第4話:ゴースト・プロトコル

雨は地上で仕事を終えて、地下へ落ちてきた。排水溝の唸りが、都市の腹の底で低く鳴っている。カイのコートの裾は濡れたコンクリートに触れ、冷えた水が布を伝って膝裏にまとわりついた。ネオンはここまで届かない。代わりに、非常灯の赤が錆びた梁を舐め、壁の落書きを血痕みたいに浮かび上がらせる。


ミナが一歩後ろを歩く。関節のサーボが、濡れた空気の中で乾いた音を立てた。人間なら咳でごまかすところだ。彼女はごまかさない。


カイの胸ポケットの内側で、薄いケースが体温を吸っている。妻を殺した顔が、そこにある。データは冷たいのに、持ち主の皮膚だけが熱を持つ。時間が経つほど、記録は腐る。ノイズが増える。輪郭が溶ける。腐る前に誰かに見せるか、腐る前に消すか。選べるのは、その二つだけだ。


階段を降りきると、空気が変わった。油とカビと、古いプラスチックが焼けた匂い。廃棄区画は都市が捨てたものの墓場だ。ここでは死体も機械も同じ扱いを受ける。違うのは、どちらが先に朽ちるかだけだ。


壁沿いに伸びる配管から、蒸気が漏れていた。白い息みたいに漂い、足元の水たまりを撫でて消える。水面に映るのは、上層の広告塔じゃない。剥き出しの配線と、監視カメラの死んだ目だけだ。


「ここは安全ではない」ミナが言った。


カイは頷かない。安全な場所など、もう都市のどこにもない。あるのは、どこで死ぬかの違いだけだ。


廃棄区画の奥へ進むほど、音が増える。発電機の唸り。遠くで金属を叩く音。誰かの笑い声が、パイプを伝って歪んで聞こえた。人間の笑いは、いつもどこか壊れている。


カイは左手の袖口を引き上げ、義手の接合部を確かめた。湿気で軋む。指先に微かな遅れが出る。こういう場所では、その遅れが命取りになる。


角を曲がると、扉があった。扉というより、板と鉄骨の寄せ集めだ。そこに貼られたステッカーが一枚、かろうじて元の色を残している。古いネットワーク企業のロゴ。もう倒産して十年だ。死んだ名前ほど、ここでは長生きする。


カイは二度、短く叩いた。三度目は叩かない。三度目を叩くのは、追手か馬鹿だ。


扉の隙間が開き、煙が漏れた。中から見えるのは、片目だけ。虹彩に安物の拡張レンズ。焦点が合うまでに、ほんの一拍の遅れ。


「誰だ」


「墓掘りだ」


目が細くなる。笑っているのか、睨んでいるのかは分からない。どちらでも同じだ。


「墓掘りは地上で綺麗ごとを掘ってろ」


「今日は汚れたのが必要だ」


扉が開いた。熱と煙が顔にぶつかる。タバコの煙じゃない。合成麻酔剤と、焼けた配線の匂いが混じっている。部屋の中は薄暗く、壁一面に古い端末とバラしたドローンが積まれていた。床にはケーブルが蛇みたいに這い、踏めば簡単に噛みつく。


情報屋は椅子に座っていた。名前はユウゴ。昔は治安局の裏で動いていた男だ。今は都市の裏の裏で動いている。頬に入った古傷が、光の角度で白く浮く。右手の指が二本、金属に置き換わっていた。磨かれていない。生活がそのまま表面に出ている。


「久しぶりだな、カイ」ユウゴが言った。「死んだと思ってた」


「死んでた方がマシだった」


「そりゃそうだ。生きてる奴はみんな、何かを借りてる」


ユウゴの視線がミナに移る。彼女の軍用フレームは、ここでは派手すぎる。光沢を殺しても、骨格の線が嘘をつかない。


「連れか。お前が女を連れるタイプだったか?」


「彼女は女じゃない」


ミナが淡々と口を挟む。「分類上はアンドロイドです。あなたの視線の動きは、私を脅威として評価しています」


ユウゴが鼻で笑った。「喋る棺桶か。趣味が悪い」


カイは部屋の奥を見た。壁の端末に、古い治安局のネットワーク図が貼られている。更新が止まっている。だが、止まった地図でも道は示す。カイが欲しいのは、道じゃない。出口だ。


