸せだったとしても、知った手は、元の形に戻らない。


ドローンの唸りが頭上に迫る。ネオンが雨に滲み、街がいつもより近く、いつもより冷たく見えた。カイはミナの背中を追って走り出した。足音が水を裂き、路地の暗がりに、消えない影を引きずっていった。



非常灯の赤が、廊下の血管みたいに脈打っていた。カイの靴底が水たまりを裂くたび、薄い油膜が揺れてネオンの残像を歪めた。換気口からは焼けた樹脂の匂い。遠くでタレットのサーボが小さく唸り、都市の心臓がどこかで規則正しく回っている音がした。


背後の扉が閉まる。自動ロックの乾いた噛み合い。もう戻れない、と言う音だった。


ミナは先を歩いた。軍用の骨格が、濡れた床に鈍い金属音を落とす。首の後ろのポートが開き、細いケーブルが蛇みたいに伸びた。壁面のメンテナンス端子に刺さる。火花が一瞬、青く跳ねた。


「三十秒」ミナが言った。


「十分だ」カイは答えた。十分じゃないことは、二人とも知っていた。


廊下の突き当たり、監視カメラが赤い瞳を動かした。カイはコートの内側に指を入れ、冷えた記憶カートリッジの角を確かめる。妻を殺した顔が、そこに圧縮されて眠っている。データは軽い。記憶は重い。重いほうが、いつも人を沈める。


ミナの指が空中で忙しく踊った。視界の端で、彼女の瞳の虹彩が微細に収縮する。内部で何かが走っている。電子の足音。


「局のバックボーンに入った」ミナが言った。「この建物の電力制御は二重化されてる。停電は五秒が限界」


「五秒で十分だ」カイは言うしかない。


遠くで、靴音が増えた。湿った床を叩く規則的なリズム。治安局のブーツは、いつも同じテンポで人を追う。焦りも迷いも、規格外だからだ。


角を曲がると、広いサーバールームが口を開けていた。ガラス越しにラックが並び、青白いLEDが星座みたいに点滅している。冷却ファンの風が、汗を奪っていく。冷たい空気の中に、オゾンと埃と、古い金属の匂いが混じっていた。


ミナがケーブルを引き抜いた。端子が小さく泣いた。


「今」彼女が言った。


次の瞬間、世界が息を止めた。


青白い星座が一斉に消える。ファンの唸りが途切れ、空気が急に重くなる。ネオンの滲みも、非常灯の赤も落ちた。暗闇が、濡れた布みたいに二人に被さった。


停電は、音を裸にした。遠くの足音が近くなる。銃の安全装置が外れる金属音。誰かの無線がノイズ混じりに叫ぶ。だが言葉は途切れ途切れで、意味になる前に溶けた。


カイは暗闇に目を慣らしながら、手を伸ばした。ミナの腕を掴む。彼女の皮膚は冷たく、人工の滑らかさが雨より冷える。彼女は抵抗しない。ただ、必要な方向へ体を向ける。


「右だ」カイが言った。


「左のほうが最短」ミナが返す。


「最短は罠だ」


「あなたの勘は統計的に—」


「黙れ」


ミナは一拍だけ沈黙した。学習する機械が、黙ることを覚えたみたいだった。


カイは暗闇の中で壁を探る。指先が冷たい金属の継ぎ目を撫で、非常用のハッチの縁に当たる。鍵穴は電子式だ。生きてる時は。今は死んでいる。


「開ける」カイは囁いた。


彼はツールを出し、ハッチの隙間に差し込む。金属が軋む音が暗闇に大きく響く。誰かが気づく。だが気づいたところで、灯りがない。


ミナが背後を向いた。暗闇の向こうに、微かな光が揺れた。銃のレーザーサイトが赤い線を引いている。追手は暗闇でも狩れる装備を持っている。


「熱源スキャンが来る」ミナが言った。


「なら、熱を捨てる」


カイはコートの内側から小さな冷却カートリッジを取り出し、床に転がした。乾いた音。すぐに白い霧が吐き出され、床を這う。冷気が足首に絡み、皮膚が痛むほど冷たかった。霧は熱を飲み込み、スキャンの目を曇らせる。


