第3話:暗号化された愛
雨は酸っぱく、鉄の味がした。路地の排水溝から立ちのぼる蒸気がネオンを噛み砕き、紫と緑の光が濡れた壁を舐めていく。カイのコートの裾が重かった。背中の内ポケットに押し込んだメモリカプセルが、心臓の代わりみたいに脈打っている気がした。
遠くでサイレンが一度、短く鳴って途切れた。鳴らす側が、鳴らす必要を失った音だった。
ミナが先に足を止めた。彼女の首のサーボが小さく鳴り、視線だけが角を切った。
「来る」
言葉はいつも平坦だった。雨の粒が彼女の頬を滑っても、肌の温度は変わらない。変わるのは、カイの喉の奥の乾きだけだ。
角の向こうで、靴底が水たまりを割った。二人、いや三人。足音が揃いすぎている。民間じゃない。
カイは壁際に身を寄せ、古い自動拳銃を引き抜いた。銃身の青黒い擦り傷が、街の光を鈍く返した。旧式の鉄は、最新の倫理より信用できる。弾は少ない。撃てば戻れない。撃たなければ終わる。
最初の影が角を切った瞬間、路地の空気が変わった。黒いレインシェル、首元に治安局の識別灯。顔は透明なバイザーの奥でぼやけ、個人じゃなく「命令」だけが歩いてきた。
カイは息を吐ききり、引き金を絞った。
乾いた破裂音が雨を割った。反動が手首から肘に走り、骨の芯まで冷えた。先頭の男の肩が跳ね、バイザーがひび割れて光が漏れた。倒れない。痛みを知らない補助筋が支えている。
返答はすぐ来た。路地の入口に白い閃光。スタン弾。壁が一瞬昼になり、カイの網膜が焼けた。耳の奥でキーンと鳴り、雨音が遠のく。
ミナの手がカイの襟を掴んで引き倒した。彼女の指は冷たく硬い。二人はゴミ箱の影に転がり、次の閃光が頭上を裂いた。プラスチックが焦げる匂いが混じる。
「視覚補正、入れる」ミナが言った。
彼女のこめかみのパネルがわずかに開き、細いケーブルが指先に滑り出た。雨粒がケーブルを伝って落ちる。彼女は近くの配電箱に指を突っ込んだ。火花が散り、金属の匂いが濃くなる。
カイは目の滲みを無理やり押しのけ、銃を構え直した。視界の端がまだ白い。相手の位置は音で測るしかない。水を踏む音、装備の擦れる音、電子の小さなビープ。命の足音より規則正しい。
二発目。三発目。弾は雨の中で見えない。ただ、当たったときだけ、相手の装甲が鈍く鳴る。ひとりが膝をつき、もうひとりが壁に背をつけた。
「旧式の弾で、よくやる」ミナが言った。皮肉にもならない事実だった。
「褒めるな。腹が立つ」カイは言った。声は自分のものに聞こえなかった。
路地の入口に、四つめの影が現れた。背が高い。肩幅が広い。歩き方に迷いがない。バイザーの下の顎のラインが一瞬見えた。人間の輪郭だった。
カイの指が硬直した。引き金にかけたまま、動かない。
その顔が、メモリカプセルの中で腐りかけた画像と重なった。妻の最後の視界に焼き付いた輪郭。データは冷たい。だが、記憶は湿って重い。雨より重い。
「カイ」ミナが名を呼んだ。声は変わらないのに、路地の温度が下がった。
高い影が手を上げた。命令のジェスチャー。次の瞬間、路地の両側の壁面広告が一斉に点灯した。ネオンが踊り、光が脈打つ。視界がまた裂ける。広告の中の笑顔が、銃口より残酷に眩しい。
治安局は銃だけじゃない。街の光も音も、全部が武器だ。
ミナが配電箱から手を抜き、濡れた指で空中を叩いた。見えない鍵盤を打つみたいに。彼女の手首の関節が高速で鳴り、サーボが唸る。路地の広告が一瞬、ノイズに沈んだ。笑顔が崩れ、色が反転し、文字が意味を失う。
その隙にカイは撃った。眩しさが落ち、影が輪郭を取り戻す。弾は高い影の胸元に当たった。鈍い金属音。装甲がある。相手は一歩も退かない。
「弾が通らない」ミナが言った。
「知ってる」カイは言った。知っているのは、弾のことじゃない。相手が「倒れない」種類だということだ。