「仕事だ」カイは言った。


「仕事は金だ」


「金はない」


ユウゴが肩をすくめた。「じゃあ帰れ」


カイは胸ポケットからケースを出さない。出せば終わる。ここで見せた瞬間、情報は情報屋のものになる。奪われるか、売られるか、どちらかだ。


「治安局が動いてる」カイは言った。「グレイが」


ユウゴの指が一瞬止まった。金属の指先が、テーブルの上の小さな基板を掴み損ねて落とす。乾いた音が部屋に響いた。彼は拾わない。


「その名前をここで出すな」ユウゴが言った。声が少し低くなった。


「もう出た」


「お前、まだあいつと遊んでんのか」


カイはユウゴの灰皿を見た。吸い殻が山になっている。一本一本が、時間の残骸だ。ユウゴは時間を燃やして生きている。


「遊びじゃない」カイは言った。「俺の手の中に、都市が嫌う顔がある」


ユウゴの片目が、ほんの少しだけ見開かれる。だがすぐに、いつもの表情に戻る。情報屋の顔は、驚きさえも商品にならないように作られている。


「顔?」ユウゴが言った。「誰のだ」


「まだ言えない」


「じゃあ聞けない」


カイは机の上に手を置いた。義手の指が、木目のない合板を押し、軋む音がした。人間の指なら、もう少し柔らかい音がする。柔らかさは、ここでは弱さに聞こえる。


「俺は今、二つの地獄の前に立ってる」カイは言った。「どっちを選んでも、焼ける。マシな方を教えろ」


ユウゴが煙を吐いた。煙が天井の換気扇に吸われるまで、部屋の中で揺れた。揺れ方が、迷いみたいだった。


「マシな地獄なんてねぇよ」ユウゴが言った。「あるのは、どっちが長く苦しいかだけだ」


ミナが首を傾げる。「苦痛の長さは評価指標になります。あなたは合理的です」


「黙れ」ユウゴが吐き捨てる。「合理的に生きてたら、今頃俺は上層で犬でも飼ってる」


カイは視線を外さずに言った。「追手が来る。時間がない。データも腐る」


ユウゴがカイの胸元を見た。ケースの形を、布越しに読むような目だった。


「それ、メモリだな」ユウゴが言った。「お前の商売道具」


カイは答えない。答えないことが答えになる。


ユウゴは椅子から立ち上がり、部屋の隅の冷蔵庫みたいな箱を叩いた。中から古い端末を引きずり出す。端末の表面には、指紋と油が層になっている。画面は一度暗くなり、次に青白く点いた。光がユウゴの傷を照らし、古い痛みを新しく見せた。


「見せろ」ユウゴが言った。「一秒だけでいい。顔の輪郭が分かれば、流通経路を探れる」


「一秒で足りるか?」


「足りる。足りなきゃ、俺が死ぬだけだ」


カイの喉が動いた。飲み込む音はしない。飲み込めるものがない。ケースに指をかける。金属の爪がプラスチックを擦り、嫌な音がした。ミナが一歩前に出る。彼女の影が、カイの手元に落ちた。


「提示すれば、複製される可能性が上がります」ミナが言った。「あなたの目的は暴露ですか、生存ですか」


カイはケースを止めたまま、ユウゴを見た。ユウゴは端末の前で、片目を細めて待っている。待つ姿勢が、銃口みたいに真っ直ぐだった。


「生存」カイが言った。


ミナが即座に言う。「なら提示しない方が合理的です」


ユウゴが笑った。「合理的な棺桶だな。だがな、カイ。生き残るだけなら、今すぐそれを捨てろ。排水に流せ。忘れろ。お前の得意分野だろ」


カイの義手が、僅かに震えた。湿気のせいか、別の何かのせいかは区別がつかない。妻の顔はもう、記憶の中で曖昧だ。写真は燃えた。残っているのは、匂いと、夜の冷たさと、床に広がった赤の色だけだ。だがこのケースの中の顔は、曖昧じゃない。データは残酷に正確だ。正確だから、痛みになる。


