第2話:錆びついた街の逃亡者

雨は上からじゃない。横から殴ってきた。高架の隙間を抜けるたび、ネオンの切れ端が水滴に砕けて、路面の油膜に流れた。


カイはコートの襟を立てた。濡れた布が首筋に貼りつく。背中の内ポケットで、薄いケースが心臓の鼓動に合わせて震えた。データは軽い。記憶は重い。重いほうが、いつも人を沈める。


背後で、プロペラの回転音が雨を切り裂いた。ドローンの駆動音は、虫の羽音みたいに細くて執拗だった。たまに短い電子音が混ざる。照準が合うたびに鳴る、乾いた合図。


カイは振り向かない。振り向けば、街の目と目が合う。


「距離、縮小。追跡パターンは規定通り」ミナの声が耳の中で平坦に響いた。骨伝導のインカムが雨音を押しのける。「規定は、あなたの死を前提に作られている」


「優しい慰めだ」


「慰めは機能しない」


カイは笑わなかった。笑う余裕は、路面の水たまりに沈んだ。


スラムの入口は、地図にはない。地図に載らないものほど、よく生き延びる。高架下の暗がり、錆びたフェンスの切れ目、違法配線が垂れ下がる通路。湿った鉄の匂いと、焼けたプラスチックの匂いが混ざって、肺の奥に刺さった。


上空のドローンが一機、ネオン看板の縁をかすめて追ってくる。赤いスキャン光が雨の筋を切り取り、壁に細い格子模様を走らせた。格子は人の輪郭を探す。輪郭を見つけたら、次は穴を開ける。


カイは足を止めずに、左手で通路脇の配電箱を叩き割った。指の関節に鈍い痛み。中から湿った火花が散り、青白い光が一瞬だけ彼の顔を照らした。配線を引きちぎると、街のどこかで低い唸りが起き、看板が一斉に瞬いた。


暗転の一拍。ドローンのスキャン光が乱れた。


「電圧の落ち込み。監視網にノイズ」ミナが淡々と言う。「あなたの犯罪履歴が更新される」


「今さらだ」


カイは狭い路地に滑り込んだ。壁はコンクリートじゃない。寄せ集めの金属板と、廃材のプラスチック。雨水が溜まって、錆が血みたいに流れている。足元の排水溝から、温い蒸気が立ち上った。下水の熱と、腐った甘い匂い。ここは街の胃袋だ。飲み込んだものを吐き出さない。


上で、プロペラ音が乱れた。ドローンが高度を下げる。狭い場所は苦手だが、苦手でも入ってくる。規定は、執念を燃料にしている。


カイは路地の曲がり角で、手を伸ばして錆びた梯子を掴んだ。冷たい金属が掌に貼りつく。上は二階建ての違法増築。床板の隙間から、紫の光が漏れている。誰かの部屋。誰かの生活。誰かの逃げ場。


彼は梯子を二段飛ばしで上がった。靴底が濡れた鉄を蹴って、鈍い音が響く。下から、ドローンの電子音。照準が再ロックする音がした。


屋根に出ると、風が強かった。雨が針みたいに頬を叩く。スラムの屋根は平らじゃない。波打つトタン、太い配管、無数のアンテナ。電波を盗むための釣り針が空に伸びている。


カイは屋根の縁を走った。足元のトタンが軋み、雨水が跳ねた。遠くでサイレンが鳴り、すぐに別の音に飲まれた。発電機の唸り、違法市場のスピーカー、誰かの笑い声。ここでは秩序の声は薄まる。薄まるだけで、消えない。


背後で、ドローンが屋根の高さに並んだ。赤い光が彼の背中を舐める。照準が合う。次の瞬間、空気が裂けた。


硬い衝撃が肩に来た。熱じゃない。冷たい痛み。何かが肉を削り、雨水と一緒に血が流れた。コートの布が破れ、皮膚が裂ける感触が遅れて追いつく。カイはよろめいたが、倒れなかった。倒れたら終わりだ。