ハッチが開いた。暗い穴が現れる。下から湿った空気が上がってきた。下水の匂い。錆と腐敗と、甘い化学薬品の残り香。都市の腹の匂いだった。


「先に行け」カイが言った。


「合理的ではない」ミナが言う。「あなたが先のほうが—」


「俺が落ちたら、あのメモリも落ちる」


ミナの顔は暗闇で見えない。それでも、彼女の首のサーボが微かに鳴った。ため息の代わりに。


彼女は穴に滑り込んだ。金属の梯子が小さく震え、彼女の重量が下へ消える。カイは背後を振り返る。霧の向こうに、影が三つ。赤い線が霧を刺し、壁を舐めた。


「動くな!」誰かが叫んだ。声は若い。喉が乾いている。撃つ理由を探している声だ。


カイは動いた。動かないのは、死ぬ時だけだ。


彼は穴に足をかけ、体を落とした。梯子の冷たさが掌に噛みつく。上で銃声が鳴った。暗闇が閃光で裂け、金属に弾が当たる甲高い音が耳を刺す。火花が降り、頬に熱い点を残した。


「五秒」ミナが下で言った。


「数えるな」カイは言いながら降りた。数えたら終わる。終わりが近づく音を聞きたくない。


頭上で、電力が戻る予兆がした。どこかでコンデンサが充電される低い唸り。都市が再び息を吸う音。


光が戻る前に、カイはハッチを引いた。重い金属が軋み、閉まる。上から、ブーツが縁を叩く音。誰かが手を伸ばす音。間に合わなかった音。


次の瞬間、上の世界が白く明るくなった。ハッチの隙間から光が漏れ、細い刃みたいに下の闇を切った。無線が鮮明になる。怒号がはっきり聞こえる。グレイの声ではない。だが、グレイの秩序がそこにある。


「封鎖しろ。下層へ逃げた」


カイは梯子を最後まで降り、足が水に浸かった。冷たい。臭い。膝まである。下水の水がコートの裾を吸い、重くする。重さが、逃げる人間にだけ課される罰みたいだった。


ミナは狭い通路の先で待っていた。暗視の瞳が淡く光り、滴る水が頬を伝っても拭わない。彼女の手には、さっきのケーブルが巻かれている。盗んだ鍵みたいに。


「停電は成功」ミナが言った。「ただし、侵入ログは残った。追跡は早い」


「消せなかったのか」


「消すには時間が要る」ミナは淡々と言った。「時間はあなたが最初に売った」


カイは笑わなかった。笑うと、肺に臭い水が入る気がした。


「行くぞ」


二人は下層の闇へ歩き出す。頭上の都市は、何事もなかったみたいに光っているだろう。だがカイのポケットの中のカートリッジは、じわじわと熱を持ち始めていた。データは劣化する。記憶は腐る。腐った匂いは、いつも追ってくる。


背後から、金属が叩かれる音が響いた。ハッチが開けられる音。光が下水道に落ちてくる。追手の影が、水面に伸びた。


カイは足を速めた。水が跳ね、冷たさが脛に痛みを残す。ミナの機械脚が水を切り、規則正しい音を刻む。逃げる音は、どこまで行っても同じだ。


「カイ」ミナが言った。「次の分岐。右は排水ゲート。閉鎖中。左は旧メモリ焼却炉の区画。熱源が多い。追跡を乱せる」


「焼却炉か」カイは呟いた。記憶を燃やす場所。仕事場みたいな地獄だ。


どっちも地獄だった。マシなほうを選ぶしかない。


「左だ」


ミナが頷き、暗闇の中へ先に踏み込む。カイは一瞬だけ振り返る。上から落ちる光が、水面に揺れている。その揺れが、遠い昔の海みたいに見えた。妻と歩いた夜の、濡れたアスファルトの反射みたいに。


それは記憶じゃない。データでもない。ただの光だ。


カイはそれを捨て、闇へ入った。



雨はまだ降っていた。古い高架の腹の下、排水溝が詰まり、黒い水がゆっくりと逆流している。ネオンの反射がその水面を裂き、赤と青の筋が汚れた鏡みたいに揺れた。


カイは柱の陰に背を預けた。コンクリートは冷たく、湿気が背中の布をじわじわと吸った。息を吐くたび、肺の奥で金属粉みたいな味がした。さっきまでの銃声はもうない。代わりに、遠くでドローンのローターが低く唸り、近くで配電盤が虫の死骸みたいにジジッと火花を散らしていた。


右手が震えていた。指先から始まり、手首、前腕へと波が伝播する。義手じゃない、生身の方だ。皮膚の下で血がまだ走っている証拠みたいに、みっともなく脈打つ。


濡れたコートの内ポケットから、小さなカプセルケースを取り出した。透明な樹脂に封じられた白い錠剤。記憶抑制剤。飲めば、さっきの出来事は「データ」になる。角が丸まり、匂いが薄まり、手の震えの理由が他人事になる。