「捨てたら」カイは言った。「俺はまた、自分に嘘をつく」


ユウゴの目が少しだけ柔らかくなる。すぐに硬く戻る。


「嘘で生きるのが人間だ」ユウゴが言った。「真実で死ぬのは、英雄だ。お前は英雄じゃない」


カイはケースを引っ込めた。出さない。出せない。出した瞬間、もう戻れない。だが出さなければ、道も見えない。


「じゃあ別の取引だ」カイは言った。「俺に潜れる穴を教えろ。治安局の目が届かない場所。短時間でいい」


ユウゴが端末を叩き、古い地図データを呼び出す。画面に地下層の配管網が広がる。緑の線が脈みたいに走り、ところどころ赤く点滅している。監視ノードだ。


「穴はある」ユウゴが言った。「だが無料じゃない」


「何が欲しい」


ユウゴは少し考え、灰皿の吸い殻を指で押し潰した。煙が一瞬だけ濃くなった。


「お前の仕事の流儀だ」ユウゴが言った。「死者の尊厳。笑えるな。ここじゃ死者は部品だ。だが俺には、回収してほしいものがある」


カイは眉を動かさない。動かせば弱みになる。


「誰だ」


「妹だ」ユウゴが言った。短く。そこで切る。「治安局に拾われた。記憶を抜かれて、都合のいい証言だけ残される。その前に、お前の手で——」


言葉が途切れた。ユウゴの金属の指が、テーブルの縁を強く掴む。軋む音が鳴った。感情は言葉じゃなく、金属の圧力に出た。


カイは息を吐いた。湿った空気が喉を擦る。記憶を葬る仕事が、また増える。誰かの救いは、誰かの消失だ。


「俺に、あんたの妹を消せって言うのか」カイが言った。


「消すんじゃない」ユウゴが言った。「残すんだ。あいつの中の、あいつを。治安局のデータじゃなくて、記憶を。お前なら分かるだろ」


ミナが静かに言う。「矛盾しています。記憶の抽出はデータ化を伴います」


ユウゴがミナを睨む。「黙れって言っただろ」


カイはミナの横顔を見た。無機質な皮膚。冷たい瞳。そこには痛みがない。だが痛みがないことが、別の痛みを生む。


「場所は」カイが言った。


ユウゴが画面を指で弾いた。地下のさらに下、廃棄区画の外れにある古い搬送トンネル。監視ノードが途切れている点が一つ。都市が見捨てた盲点。


「そこから旧回線に入れる」ユウゴが言った。「だが入口は閉じられてる。鍵は治安局の保管庫だ。盗むか、殺して奪うか、どっちかだ」


カイは画面の点滅を見た。赤い点が、心臓の鼓動みたいに規則正しく光る。規則正しさは秩序の顔をしている。秩序はいつも、誰かの首に縄をかける。


「俺は鍵を取る」カイが言った。


「で、妹は?」


カイは一拍置いた。置いた分だけ、時間が腐る。


「取引だ」カイは言った。「鍵の後だ。俺が生きてたらな」


ユウゴが笑った。笑いは乾いていた。湿気の中で乾いた笑いは、骨みたいに硬い。


「相変わらずだな」ユウゴが言った。「約束はいつも、未来形だ」


ミナが言った。「あなたの生存確率は低い。取引の履行は不確実です」


カイは振り返らない。「不確実じゃないと、取引にならない」


その瞬間、遠くで金属が鳴った。廊下の奥。足音じゃない。ドローンのローターが壁に反響している音だ。低く、一定の回転音。都市の猟犬。


ユウゴの片目が端末から離れ、扉の方を見る。


「来たな」ユウゴが言った。


カイはコートの襟を立てた。濡れた布が首に貼りつく。ケースの角が胸に当たり、硬い痛みを返した。痛みはまだ、ここにある。忘れていない証拠だ。


「裏口は」カイが言った。


ユウゴが顎で示す。「床下。だが一つ言っとく。あの鍵を取ったら、戻る場所はないぞ」


カイは床のケーブルの隙間に視線を落とした。黒い穴が口を開けている。そこに飛び込めば、もう地上の光は遠くなる。


「戻る場所なんて」カイは言った。「最初からなかった」


ミナのサーボが短く鳴り、彼女が先に穴へ滑り込む。金属の肢体が闇に吸われる。カイは最後にユウゴを見た。情報屋の煙の向こうで、片目が光っていた。あれは涙じゃない。反射だ。ここでは、反射だけが人間を人間に見せる。


ドローンの音が近づく。壁が震え、埃が落ちた。カイは穴に身を沈めた。冷たい水がブーツの中に入り、足指の感覚を奪っていく。


上で扉が蹴られる音がした。ユウゴの罵声が短く響く。次に、電撃の破裂音。焦げた匂いが一瞬だけ降ってきた。


カイは闇の中で前へ進んだ。背中に、都市の光が遠ざかる気配が貼りつく。ケースは胸で硬く、重い。データは軽いはずなのに、持ち主の人生だけが重くなる。


この先にあるのは、鍵か、死か。どちらにしても、何かを失う。失う順番を選べるだけだ。



雨は相変わらず、都市の配線を洗う気もないらしい。高架の腹の下、ネオンが水たまりに溶けて、ピンクと青の油膜になって揺れていた。カイのコートはもう乾くことを諦めている。肩口から落ちる水が、義手の継ぎ目に入り、微かな軋みを起こした。


ミナは一歩後ろ。足音がない。軍用の関節は雨を嫌わない。嫌う必要がない。


「ここ」ミナが短く言った。


看板は半分死んでいた。残った文字が、虫の死骸みたいに点滅している。中から漏れる光は白すぎて、目の奥を刺した。入口のドアは金属で、触れた指先に冷えた錆の粒がざらついた。


中は暖房が効いていない。かわりに、古いサーバの排熱が湿った空気をぬるくしていた。埃とオゾンと、焦げた樹脂の匂い。壁一面に積まれたジャンク端末が、眠りの浅い獣みたいにファンを回している。


奥のカウンターに男がいた。薄いレインコートのまま、椅子に沈んでいる。顔は光の影で割れて見えた。片目が義眼で、虹彩の奥に広告のスクロールが走っている。情報屋はどいつも、目に嘘を仕込む。