「損傷。出血量、増加」ミナが言う。「止血を推奨」


「推奨だけか」


「実行はあなたの役割」


カイは歯を食いしばり、屋根の端から隣の建物へ飛び移った。距離は短い。だが足場は濡れている。着地の瞬間、靴が滑った。膝がトタンに擦れ、骨に響く痛みが走る。金属の冷たさがズボン越しに染み込んだ。


ドローンが追ってくる。狭い隙間の上を、虫みたいにしつこく漂う。彼は屋根の上の配管に手をかけ、身体を低くした。配管は熱い。中を流れる廃熱が掌を焼く。皮膚が焦げる匂いが一瞬、雨の匂いに混じった。


「右、三十メートル。下り階段。視界遮断可能」ミナが座標を吐く。


カイは配管の影を利用して走り、屋根の端にある外階段へ飛び込んだ。階段は錆びて、踏むたびに悲鳴を上げる。下へ降りると、狭い通路に出た。壁際には、古い冷却ユニットが積まれている。ファンが回り、湿った空気を吐き出していた。機械の息。人間より規則正しい。


ドローンのプロペラ音が近づいた。通路の入口に赤い光が差し込む。格子模様が壁を走る。カイは冷却ユニットの裏に身を滑り込ませ、肩の傷を押さえた。血が指の間から滲む。雨に薄まって、黒い筋になった。


彼はポケットから小さな布切れを引きちぎり、傷に押し当てた。布はすぐに温くなった。温さは生きている証拠だが、証拠はいつも追手を呼ぶ。


「あなたの体温が上がっている」ミナが言う。「痛みは行動を鈍らせる」


「痛みがなきゃ、走る理由も薄れる」


「非合理」


「人間だ」


ドローンが通路に入りかけた。プロペラの風が雨粒を巻き上げ、冷却ユニットのファンの吐息とぶつかって渦を作る。赤い光がユニットの隙間を探り、カイの足元に格子を落とした。


カイは息を止め、指先で床の小石を拾った。濡れた石は冷たい。彼はそれを通路の奥へ投げた。石が金属板に当たり、乾いた音が鳴った。


ドローンが反応した。赤い光が音の方向へ滑る。プロペラ音が一瞬、遠ざかる。


その隙にカイは身体を起こし、通路の反対側の小さな扉を蹴り開けた。扉は軽い。違法増築の壁は、いつも軽い。軽さは、住む者の覚悟の薄さじゃない。持ち運べるように作られているだけだ。逃げるために。


中は暗く、湿った布と油の匂いがした。狭い部屋に古いマットレス。点滅する端末。壁には誰かの家族写真が貼られている。紙じゃない。薄いディスプレイだ。笑顔がループで繰り返されている。記憶じゃない。ただのデータ。笑顔の温度は、ここにはない。


カイはその写真を見なかった。見れば、足が止まる。


窓のない部屋の奥に、床板が外れる箇所があった。ミナが指示したのだろう。カイは板を外し、下の暗闇へ身を滑らせた。下は配管だらけの空間で、蒸気が白く漂っている。熱と湿気が肌にまとわりつき、肩の傷口がじくじくと痛んだ。


上で、ドローンが扉を破る音がした。薄い壁が裂ける。電子音が近い。格子模様が床板の隙間から漏れ、蒸気の中で滲んだ。


カイは配管の間を這うように進んだ。金属の腹が背中を擦り、コートの破れ目から冷たい雨が入り込む。息を吐くたび、蒸気が白く広がる。吐いた息さえ、追跡の手がかりになる気がした。


「出血が止まっていない」ミナが言う。「このままでは、あなたは自分の足で倒れる」


「自分の足で倒れるなら、まだマシだ」


「追跡者に倒されるよりは、確かに」


カイは配管の曲がり角で立ち上がった。頭上に低い梁。そこにぶつければ星が散る。彼は慎重に身体を滑らせ、狭い排気口の蓋を押し開けた。外へ出ると、スラムの路地裏だった。ゴミの山。濡れた紙。腐った果物。酸っぱい匂いが鼻を刺す。