高い影が腰のホルスターに手を伸ばした。抜いたのは銃じゃなかった。細い棒状のデバイス。先端が青く光る。神経に触れるタイプの拘束具だ。殺さない。連れていく。消す。記憶ごと。
カイの胃が冷えた。彼は自分の仕事の手順を、相手が逆向きに使うのを想像できた。死者の尊厳を守るために削ってきたものを、生者から剥ぎ取られる。
ミナが一歩前に出た。雨が彼女の髪を黒く重くする。彼女は人間みたいに濡れて見えるが、濡れているのは表面だけだ。
「治安局のボディカム、リンクしている」ミナが言った。「ここで捕まると、あなたの持つデータは即時転送される」
「なら、撃つしかない」
「撃っても、転送は止まらない」
どれも地獄だった。マシな地獄を選べ、と街が言っている。
カイは銃を下げないまま、視線だけでミナを見た。彼女の瞳孔は雨の反射で小さく光っている。そこにあるのは感情じゃない。計算だ。だが、その計算が彼を生かしてきた。
「何が要る」カイが言った。
ミナは配電箱を見た。次に路地の天井を走る古い通信ケーブルを見た。錆びた金具が雨で泣いている。
「この区画のバックボーンに割り込む」ミナが言った。「治安局のリンクを一瞬だけ落とす。ただし……」
「ただし?」
「街全体の監視ログに穴が開く。あなたが嫌う、死者の記録も巻き添えになる」
カイの喉が鳴った。死者の記憶は商品じゃない。彼の中では、墓だった。そこに穴を開けるのは、墓荒らしだ。
だが、今、穴を開けなければ、彼自身が墓に入る。
高い影が距離を詰めた。青い光が雨粒を切り裂き、路地の壁に冷たい影を落とす。
カイは銃を構え直し、わざと大きく息を吐いた。煙草はもう吸えない。代わりに呼気が白く揺れた。揺れが、決断の代わりだった。
「やれ」カイが言った。
ミナは頷かない。彼女はただ、ケーブルを引きちぎるように掴み、配電箱の奥へ押し込んだ。金属が軋み、火花が雨を蒸発させる。焦げた匂いが鼻を刺した。
路地の光が一瞬、死んだ。
ネオンが消え、広告が黙り、雨音だけが戻ってきた。暗闇の中で、治安局の識別灯だけが浮いた。赤い点が、獲物の目みたいに揺れる。
その赤が、ふっと消えた。
リンクが落ちた。監視の心臓が一拍止まった。
カイはその一拍で撃った。狙うのは装甲の継ぎ目。首と肩の隙間。旧式の弾が、古い祈りみたいにそこへ滑り込む。
高い影の頭がわずかに傾き、青い拘束具が水たまりに落ちた。光が雨の中で痙攣し、消えた。影は膝をつき、手で喉元を押さえた。そこから漏れるのは血じゃない。黒い潤滑液と、白い蒸気。人間の輪郭が、機械の匂いに変わっていく。
残りの隊員が動揺した。命令が途切れた群れは、ただの肉と金属だ。カイは二人目を撃ち、三人目を壁に縫い付けた。弾倉が空になり、スライドが乾いた音を立てて後退した。
静寂が落ちた。雨が戻ってきた。街は何事もなかったみたいに、遠くで別のネオンを点滅させている。
ミナが息をしないまま、カイの横に立った。彼女の指先から、焼けた配線の匂いがした。
「穴は開いた」ミナが言った。
カイは倒れた影に近づいた。バイザーの割れ目から覗く顔は、半分が人間で、半分が冷たい素材だった。妻の記憶の中の「犯人の顔」は、ここにある輪郭と同じだった。だが、今目の前にあるのは、ただの筐体だ。データが一致しても、記憶の痛みは一致しない。痛みの方が、いつも正確だった。
カイは水たまりに落ちた青い拘束具を拾い、掌で重さを確かめた。冷たい。人を生かしたまま、消す道具の冷たさだ。
「これで、次は?」ミナが言った。
カイは拘束具をコートの内側に滑り込ませた。得たものは武器。失ったものは、墓の静けさだ。
「次は、もっと追ってくる」カイは言った。
ミナは路地の暗闇を見た。街の光が少しずつ戻り、広告がまた笑い始める。笑顔の裏で、ログの穴が広がっていく。
「戻れない」ミナが言った。
カイは銃の空の弾倉を抜き、最後の予備弾倉を差し込んだ。金属が噛み合う音が、雨の中でやけに大きかった。