「久しぶりだな、葬儀屋」男が言った。声は乾いていて、喉の奥に砂がある。


カイはカウンターに手を置いた。金属が冷たい。指の腹の感覚が遅れて伝わる。生身はいつも、義手より信用できない。


「時間がない」カイが言った。


「時間がないのは、こっちも同じだ」男は視線をミナに滑らせた。「連れは新しい趣味か?」


ミナは瞬きもしない。「趣味ではない。必要経費」


男が笑った。笑い声が、背後のサーバラックの隙間に吸われて消えた。「必要経費か。いい言い方だ。で、何を埋めに来た?」


カイはポケットから小さなカプセルを出した。指先で転がすと、中のメモリチップが微かに鳴った。プラスチックの殻越しに、冷たい重さがある。人の一生の断片が、こんな軽さで詰まっている。


男の義眼がチップを捉えた瞬間、広告のスクロールが止まった。代わりに、解析の細い文字列が走る。彼の喉が一度だけ鳴った。


「見せるだけだ」カイは言った。「コピーはさせない」


「信用されてないな」


「信用してるなら、ここに来ない」


男は肩をすくめ、カウンターの下から小型のスキャナを引っ張り出した。古い機械で、角が欠けている。電源を入れると、コイルが唸り、青いラインが空気を切った。


カイはカプセルを置いた。スキャナの光が殻を舐める。室内のファンの音が一段大きく聞こえた。ミナの視線は男の手首に固定されている。そこに隠し武器があるかどうかを、雨粒の数みたいに数えている顔だった。


男は数秒で手を止めた。義眼の光が鈍る。顔の皮膚が、薄い紙みたいに引きつった。


「……どこで拾った?」声が低くなった。


「拾ったんじゃない」カイは言った。「死体から抜いた」


男は舌打ちした。湿った音がした。ここで湿るのは、機械じゃなく人間のほうだ。


「やめとけ」男が言った。


カイは動かない。雨の匂いが、ドアの隙間から入ってきた。冷たさが首筋を撫でる。


「それが何か、言え」


男はカウンターの上の灰皿に指を伸ばした。吸い殻は湿って崩れ、指先に黒い粉がついた。火を点ける気配はない。火はここじゃ目立つ。


「そのデータは爆弾だ」男が言った。「都市をひっくり返す。いや、ひっくり返す前に焼き尽くす」


ミナが首を傾けた。「誇張。都市は冗長構造だ」


男はミナを見た。「冗長なのは配線だけだ。人間は冗長じゃない」


カイの義手が、無意識にカウンターの縁を掴んだ。金属が鳴る。爪のない指が、滑り止めの溝を噛む。


「誰の記憶だ」カイが言った。


男は目を逸らした。義眼が一瞬だけノイズを吐く。怖いときの癖だ。情報屋は恐怖を隠すために嘘を吐くが、機械は正直に乱れる。


「名前を言えば、俺の首が飛ぶ」男が言った。「言わなくても飛ぶかもしれん。だが、言えば確実だ」


ミナが淡々と言った。「確率の話なら、最適解は取引を即時終了し、あなたをここで無力化すること」


男は乾いた笑いを漏らした。「いい助手だな。心がないってのは、便利だ」


ミナは返さない。便利と言われても、彼女は便利の意味を味わえない。


カイはチップを指で弾いた。カプセルがカウンターの上で半回転し、止まる。軽い音が、やけに大きく響いた。


「俺が欲しいのは、真実だ」カイが言った。


男の義眼がカイの顔をなぞった。皮膚の下の血管まで見ているような視線だった。


「真実?」男が言った。「それは記憶だ。データじゃない。お前が持ってるのは、データの形をした死体だ。それを掘り返せば、臭いで犬が寄ってくる」


「犬なら慣れてる」


「犬じゃない」男は声を落とした。サーバの唸りに紛れるくらい低く。「局だ。治安局。……グレイの犬どもだ」


その名前が出た瞬間、室内の空気が一段冷えた気がした。暖房のない部屋で、さらに冷える。そういう冷え方がある。カイの義手の関節が、また軋んだ。油が足りない音だった。


ミナが言った。「追跡を受けている可能性。高」


男は頷きもしない。「可能性じゃない。確定だ。ここに来た時点で、お前らは線の上を歩いてる。踏み外したら落ちる。踏み外さなくても、向こうが線を切る」


カイは男を見た。男の額に汗が浮いている。雨じゃない。室内は湿っているのに、汗の粒だけが妙に目立った。


「警告は買った」カイが言った。「代金は?」


男は喉を鳴らした。「金じゃない。金ならいくらでも汚せる。これは汚れが落ちない」


「じゃあ何だ」


男はカウンターの下から薄い端末を出し、指で数回叩いた。画面に、地下鉄の路線図みたいなものが浮かぶ。いくつかの駅が赤く塗られ、点滅している。点滅のリズムが心臓に似ていて、気分が悪い。


「逃げ道だ」男が言った。「今夜、東区の旧回線が一時間だけ開く。保守の穴だ。そこを使って消えろ。消えられなきゃ、明日の朝にはお前の顔が市民の安全のために壁に貼られる」