遠くでドローンの音がまだする。近い。だが視界は悪い。雨と蒸気と、無数の障害物。ここは迷路だ。迷路は逃げる者に味方する代わりに、迷った者を二度と返さない。


カイは壁に手をつき、肩の血を雨で洗い流した。水が傷に染み、痛みが神経を叩いた。彼はその痛みを、ポケットのケースの重みと並べて感じた。軽いはずのデータが、今は鉛みたいに重い。


ミナが背後を見ずに言った。「あなたは、これを捨てれば生存率が上がる」


カイは路地の奥へ歩き出した。足音は水たまりを踏む音だけ。ネオンの光が濁った水面に揺れ、彼の影を歪めた。


「捨てたら」カイは低く言った。「俺は誰の葬式をしてる」


返事はなかった。雨が代わりに答えた。冷たく、容赦なく、街のすべてを同じ温度にしようとしていた。



雨は錆の匂いを連れてきた。高架の腹の下、配線が垂れたままの排水路に、ネオンの残光が薄く滲む。水たまりは油膜で虹色に割れ、そこへ落ちる雫が小さな爆発みたいに光を散らした。


カイはコンクリの壁に背中を押しつけた。息を吐くたび、胸の奥で何かが擦れる音がした。喉に鉄の味が張りついている。右脇腹の布が雨で重くなり、そこだけ温い。温さは、冷えた空気の中でいやに目立った。


ミナがしゃがみ込む。軍用の関節が微かに鳴った。濡れた髪が頬に貼りついても、指で払う動きすら無駄だと言わんばかりに、視線だけが正確に傷口を測る。


彼女は小さなケースを開いた。中から銀色の縫合器と、透明なジェルパック、細いチューブ。薬品の匂いが雨の匂いを切り裂いた。消毒のアルコールが鼻の奥を刺す。


カイがジャケットをずらすと、ミナの指が迷いなく布を裂いた。布の裂ける音がやけに大きい。冷気が肌に噛みつき、次いでジェルが傷に触れた。冷たさが骨まで届く。


「動くな」


「今さらだろ」


ミナは返事をしない。血と雨水が混じった赤黒い筋を、ライトペンの白い光が照らす。彼女の虹彩は薄い灰色で、そこにネオンが滑っていく。人間の目みたいに揺れない。


縫合器が小さく唸った。カチ、カチ、と乾いた音。金属の針が肉を拾って閉じていくたび、カイの指がコンクリを掴む。爪の間に砂が噛んだ。痛みは、遠い雷みたいに遅れて来て、腹の底で鳴った。


排水路の向こうで、ドローンのローター音が一瞬だけ近づき、また遠ざかった。雨がその音を薄める。上の道路を走る車のタイヤが水を切る音。街はいつも通り、誰かの血を気にしない。


ミナがチューブを取り出し、カイの首筋のポートに接続した。冷たい金属が皮膚を押す。接続音が小さく鳴り、彼女の手首の端末に淡い光が走った。


「止血剤。肝臓への負担は増える」


「借金は増やすな」


「借金ではない。損耗」


ミナはそう言って、薬剤を流した。体の内側がじわりと熱くなる。血の匂いが少し薄まった気がした。代わりに、薬品の甘い臭いが口の奥に上がってくる。


彼女は最後に、裂いた布の上から圧迫パッドを貼った。濡れた手袋がカイの皮膚を滑り、冷たい。ミナの動きには情がない。情がないから、正確だ。


「生存確率、上昇。だが追跡の再開まで——」ミナの視線が空に向く。「七分。あなたの歩行速度では、次の遮蔽物まで到達できない」


カイは煙草を探した。濡れたジャケットの内ポケットに指を突っ込み、ぐしゃりと潰れた箱を引きずり出す。一本だけ生き残っていた。火はつかない。ライターが雨を吸っている。