「最初からだ」彼は言った。雨の冷たさが、指の関節に染みた。彼はその冷たさを、記憶の代わりに握りしめた。
雨は高架の腹を叩き、古いコンクリートの隙間から油の匂いを引きずり出していた。カイは狭い路地の奥、看板のネオンが半分死んでいる修理屋の軒先に身を寄せた。紫の光が水たまりに滲み、そこに映る彼の顔を歪めた。頬の傷は乾ききらず、雨でまた赤くなった。
胸ポケットから小さなカプセルを取り出す。奪ったメモリ。指先の感触は冷たい樹脂と金属の継ぎ目。何十人もの死者の脳から抜き取ったデータと同じ重さのはずなのに、これは妙に重い。濡れた手袋の革がきしんだ。
ミナは背後で、雨を避けるでもなく立っていた。軍用の骨格が微かに駆動音を漏らす。関節のシールが摩耗していて、動くたびに乾いた擦過音が混じる。人間なら歯ぎしりに聞こえる類の音だ。
カイは修理屋のシャッターの隙間に細いケーブルを差し込み、携帯端末を起動した。画面が青白く光り、雨粒が跳ねて小さな星みたいに散った。端末の裏には、彼が仕事で使う簡易デコーダ。死者の「最後の景色」を遺族に渡すための道具だ。だが今日は遺族はいない。いるのは、都市そのものにとって都合の悪い顔だけだ。
カプセルをスロットに押し込む。カチリ、と短い音。端末が一瞬、沈黙した。次に鳴ったのは警告音だった。耳障りな高音が雨音を切り裂く。
画面に文字が浮かぶ。
アクセス拒否。暗号化レベル:中枢準拠。キー要求:コア・ハンドシェイク。
カイは舌打ちを飲み込んだ。煙草に火をつけた。湿った空気のせいで火が弱く、二度吸ってようやく赤が灯った。煙は雨に叩かれてすぐ消える。消え方が、記憶の削除と似ていた。
ミナが覗き込む。瞳のガラスに端末の文字が反射する。まばたきはしない。
「開かない」
「当然です」ミナの声は濡れた金属みたいに冷たい。「そのメモリは個人用のロックではありません。都市規格のプロテクトです」
カイは端末を叩いた。指が濡れて滑り、画面に水の筋が残る。デコーダが何度か試行し、同じ拒否を返す。拒否のたびに小さな遅延が増える。処理熱で端末の背がぬるくなっていく。ぬるさが嫌だった。生き物みたいで。
「鍵はどこだ」
「鍵はここにはありません」ミナが言った。「コア・ハンドシェイク。中枢サーバーの近傍でしか成立しない認証です。距離とタイミングが条件」
カイは煙を吐いた。雨で薄まっても、煙の匂いだけは残る。焦げた紙と薬品の匂い。彼の仕事場の匂いだ。
「つまり、中心に行けってことか」
「そうです」
中心。都市の心臓。空に突き刺さる塔群の奥、治安局と行政と企業のサーバーが重なり合う場所。そこは光が多すぎて影が薄い。影が薄い場所は、隠れるには向かない。だが、開けるにはそこしかない。
カイはメモリを引き抜き、掌で握った。冷たさが皮膚を通して骨まで届く。カプセルの縁に微細な刻印がある。都市規格。誰かが、最初から「見られない」前提でこれを埋め込んだ。見られないことが、平和の条件だと言わんばかりに。
ミナが淡々と続ける。「解除を試みるほど、ログが残ります。治安局は追跡が容易になる」
「もう追ってる」
「追跡精度が上がるだけです」
カイは笑わなかった。笑う余裕は雨に流されていた。代わりに煙草を指で潰した。濡れた地面に押し付けると、ジュッと小さく鳴って白い蒸気が立つ。蒸気はすぐ雨に溶けた。
端末の隅に、別の表示が出ていた。メモリの状態。劣化カウント。時間が経つほど、ノイズが増える。死者の脳から抜いたデータは、生きた人間の記憶より脆い。彼はそれを嫌というほど知っている。遺族に渡す前に、色が褪せてしまうことがある。笑顔がモザイクになり、声が砂嵐に変わる。思い出がデータに堕ちる瞬間だ。
このメモリも例外じゃない。しかもプロテクトがかかったまま。中身を見られないまま腐っていく。腐るのはデータだけじゃない。彼の中で、何かが同じ速度で腐っていく感触があった。