ミナが端末を見る。「あなたがその情報を渡す理由が不明。リスクが高い」


男はミナに目を向けた。「理由? 理由が欲しいなら、こうだ。俺は自分の墓を自分で掘るのが嫌いなんだ。掘るなら、誰かのために掘りたい」


カイは端末から目を離さない。赤い点滅が、妻の最後の鼓動みたいに見えた。見えた、というより、そういうふうに脳が勝手に結びつける。記憶じゃない。癖だ。


「それでも、俺が関われば?」カイが言った。


男は静かに言った。「関われば全員死ぬ。お前も、その鉄の女も、俺も。関わらなくても、死ぬ奴はいる。だが関われば、死ぬ範囲が広がる。都市の端から端までだ」


ミナが言った。「範囲の拡大は統計的に許容されない。あなたの提案は非合理」


男は肩をすくめた。「合理で生き残れる都市なら、俺はこんな穴にいない」


カイはカプセルを握り直した。殻の中のチップが、指の圧で微かに鳴った。人の顔が入っている。妻を殺した顔が。そう思った瞬間、胸の奥で何かが動きそうになった。動く前に、雨の冷たさがそれを押し戻した。


「グレイは知ってるのか」カイが言った。


男は一拍置き、唇を薄くした。「知ってる。お前がそれを持ってることも、その中身が何かも。だから追ってる。都市の平和のために、な」


ミナが淡々と言った。「平和のために殺すのは効率的」


男が鼻で笑った。「効率の話なら、最初から市民全員を眠らせて、夢だけ見せればいい。だが、あいつらは夢の管理に金を払わせたいんだ」


カイは端末を男の方へ押し返した。「逃げ道は受け取る。だが、俺は消えない」


男の義眼がまたノイズを吐いた。「……昔のお前に戻ったな。いや、戻ったふりか。どっちでも同じだ。結果は同じになる」


ミナがカイを見た。視線は冷たいが、そこにあるのは監視だ。観察対象が崖に向かって歩くのを、センサーが記録するみたいに。


「選択肢」ミナが言った。「記憶を破棄。生存確率上昇。公開。生存確率低下。第三案は存在しない」


カイは答えなかった。答えは喉の奥で錆びる。言葉にした瞬間、戻れなくなる。


男はカウンター越しに身を乗り出した。息が煙草と金属の味を含んでいる。「なあ、葬儀屋。お前の仕事は、死者を綺麗にすることだろ。なら、これも綺麗に埋めろ。誰も見ない場所に。お前だけが知ってりゃいい」


カイはカプセルをポケットに戻した。布越しに、冷たい角が指に当たった。角は丸くならない。削っても、また尖る。


「知ってるだけじゃ足りない」カイが言った。


男の顔が歪んだ。怒りじゃない。諦めだ。諦めは怒りより重い。


「じゃあ、せめて速くやれ」男が言った。「データは腐る。お前が持ってるそれも、もう劣化が始まってる。ノイズが増えれば増えるほど、真実は都合よく変形する。お前の妻の顔も、別の誰かにすり替わる。そうなったら、お前は何を撃つ?」


カイの義手が、ポケットの上からカプセルを押さえた。中のチップが、かすかに震えた。雨の音がドアの向こうで強くなる。まるで都市が、話を聞きたくなくて叩いているみたいだった。


ミナが言った。「時間制限。移動を推奨」


男は椅子から立ち上がらなかった。立ち上がれば、決意が形になる。形になれば、狙撃の的になる。


「出口は裏だ」男が言った。「表から出るな。カメラが生きてる」


カイは踵を返した。床の水が靴底で鳴る。ミナは音もなくついてくる。背中に、男の視線が刺さる。刺さっても血は出ない。代わりに、時間が漏れる。


裏口のドアを押すと、冷たい雨が顔を殴った。ネオンの光が濡れた路地に散り、赤と青が混ざって黒になる。遠くでサイレンが一つ鳴り、すぐに切れた。試し鳴らしみたいに短い。


カイは路地の闇に足を踏み入れた。足元の水たまりが揺れ、そこに映った自分の顔が歪んだ。歪んだ顔の横で、ミナの輪郭だけが真っ直ぐだった。


背後で、情報屋の店の明かりが一瞬だけ強くなり、次の瞬間、消えた。機械のファンの唸りも、途切れた。


雨だけが残った。雨はいつも、何も知らないふりをする。



雨は高架の腹を叩き、跳ね返った水がコンクリの裂け目を黒く染めていた。カイは廃ビルの搬入口に身を寄せ、濡れたコートの裾を絞るでもなく、ただ煙草に火をつけた。火花が一瞬だけ橙に咲いて、すぐネオンの青に溶けた。