ミナが手を伸ばし、掌で小さな熱源を作った。軍用の内蔵ヒーター。煙草の先が赤くなり、湿った葉がじゅっと鳴いた。カイが吸い込むと、煙は薄く、苦かった。雨の中で吐いた煙はすぐに溶けた。


「提案がある」ミナが言った。


カイは煙草を口の端に挟んだまま、目だけで促した。


「あなたが保持しているメモリ——『犯人の顔』。それを廃棄し、治安局に投降する。局長グレイの要求はデータだ。あなたの身体ではない。交渉余地はある」


カイの喉が鳴った。煙草の灰が雨で重くなって落ちる。水たまりに落ちた灰は、黒い花みたいに散った。


「廃棄?」


「削除。破壊。クラウドへのバックアップ痕跡も消す。あなたの端末のログを焼く。あなたがそれを見た証拠も消せる」


ミナの声は、雨の音と同じ温度だった。正しいことを言う機械の声。彼女はカイの首筋のポートに繋がったまま、端末を操作している。指先が濡れた画面を滑り、淡い光が雨粒を照らす。


「それで生き残る確率は?」


「六八%。現状は一二%」


カイは笑わなかった。笑うには肺が重い。煙草を吸い、吐く。吐いた煙が雨に殴られて崩れる。崩れた煙の向こうで、街の広告塔が「幸福」「安全」「最適化」と点滅している。文字は水滴で滲み、まるで泣いているみたいだった。


「投降したら、何が残る」


ミナは一拍置いた。計算しているのか、言葉を選んでいるのか、どちらでも同じ顔だ。


「あなたの身体。仕事。自由は制限される可能性が高い。記憶処理の技術は利用される」


カイは煙草を指で挟み、雨で濡れたフィルターを見た。白が灰色に染まっていく。データみたいに、汚れたら戻らない。


「妻は?」


ミナは瞬きをしない。


「死者は戻らない」


カイは煙草を水たまりに落とした。赤い火が、最後に小さく抵抗して消えた。


「投降して、あの顔を消して、俺は何を覚えて生きる」


ミナの視線がカイの胸元——圧迫パッドの下——に落ちた。そこにあるのは傷と血と、まだ温い痛みだ。データじゃない。消せないやつだ。


「痛みは処理できる。あなたはそれを仕事にしている」


「他人の痛みだ」


「同じ構造だ」


カイは雨の中で立ち上がろうとして、膝が一瞬だけ裏切った。コンクリに掌をつき、ざらつきが皮膚を削る。立ち上がると、腹の中で縫った場所が鈍く抗議した。ミナが肩を貸す。金属骨格の硬さが伝わる。人間の温度はない。だが、支えは支えだ。


「俺がやってるのは、記憶の葬式だ」カイは言った。「都合の悪いのを棺に詰めて、遺族に花だけ渡す」


「あなた自身の棺も用意するべきだ。合理的だ」


「合理的な街だな」


上の道路でサイレンが鳴った。遠いが、こちらへ向かっている音だ。雨粒がサイレンの光を吸って、赤と青が排水路の壁に流れた。血みたいに。氷みたいに。


ミナは端末をカイの目の前に出した。画面に、削除プロトコルの確認が表示されている。指紋認証の枠が点滅する。ワンタップで、すべてが消える。顔も、見たという事実も、追手の理由も。残るのは、空っぽの安全。