ミナがカイの顔を見た。見ているだけだ。だがその視線は、銃口みたいに正確だった。
「選択肢は二つです」ミナが言った。「中枢へ行き、解除する。あるいは破棄する。破棄すれば追跡リスクは減ります」
破棄。簡単な言葉だ。彼は何度もやってきた。都合の悪い記憶を切り捨て、綺麗な部分だけを残す。死者のために、と言い訳をつけて。自分のために、と本当は知っていながら。
カイはメモリを握った手を開き、雨の下に晒した。水滴がカプセルの表面を滑り、ネオンを割って流れる。そこに妻の顔が映ることはない。映るのは拒否の文字だけだ。
「破棄したら、何が残る」
「あなたが生き残ります」ミナが言った。「都市も」
カイはメモリをまたポケットにしまった。濡れた布が冷たく肌に張り付く。心臓の鼓動がそこに伝わり、カプセルが微かに揺れる。まるで中で何かが目を覚ましたみたいに。
遠くでサイレンが鳴った。高架の下で反響し、音が二重に聞こえる。近づいてくるのか、遠ざかっているのか分からない。都市の音はいつもそうだ。逃げ道の方向感覚を奪うようにできている。
ミナが言う。「中枢へ近づくほど監視密度は上がります。あなたの過去も、そこにあります。削除した部分も」
カイは顔を上げた。雨粒がまつ毛に溜まり、視界が滲む。ネオンが滲んで、街が泣いているみたいに見える。
「俺の過去なんて、もう売り物にならない」
「売り物ではなく、証拠になります」
証拠。都市は証拠を嫌う。記憶は人を刺すが、データは都市を刺す。だから都市は、記憶をデータに変え、都合よく管理する。痛みは削除し、幸福だけを配る。配給された幸福は、いつも薄味だ。
カイは歩き出した。靴底が水たまりを踏み、汚水が跳ねてズボンの裾を汚す。錆の匂いが強くなる。高架の支柱の影が、ネオンで青く染まっている。影の青は冷たい。冷たさが、決断の輪郭をはっきりさせた。
ミナが並ぶ。足音は軽い。人間の足音じゃない。雨を踏んでも、濡れた感じがしない音だ。
「行くのか」ミナが言った。
カイは前だけ見て言った。「開ける」
「中枢へ?」
「そこしかない」
ミナは頷かない。ただ歩く。論理は頷かない。ただ進む。
サイレンがもう一度鳴った。今度は近い。赤い光が雨の幕の向こうで回り、街角の壁に血の輪を描いた。カイは路地を曲がり、光の届かない暗がりに滑り込んだ。暗がりは湿ったゴミと電気の焦げた匂いがした。そこに、彼の選んだ「マシな地獄」の匂いが混じった。
ポケットの中で、メモリが冷たく沈黙している。まだ何も見えていない。だが見えないことが、いちばん残酷だった。見えないまま腐る。腐る前に中心へ。中心へ行けば、戻れない。
雨は止まない。止まない雨の中で、都市の心臓だけが乾いている。カイはその乾いた場所へ、濡れたまま入っていくしかなかった。
雨は相変わらず、街の表面を薄いフィルムみたいに覆っていた。ネオンはその上で滲み、赤と青が混ざって黒に沈む。路地の奥、配電盤の唸りと排気ファンの金属音が、誰かの心拍みたいに一定だった。
カイはシャッターの半分降りた倉庫に身を滑り込ませた。中は冷えていて、油と錆と湿った布の匂いがした。床には古いケーブルが蛇みたいに這い、踏むたびに水が鳴った。背中のコートから雨が落ち、コンクリに黒い点を増やしていく。
ミナは先に入っていた。軍用フレームの関節が小さく鳴る。濡れた髪の代わりに、濡れた光沢のある装甲がネオンを拾っていた。彼女は壁際の作業台に小型のデッキを置き、電源を入れる。冷たい起動音。青白いインジケータが一つずつ点いた。
カイは胸ポケットからカプセルを出した。死者の脳から抜いた、薄い樹脂の中の黒い粒。妻を殺した顔が入っている。そう思うだけで、喉の奥が乾いた。