ミナは柱の外側に立っていた。雨を受ける必要のない顔で、道路の向こうを見張っている。水滴が彼女の頬を滑っても、そこには温度がない。軍用モデルの関節が微かに鳴った。濡れた金属同士が擦れる、乾いた音だった。


「服用すれば震えは止まる」ミナの声は、雨音に切られながらも真っ直ぐ届いた。


カイはケースを親指で弾いた。蓋が小さく鳴り、薬の匂いが鼻に刺さる。消毒液と甘い溶剤の中間。医療の顔をした麻薬の匂いだ。


「止まってどうする」彼は言った。声は掠れていた。喉の奥に、銃口の熱がまだ残っているみたいだった。


ミナは振り向かない。「判断速度が落ちる。追跡者が来る」


彼は錠剤を掌に転がした。雨で湿った皮膚に、粉っぽい感触が貼りつく。白い小さな円盤が、街の汚れの中でやけに清潔に見えた。


震えが強くなった。指が勝手に閉じて、錠剤を握り潰しそうになる。握れば粉になる。粉になれば、もっと飲みやすい。そういうふうにできている。人間は自分を忘れたがる生き物だと、薬の設計者は知っている。


カイの視界の端に、さっきの光景が引っかかった。路地の湿ったレンガ。倒れた男の喉から出た、泡混じりの息。雨が血を薄め、排水溝へ運んでいく赤い筋。そこに「意味」はない。ただの現象だ。だが、掌の中の錠剤がそれを「意味のないデータ」に変えてしまう。


彼は錠剤を口元まで運んだ。唇に触れる前に、歯が鳴った。寒さじゃない。


ミナが言う。「あなたはそれを常用している。今さら倫理を持ち出すのは非効率」


カイは笑わなかった。笑う余裕がない。代わりに、錠剤を見た。白い円盤の縁に、製造番号のレーザー刻印が薄く入っている。都市の管理番号。秩序のための小さな許可証。


「倫理じゃない」彼は錠剤を握った。強く。指の腹に硬さが食い込む。「これは——逃げだ」


ミナの関節が、わずかに止まった。雨が彼女の肩で弾ける音が、ひとつだけ大きく聞こえた。


カイは錠剤を掌から戻し、ケースごと持ち上げた。飲めば楽になる。震えは止まり、視界はクリアになり、次の手が打てる。追手から逃げるためには、それが正しい。正しい選択肢はいつも、血の匂いを消してくれる。


だが、消えた匂いは戻らない。戻らないものを、彼はもう一つ持っている。妻の顔。声。触れた指先の温度。どれも、消したはずの場所から時々漏れてくる。穴の縁が痛む。


彼はケースの蓋を閉めた。カチリ、と小さな音。雨音の中で、妙に決定的だった。


「捨てるのか」ミナが言った。


「捨てる」カイは柱の陰から半歩出た。雨が顔に当たり、冷たさが皮膚を叩いた。彼はケースを高架下の黒い水たまりに投げた。


ケースは水面で一度跳ね、ネオンの赤を割って沈んだ。沈む瞬間、白い錠剤が透明な樹脂越しに一瞬だけ光った。救いの色だった。すぐに、黒に飲まれた。


手の震えは止まらない。むしろ、雨の冷えで余計に目立つ。カイはその手を見下ろし、拳を作り、ほどいた。指の関節が鳴った。生きている音だ。汚くて、しつこくて、消せない。


ミナが言う。「痛みは判断を狂わせる」


「狂わせるなら、狂ったままやる」カイは歩き出した。靴底が水を踏み、泥と油が混ざった匂いが立ち上がる。背中の銃がコート越しに重い。重さが、現実の輪郭を保っていた。


ミナが並ぶ。足音がない。雨粒だけが彼女の存在を示す。


カイは震える手でタバコを取り出した。湿気で紙がふやけ、火がつきにくい。ライターの火が何度も雨に消される。ようやく点いた火が、タバコの先を赤く染めた。煙は雨に押し潰され、低く這って消える。


吸い込むと、喉が焼けた。苦味が舌に残る。震えはまだある。それでも、煙の熱が指先に伝わり、彼は自分の手が「ここにある」ことを確かめた。


遠くでサイレンが一つ、二つ増えた。追跡の音だ。時間は削れていく。データは劣化する。街は忘れる方向に回っている。


カイは煙を吐いた。雨に溶ける白い息の向こうで、ネオンが滲む。彼はその滲みを見たまま、前へ進んだ。痛みを連れて。消せるものを捨てて、消せないものを選んで。



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