ミナは一歩離れて立っていた。軍用の関節が微かな駆動音を漏らし、濡れた髪が頬に貼りついても気にしない。瞳の虹彩だけが、雨粒を拾って冷たく光っている。


カイの左手首の端末が、死んだ魚みたいに震えた。無線。暗号化の層が薄い。わざとだ、と彼は思った。目立つように、逃げ道を塞ぐように。


彼は煙を吐き、端末を起こした。画面は黒いまま、音だけが来た。昔の癖だ。顔を見せない。見せる必要がない。


「カイ」


声は雨より乾いていた。グレイ。治安局の局長。かつての相棒。今は都市の喉元を握る手。


カイは返事をしない。煙草の先端が赤く脈を打つ。ミナが視線を寄越す。問いは言葉にならない。


「追跡は止められる」グレイが言った。「お前が持ってるデータを返せばな」


雨の音に混じって、遠くのドローンがプロペラを唸らせた。街はいつも何かを回している。歯車の油が切れたら、すぐに血で代用する。


カイは端末を指で叩き、音量を下げた。隠れるためじゃない。耳に入れたくない言葉ほど、よく響く。


「返したら?」カイが言った。声は煙にまぎれて細い。


「お前の記憶処理ライセンスを正規に戻す」グレイは迷わない。「裏の名義じゃなく、表の番号だ。監査も外す。仕事は堂々とやれ」


ミナの指がわずかに動いた。金属の爪がコンクリを掻き、乾いた音を立てた。彼女は計算している。逃走ルート、弾数、酸素、時間。感情の代わりに、数字が脈打つ。


「それだけ?」カイが言った。


グレイが笑った気配だけがした。声の端に、古い友人の皮肉が混じる。昔と同じ。変わったのは立場だけだ。


「豊かな生活も付ける」グレイが言う。「住居、医療、補償。お前の助手も含めてだ。登録してやる。廃棄品じゃなく、市民権のある個体としてな」


ミナの瞳孔が一度だけ絞られた。雨粒が頬を伝い、首筋の接合部に落ちる。そこから微かな蒸気が立つ。冷却が追いついていない。彼女はそれを気にしないふりをした。


カイは煙草を指先で潰した。湿った床に押しつけても、芯がしぶとく赤を残した。死に損ないの火種。彼のポケットの中身と同じだ。


「優しいな」カイが言った。


「優しさじゃない」グレイの声が即座に返る。「ノイズを消すだけだ。お前がそれを理解してるから、今こうして話してる」


ノイズ。真実。記憶。街はそれを同じ棚に並べて、必要がなければ廃棄する。カイは何度もそれを手伝ってきた。死者の脳から、遺族が見たくない場面を削り落とし、きれいな映像だけを棺に詰め直す。記憶は痛みを伴う。データは、痛みを切り離して流通する。


グレイが欲しいのは、痛みの方だ。いや、痛みが街に漏れることを恐れている。


「返すのは簡単だ」グレイが続けた。「そして、お前自身の問題も片付けてやる」


カイの喉が、煙でざらついた。問題。彼の中の欠けた部分。自分で消したはずの穴。そこに妻の影が、雨の匂いと一緒に戻ってくる。


「何を片付ける」カイが言った。


「お前の記憶だ」グレイは淡々と言う。「お前は自分の中に、いらないものを抱えてる。昔からそうだ。痛みを抱えて正しいふりをする。だが、正しさは都市の役に立たない」


ミナが一歩近づいた。足裏の磁気ソールが水たまりを踏み、薄い波紋が広がる。彼女の声が低く落ちた。


「提案の条件を確認するべきです」ミナが言った。「返却対象は、あなたが回収したメモリ断片。あなたの妻に関するものを含む」


カイはミナを見なかった。見れば、彼女の無機質な正論が刃物になる。刃物は役に立つ。だが今は、刺さったままにしておきたい棘がある。


端末からグレイの声が来る。


「その断片も含めてだ」グレイが言った。「お前が抱えて死ぬ必要はない。俺が処理する。綺麗にしてやる。お前は忘れて、生きろ」


雨が強くなった。高架の継ぎ目から落ちる水が、糸のように垂れ、カイの頬を打った。冷たい。現実の冷たさだ。データの冷たさとは違う。データは触れない。触れないから、何でもできる。


カイは端末を握った。指の関節が白くなる。硬質なプラスチックの角が掌に食い込み、痛みが走った。痛みは、ここにいる証拠だ。記憶は痛みを連れてくる。だから皆、削る。だから彼は仕事になる。


「忘れろ、か」カイが言った。


「忘れるのは救いだ」グレイが言う。「お前はそれを売って食ってきた」


その言葉は、雨より冷たかった。カイは煙草を探してポケットをまさぐり、濡れた箱から一本引き抜いた。火を点ける。ライターの火が揺れ、雨に怯えながらも燃えた。燃えるものはいつも弱い。