作業台の上に置くと、カプセルは小さく震えた。静電気が皮膚を舐める。指先の感覚が一瞬だけ鈍くなる。データは生き物じゃない。だが死者の残り香みたいに、触れた人間の体温を奪う。
ミナが端子を伸ばした。細い針がカプセルのシールを破り、内側の接点に噛みつく。微かなプシュッという音。血が出る代わりに、冷えた空気が漏れた。
「劣化してる」ミナが言った。声は平坦だった。雨音より乾いている。
カイは黙って頷いた。時間は味方じゃない。追手と、データの腐敗。どっちも同じ速度で迫る。
デッキの画面に、暗号化の層が幾重にも重なった波形が出た。黒い海に白い稲妻が走る。解けない結び目みたいに絡まり、解くたびに別の結び目が現れる。
ミナが指を走らせる。機械の爪がタッチパネルを叩く音は、爪楊枝で氷を突くみたいに硬い。解析の進行バーが進んで、また止まる。止まるたびに、倉庫の空気が一段冷える気がした。
カイは壁に背を預けた。古いコンクリが湿っていて、背中越しに冷たさが染みてくる。右手の義手が小さく軋む。握り込むと、内部のサーボが嫌な音を立てた。煙草に火をつけた。火種が暗闇を一瞬だけオレンジに切り取る。吸い込むと、肺の中の湿気が少しだけ逃げた。
画面の波形を見ていると、目の奥が痛んだ。あの顔。妻の最後。自分が知らないままにしてきた部分。カイは自分の頭の中の空白を思い出した。自分で削った穴だ。痛みを避けるために、記憶を切り捨てた跡。
データは嘘をつかない。嘘をつくのは、そこに意味を貼り付ける人間だ。
ミナが言った。「復号は可能。だが、完全には戻らない。失われたフレームは補間する。あなたの脳が穴を埋める」
カイは煙を吐いた。白い筋がネオンの光に溶け、すぐ消えた。消えるのはいつも簡単だ。残るのは、消えた後の匂いだけ。
「補間か」カイが言った。声は自分の耳にも他人みたいに聞こえた。
ミナは頷いた。「記憶ではない。再生されるのはデータ。あなたがそれを記憶に変える」
カイの義手が、無意識に胸元の布を掴んだ。そこにあるはずの温もりを探すみたいに。何もない。あるのは濡れた布と、心臓の鈍い音だけ。
知りたい。知れば、妻の死は「誰かの悪意」で終わる。顔がわかれば、狙う場所ができる。憎しみは方向を持てる。方向を持った憎しみは、銃より軽い。引き金が簡単になる。
知りたくない。知れば、妻の死は「自分の人生の基礎」を崩すかもしれない。犯人が誰か、という話じゃない。そこに至る道が、自分の信じてきた道じゃない可能性。自分が守ったと思っていたものが、最初から守れていなかった可能性。
カイは煙草を灰皿の代わりの空き缶に押しつけた。ジュッと湿った音がして、火が死んだ。死ぬのはいつもあっけない。
ミナは画面を固定し、復号の最終段階を待っていた。待つという行為が、彼女のフレームに似合わないほど静かだった。外からは遠くのサイレン。都市がまだ秩序を演じている音。
カイは作業台に近づいた。カプセルの上に浮かぶ波形が、脈みたいに揺れている。指を伸ばせば、そこに妻の最後がある。だがその最後は、ただの映像じゃない。自分の過去の柱を折る斧かもしれない。
「やめるなら今」ミナが言った。「消去して逃げる。局長はそれを望む。あなたも、生存率が上がる」
カイは笑わなかった。笑う筋肉が固まっている気がした。代わりに、義手の関節が小さく鳴った。金属は正直だ。怖いときほど音を立てる。
「逃げて、何を持ってく」カイが言った。短く吐き捨てるように。
ミナは即答した。「命」
「命だけで、何が残る」
「あなたが消した空白と同じものが残る」ミナの声は変わらない。「機能するあなた」
機能する。都市が人間に求めるのはそれだ。痛みはノイズ。真実はノイズ。静かな幸福は管理できる。管理できないものは、削る。
カイは画面を見た。進行バーがあと数ミリで終わる。終われば、戻れない。見た瞬間から、世界は変わる。見なければ、世界は変わらない。変わらない代わりに、妻は永遠に「誰かに殺された」ままだ。顔のない死。理由のない穴。