カイの指が枠に近づく。雨が指先を濡らし、皮膚の溝を埋める。指紋が薄くなる。まるで、自分という証明が溶けていくみたいだった。


ミナが言った。「あなたは生きたいはずだ」


カイは画面を見たまま、低く言った。「生き残って、何を売る」


「あなたの技術。あなたの沈黙」


「沈黙は高く売れる」


「今なら」


カイの指は枠に触れなかった。代わりに端末を押し返し、ミナの腕をどけた。金属が雨で滑り、わずかに軋んだ。


「捨てない」


ミナの顔は変わらない。だが、端末の光が彼女の頬の水滴に反射して、ひとつだけ鋭く光った。刃物の光みたいに。


「あなたの選択は、死亡確率を上げる」


「慣れてる」


「あなたは非合理だ」


「人間はそういう欠陥品だ」


ミナは一歩引いた。排水路の水が彼女のブーツを洗い、黒い汚れを運んでいく。洗っても落ちない汚れがあることを、彼女はまだ知らない。


サイレンが近づく。ドローンの音も混じった。雨の中で金属の羽音が増えていく。時間が削れていくのが、耳でわかった。データの劣化みたいに、じわじわと。


カイは腹の痛みを無視して歩き出した。足音が水を踏むたび、冷たい飛沫がズボンに跳ねた。背中の奥で、逃げ道がひとつずつ閉まっていく感覚があった。鍵をかける音は聞こえない。ただ、空気が重くなる。


ミナが後ろからついてくる。機械の足取りは一定で、雨にも乱れない。


「次の選択肢は?」カイが言った。


「走る」ミナが言った。「そして、あなたが保持しているデータを守るために、別の何かを捨てる」


カイは前を見た。排水路の先に、廃工場の影が口を開けている。暗闇の奥で、古い機械がまだ生きているみたいに、低い振動音を漏らしていた。


「上等だ」


雨が二人の肩を叩き続ける。ネオンは遠くで瞬き、街は何も覚えていない顔をしていた。カイだけが、消せないものを抱えて、暗い口の中へ入っていった。



雨は細い針になって、路地の鉄板屋根を叩いていた。ネオンは水たまりの油膜に裂け、赤と青が腐った虹みたいに揺れている。カイは廃ビルの階段踊り場で背中を壁に預けた。コンクリートは湿って冷たく、背骨の形に沿ってじわじわと熱を奪う。


胸ポケットのメモリカプセルが、心臓の鼓動に合わせて小さく当たる。プラスチック越しに、まだ温度がある気がした。死者の頭蓋から抜き取ったばかりの、他人の人生の切れ端。そこに、妻を殺した顔が入っている。そう分かってから、街の音が一段うるさくなった。遠くでドローンのローターが唸り、下水のポンプが咳き込み、どこかの店の換気扇が脂の匂いを吐き出している。


カイは舌の裏に残った金属の味を噛んだ。安物の鎮静ガムの味だ。噛むたびに、薄い甘さの奥から薬品の苦みが滲む。落ち着くためじゃない。思い出さないための癖だった。


妻が死んだ夜のことは、彼の中ではいつも同じ形をしていた。


病院の白い天井。消毒液の刺す匂い。機械のビープ音。モニターの線がまっすぐになった瞬間の、看護師の靴音。医者の口が動くのに、言葉が水の中みたいに遠い。事故。流れ弾。治安局の掃討で、たまたま。そういう話。


それで終わっていた。終わったことにしていた。


終わらせるのが、彼の仕事だったからだ。


彼は死者の記憶から「都合の悪いもの」を抜き、家族に渡す。泣ける部分だけを残して、棘を抜く。血の匂いのする場面は切り落とす。誰かを憎む顔はぼかす。遺族はそれを「記憶」と呼ぶ。だが、カイにはただの「データ」だった。切って貼って、圧縮して、暗号化して、納品する。


その手つきで、自分の中も同じように触っていた。触った記憶がある。手袋の内側の汗の感触まで、思い出せる。


妻が死んだ直後、彼は自分の頭を開けた。違法な自己処理。痛み止めの匂いと、焦げた樹脂の煙。ミナが黙って器具を渡し、彼は黙って受け取った。言葉は要らなかった。あのときのミナの目は、軍用モデルのガラスみたいに冷たかった。そこに映っていたのは、彼の顔のはずなのに、他人の顔みたいだった。


彼は「妻の死」を、耐えられる形に整えた。そう思っていた。


だが、今は違う。


胸ポケットのカプセルが、別の答えを持っている。死者の脳に残っていた「犯人の顔」。それが都市の根幹だという予感。グレイの声が、雨音の向こうから刺さってくる。安定にはノイズはいらない。真実はゴミだ。焼却炉に放り込め。