ミナが言った。「受諾すれば、追跡停止。合法化。生活保障。拒否すれば、追跡継続。データ劣化の進行。あなたの死亡確率は上昇します」


「黙れ」カイが言った。


ミナは黙った。従順だからじゃない。命令を記録して、後で分析するだけだ。


グレイが言った。「時間はやらない。お前が持ってるものは腐る。データは永遠じゃない。お前の手の中で、ただのノイズになる前に渡せ」


カイは笑った。喉の奥で乾いた音が鳴っただけだ。


「腐るのはデータだ」カイが言った。「記憶は腐らない。腐るのは人間の方だ」


一瞬、回線が沈黙した。グレイが息を吸う音が、ノイズの隙間から聞こえた。都市の支配者の肺も、まだ肉でできているらしい。


「カイ」グレイが言った。声が少しだけ低くなる。「俺はお前を助けてる。最後の出口だ。お前が真実を抱えて街に撒いたら、何が起きるか分かってるだろ」


カイは雨の向こうの街を見た。ネオン広告が水滴に滲み、色が混ざって汚れた虹になる。高層の窓には無数の生活が箱詰めされ、誰もが管理された幸福の中で眠っている。そこに一滴の血を落とせば、広がる。きれいな水面はない。最初から濁っているだけだ。


「分かってる」カイが言った。


「なら——」


「だからこそだ」カイが言った。


ミナが小さく首を傾けた。理解できない動作。彼女の学習の穴が、雨に濡れて黒く光った。


グレイの声は戻る。硬さが増す。交渉の皮が剥がれ、官僚の骨が出る。


「渡さないなら、お前はもう市民じゃない」グレイが言った。「お前の名は消える。お前の仕事も、お前の過去も、全部だ。お前の妻のことも——誰も覚えない形でな」


カイの指が端末の縁をなぞった。そこに刻まれた傷。昔、相棒と一緒に潜った闇市場で付いたものだ。二人で笑って、血を拭った。今は笑えない。傷だけが残っている。傷はデータじゃない。削れない。


「いい取引だな」カイが言った。「俺にとっては悪魔が二人いる」


「悪魔は一人で十分だ」グレイが言う。「俺は秩序だ」


カイは端末を切った。黒い画面に、雨に濡れた自分の顔がぼんやり映った。目の下の影が濃い。疲労じゃない。時間だ。追手と劣化と、選択肢の狭さが、皮膚の下で刻まれていく。


ミナが言った。「拒否しました。次の行動を」


カイは端末をポケットに押し込み、煙草を咥えたまま歩き出した。搬入口の奥は暗い。湿った鉄の匂いと、古い油の匂いが混じっている。彼の仕事場の匂いに似ていた。


「次はない」カイが言った。「あるのは、戻れない方角だけだ」


ミナの足音が続く。機械の駆動音が、雨の中で小さく鳴った。背後で、遠くのドローンの唸りが少し近づく。街が彼らを見つけた。秩序が、ノイズを消しに来る。


カイは煙を吐き、暗闇に紛れた。煙はすぐ雨に叩かれて散った。残るのは匂いだけだ。焦げた葉の匂い。消えないものの匂い。



ネオンが雨粒を細かく砕いて、路地の水たまりに毒みたいな色を落としていた。カイはフードの影で呼吸を抑え、耳の奥で鳴る回線ノイズを指先で殺した。こめかみのインプラントが一瞬だけ熱を持ち、それから冷たく黙る。


通信は切れた。だが、切れたのは線だけだ。


彼は壁際の配電箱に背を預けた。錆びた鉄が背中の布越しに湿気を吸い上げる。遠くでドローンのローターが雨を叩き、近くでは排水溝が詰まったまま泡を吐いていた。街はいつも通りの顔をしている。いつも通りが一番信用ならない。


カイは手袋の親指で、掌に隠したメモリ・カプセルをなぞった。小指の腹に微かな振動が伝わる。劣化警告。安物の封印が、濡れた紙みたいに剥がれかけている。時間は味方じゃない。味方がいるなら、そいつは必ず値札を付ける。


情報屋の声が、まだ耳の裏に残っていた。甘いノイズで包んだ、値段のする口調。彼らは情報を売る。売り先が誰かは、風向きで決まる。風は今、治安局の方から吹いている。


カイは煙草を咥えた。火を点けると、湿った空気が一瞬だけ焦げた匂いに変わる。煙が雨に叩かれて細くちぎれ、ネオンの光の中で幽霊みたいに踊った。吸い込むたび、喉の奥が金属の味をした。


路地の入口に停まっていた無人タクシーが、客も乗せずにゆっくり動き出した。タイヤが水を切る音。車体側面の広告が、死んだ恋人みたいな笑顔を繰り返している。カイはその動きが不自然に規則正しいのを見た。誰かが遠隔で呼び出した。誰かが、ここに目を向けた。


彼は目を細めた。情報屋が「安全だ」と言った地点。安全という言葉は、金で買えると信じているやつが使う。


カイはポケットの端末を取り出し、画面を点けずに裏面の接点を指で弾いた。小さなクリック音。端末のマイクが死ぬ。次に、こめかみのインプラントの補助回線を物理遮断するため、耳の後ろの皮膚を押し、薄いカバーを開いた。雨がそこに入り込もうとする。彼は指先で押し返した。機械は人間より正直だ。壊れるときは、ちゃんと壊れる。