カイの喉が鳴った。雨音が一瞬だけ遠くなる。耳の中で、自分の血の流れる音が大きくなる。タバコの匂いが、妻の香水の記憶と混ざりかけて、すぐに崩れた。香水は記憶だ。データじゃない。触れたら、指の間からこぼれる。
ミナが手を止めた。画面が点滅し、復号完了の表示が出る。倉庫の暗闇の中で、その文字だけが妙に明るかった。
「再生可能」ミナが言った。「ただし一回。劣化が進んでる。再生の負荷で崩れる」
一回。人生みたいな回数だ、とカイは思った。二度目はない。やり直しもない。彼が仕事で削ってきたのは、遺族が二度目を欲しがらないようにするための現実だった。見たくないものを見ないで済むようにするための、優しい嘘。
今、自分がその立場にいる。
カイは再生ボタンの上に指を置いた。義手の指先は冷たく、ガラスみたいに滑った。ボタンの縁に付いた水滴が、指の動きに合わせて揺れる。落ちれば、元には戻らない。
ミナが言った。「あなたが知る必要はない。復讐は合理的ではない」
「復讐じゃない」カイは言った。声が掠れた。自分の声の中に、雨の冷たさが混じっていた。「……葬式だ」
ミナは一瞬だけ黙った。機械が沈黙するのは、故障じゃない。計算だ。
「死者の尊厳、という概念のために」ミナが言った。「あなたは自分の尊厳を捨てる可能性がある」
カイはボタンから指を離さなかった。尊厳。そんなものはとっくに、他人の脳を弄るたびに薄くなっている。残っているのは、妻の顔を思い出すときの、胸の奥の硬い塊だけだ。あれが尊厳なら、もう半分は錆びている。
外で何かが転がる音がした。金属が濡れた地面を滑る音。遠くじゃない。倉庫の裏手。追手か、ただの風か。どちらでも同じだ。時間が減る。
ミナの視線が扉の方へ動いた。センサーが拾った音の方向。彼女の手が腰のホルスターに触れる。そこには小型のパルスガン。人間の肉を焼くには十分で、都市の秩序を変えるには足りない。
カイは息を吸った。湿った空気が肺に重い。吐くと、白い霧が出た。霧はすぐに散った。残らない。
「押すなら押せ」ミナが言った。「押さないなら、私が消去する」
カイは彼女を見た。装甲の頬に雨の雫がついている。涙の代用品みたいに光って、落ちていく。彼女は泣かない。泣く機能が壊れている。だから彼女は強い。壊れたまま、正しい。
カイは再生ボタンを見た。指先の水滴が、ゆっくりと縁を越えた。落ちた。小さな音。コンクリに吸われて消える。
それが合図みたいだった。
カイの義手の指が沈み、ボタンが押し込まれた。カチリ、と乾いた音がした。銃の安全装置を外すみたいな音。
画面が暗転し、次の瞬間、白いノイズが走った。倉庫の空気がさらに冷えた。カイの背中の汗が、雨と混ざって冷たく固まる。
真実が立ち上がる前の、ほんの短い間。
カイはその間に、もう一度だけ、知らないままでいられた自分を思った。思っただけで、もう戻れないことが分かった。戻れないという感覚は、痛みじゃなく、重さだった。肩に乗る鉛。息が浅くなる。
映像が、輪郭を持ち始めた。
雨は高架の腹を叩き、濁った水がネオンを砕いて流れていた。路地の奥、廃棄された貨物エレベータのシャフトに身を押し込むと、鉄の匂いが喉の奥に刺さった。古い潤滑油と焦げた配線。都市の内臓の臭いだった。
カイは背中で扉を押さえ、隙間から外の光を切った。遠くでサイレンが一度鳴り、途切れた。追手は音を節約する。静かな狩りほど厄介なものはない。
ミナは濡れたコートの水滴を一度だけ振り落とし、壁際に立った。軍用の骨格は無駄がなく、動きは刃物みたいに短い。彼女の視線は暗闇でも迷わない。カイの手元――胸の内ポケットに入れたメモリカプセルの位置――に吸い寄せられていた。
カイはカプセルを取り出さなかった。出せば、空気が変わる。ここが墓場になる。
代わりに、義手の指でタバコを探った。箱は湿っていた。一本引き抜くと紙がふやけて、指先に貼りついた。ライターの火が点かない。雨が笑っている。
彼は舌打ちして、タバコを噛み切り、フィルターを捨てた。口の中に苦い紙の味が広がる。吸えない煙の代わりに、湿った金属の匂いが肺に入った。
ミナが一歩近づいた。床の水たまりが小さく波を打つ。彼女の足音は軽いのに、耳の奥に残る。
カイは背中のリュックから小型のデコーダを引きずり出した。黒い箱。死者の頭蓋を開けずに中身を覗くための道具だ。電源を入れると、ファンが乾いた音で回り始めた。虫の羽音みたいにしつこい。
カプセルを接続する端子に、彼の手が伸びた。
その手が、わずかに揺れた。
指先の金属が、雨の冷たさとは別の震えを持っていた。端子の穴を一度外し、二度目でようやく合った。カチ、と小さな音。小さすぎて、耳が拾うのは心臓の方だった。
ミナの首が数ミリ傾いた。観察する角度。解剖する角度。
「手が震えています」
カイは目を上げない。機械の画面に走る暗号の列を睨んだ。文字は針金みたいに絡まり、ほどける気配がない。時間だけが削られていく。データは放っておけば腐る。記憶は腐る前に、臭いを放つ。
ミナが続けた。
「それはバグですか?」
カイの義手が、机代わりの木箱の縁を掴んだ。古い木が湿気で柔らかくなっていて、爪が食い込む。軋む音が暗闇に滲んだ。
彼はやっと顔を向けた。ミナの瞳は人工の黒。そこに映るネオンは、雨粒で細かく割れている。涙みたいに見えるが、彼女の中にはその機能がない。
「違う」
声は掠れていた。タバコの代わりに錆を吸い込んだせいだ。
ミナは待つ。沈黙を埋めない。埋める必要がないからだ。
カイは息を吐いた。白くならない息。ここは暖かい。都市の排熱が壁の向こうで脈を打っている。
「恐怖という機能だ」
ミナのまぶたが一度だけ落ちた。瞬きの速度が、検索の速度に似ている。
「不要では」
「必要だ」カイは言った。「怖くなきゃ、消しちまう。何でもな」
ミナの視線がカプセルに戻る。透明な容器の中で、微細な光が脈を打っていた。死者の脳が最後に残した電気の癖。データとしては整っている。だが整っているほど、残酷だ。
カイは画面の暗号列を指でなぞった。なぞってもほどけない。触れれば触れるほど、妻の顔が脳裏の空白に滲む気がした。彼は自分の中の穴を知っている。自分で穿った穴だ。そこに真実を落とせば、底まで響く。
外で、遠くの金属が擦れる音がした。誰かがシャッターを開けたのか、銃を構えたのか。雨の音に紛れた微かな不協和音。
ミナが低く言った。
「追跡の可能性、上昇」
カイは頷いた。頷くことしかできない。選択肢はいつも二つで、どっちも汚れている。
彼の手はまだ震えていた。だが端子からは離さない。震えは止めるものじゃない。握って、引きずって、前に進むための重りだ。
デコーダの画面が一瞬だけ明るくなった。暗号の一部が解け、断片的な映像がサムネイルのように浮かぶ。雨の中の路面。白いヘッドライト。誰かの輪郭。顔はまだ出ない。出たら終わりだ。
ミナがその光を見つめた。まるで初めて火を見た獣みたいに、冷たい目の奥で何かが揺れた。揺れたのは光の反射か、それとも学習の始まりか。
カイは口の中の湿った紙を吐き捨てた。床に落ちたそれは、黒い水に沈んでいった。沈むものは戻らない。
「行くぞ」彼は言った。
ミナは即座に頷いた。
雨は止まない。止むことはない。都市はいつも濡れている。記憶だって同じだ。乾かない。乾かすには、燃やすしかない。
カイは震える手でカプセルを握り直し、胸の内側に押し込んだ。心臓の鼓動と同じリズムで、容器の光が脈を打った。恐怖という機能が、彼の中で正常に動いていた。正常すぎるほどに。
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