路地の向こうで、誰かが笑った。短い、乾いた音。人間の喉から出た音だ。雨が吸い込まない種類の笑い。


カイは身体を動かさず、視線だけで角を測った。反射したネオンの帯が、壁の金属板に走っている。その帯の端に、影が一瞬だけ割り込んだ。靴底が水を踏んだ。軽い。急ぐやつの足音じゃない。待つやつの足音だ。


情報屋の癖が頭をよぎる。話している最中、息を吸うタイミングが一定だった。録音を混ぜるときの癖だ。彼はいつから、生の声じゃなくなった? それとも最初から?


カイは煙草を指で挟み、雨に落とした。火が水に沈み、赤い点がすぐに消える。その代わりに、路地の暗がりが少しだけ濃くなった。目の慣れが戻る。視界の端で、監視カメラのレンズが微かに首を振った。猫みたいに。


「……やっぱりな」


声は出さない。口の中で言葉を砕くだけだ。言葉はデータになる。データは売れる。売れるものは、いつか誰かに拾われる。


彼はメモリ・カプセルを内ポケットの奥へ押し込み、代わりに別の小さなケースを取り出した。偽装用の空カプセル。外装だけ本物に似せた、墓石の代わりの石ころだ。彼はそれを手のひらで温め、雨に濡れた金属の匂いの中で息を整えた。


角の影が、もう一度動く。今度は二つ。人影が増えた。足音が増えた。増え方が、金の匂いをしている。安く雇われた数だ。


情報屋は売った。たぶん、まだ彼の位置を更新している。端末を切っても、街のどこかで彼の名前が回っている。記憶と違って、データは自分で歩く。手足がなくても、配線を伝って増殖する。


カイは配電箱の裏に手を伸ばし、古いサービスパネルを開けた。中から湿った熱気が漏れ、焦げた埃の匂いが鼻を刺す。配線の束が、黒い腸みたいに絡まっている。彼は一本を引き抜き、短絡させた。火花が走り、路地の照明が一瞬だけ死んだ。


闇が落ちる。ネオンが消えたわけじゃない。だが、雨の反射が途切れ、影が影として戻ってくる。


その一瞬の間に、カイは壁から離れた。足音を殺し、溜まり水を避けずに踏む。わざとだ。水音は、彼の居場所を一つに固定する。固定された場所は、捨てられる。


角の向こうで、誰かが小声で何かを言った。通信機のハウリングが混じる。金属が擦れる音。銃のスライド。雨粒がそれに当たり、冷たい鈴みたいに鳴った。


カイは息を吐いた。煙草の代わりに、雨の冷気が肺を満たす。胸の奥が痛む。その痛みは、まだ彼が生きている証拠だ。生きている証拠は、いつも高くつく。


彼は偽装カプセルを握り直し、暗がりへ投げた。金属が水たまりに落ち、乾いた音を立てる。すぐに、二つの足音がそちらへ向かった。軽い。安い。迷いがないのは、考える必要がないからだ。


カイは反対側へ滑るように進んだ。路地の奥、排水溝の蓋が半分外れている場所。腐った水の匂いが強い。そこに顔を近づけると、下水の湿った熱が頬を撫でた。都市の腹の匂い。ここなら、上のデータの目は鈍る。


背後で、誰かが舌打ちした。短い。苛立ちの値段が安い音。


カイは下を覗き込み、暗い穴に片足を掛けた。金属の縁が靴底を滑らせる。落ちれば骨が折れる高さじゃない。だが、這い上がる時間もない。


上から、別の声がした。情報屋の口調に似た、作り物の丁寧さ。


「カイ。話をしよう。金は——」


カイは振り返らなかった。返事もしなかった。返事は取引の始まりだ。取引は、必ずどちらかを殺す。


彼は体重を預け、暗い穴へ降りた。雨の音が遠ざかり、代わりに水滴がコンクリートを打つ単調な音が増える。機械の低い唸りが腹に響く。都市が自分の内臓を動かしている音だ。


上の路地で足音が乱れた。誰かが下を覗き込む気配。光が差し込み、濁った空気が一瞬だけ白くなる。カイは壁に背を擦りつけ、影の中に身を沈めた。濡れたコンクリートが冷たい。冷たさは、記憶を鈍らせる。だが、彼の内ポケットの本物のカプセルは、まだ熱を持っていた。


忘れることは救いだ。覚えていることは武器だ。武器は、必ず奪いに来る。


カイは暗闇の中で、歯を鳴らさずに笑った。笑いは喉を通らない。胸の奥でだけ鳴る。金で売れない場所で。


そして、都市の腹の中へ歩き出した。戻る道が、雨音と一緒に遠ざかっていくのを聞きながら。



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