その論理は、カイの仕事と同じ匂いがした。消毒液と、焦げたデータの匂い。


カイは目を閉じた。瞼の裏に、妻の横顔が浮かぶ。キッチンの蛍光灯の下、湯気に濡れた髪。鍋の蓋を開ける音。笑い声――そこだけ、やけに鮮明だ。鮮明すぎる。編集された映像みたいに、光が均一で、影がない。


彼の胃がゆっくり持ち上がった。雨の匂いが、急に生臭く感じる。錆と排気と、下水の腐りが混ざって、喉の奥にまとわりつく。


「……俺は、何を消した」


声は、壁に吸われて消えた。答えは返らない。返るはずがない。返るのは、ドローンの遠吠えと、配管を流れる水の音だけだ。


妻の死を「事故」と思っていたのは、誰の都合だ。


治安局の報告書。保険会社の端末。葬儀屋の書類。どれも同じ文言で整っていた。きれいに、滑らかに。引っかかりがない。引っかかりがないことが、今は不気味だった。街の真実はいつも錆びて引っかかる。血は乾いて黒く残る。なのに、彼の記憶だけが、白いままだった。


カイは腹の奥が冷たくなるのを感じた。冷却剤を飲んだみたいに、臓器が縮む。自分がやった編集なら、まだいい。自分の罪だ。だが、もし違うなら。もし誰かが、彼の頭に手を入れて、妻の死の形を「事故」に整えたのだとしたら。


それは、彼がいつも死者にやっていることを、生者の彼にやったということだ。


記憶じゃない。データだ。誰かの都合で上書きされた、ただのファイル。


カイは膝に肘をつき、口元を手で押さえた。指先が震えた。義手ではない、生身のほうが震えるのが腹立たしい。爪の間に、さっき触った鉄錆の黒が残っている。擦っても落ちない。落ちないのは、汚れじゃなくて、染みだ。


喉が勝手に痙攣して、胃酸が上がった。彼は階段の隅に吐いた。酸っぱい匂いが湿ったコンクリートに広がり、雨で薄まっていく。吐いたところで何も消えない。消えるのは、体の中の水分だけだ。


顔を上げると、踊り場の窓の割れ目から街が見えた。ネオンが滲み、広告ホログラムが笑っている。幸福管理局のスローガンが、空中に踊る。「安全」「快適」「最適化」。雨粒が文字を貫き、光が散る。どれも嘘じゃない。嘘じゃないから厄介だった。嘘じゃないまま、人を殺せる。


妻の死も、その「最適化」の一部だったのか。


カイは胸ポケットを握った。カプセルの角が掌に食い込む。痛みが、まだ自分のものだと教える。だが同時に、そこに入っている「顔」が、彼の中の白い天井を黒く塗り替えようとしている。


彼は知っている。見れば戻れない。見なければ、妻は「事故」のまま死ぬ。街は平和のまま回る。グレイは正しい顔をして生きる。カイも、記憶葬儀屋として生き延びられる。


見れば、街が敵になる。見なければ、妻が二度殺される。


どちらも地獄だ。違いは、どちらが少しだけマシか、それだけだ。


カイは吐瀉物の匂いを雨で洗い流すように、口の中を唾でゆっくりすすいだ。舌に残った酸味と金属味が混ざり、苦い。


自分の記憶が改竄されていた可能性に気づいた瞬間、彼は初めて、妻の死を「思い出した」気がした。


いや、思い出したんじゃない。疑ったんだ。疑いはデータのように冷たく、記憶のように温かくない。だが、疑いのほうが痛い。痛みだけは、編集しにくい。


階下で、水たまりを踏む足音がした。二人分。規則的で、急がない。狩りの足音だった。カイは壁から背を剥がし、雨の匂いのする暗がりへ身体を滑らせた。胸ポケットのカプセルが、まだそこにあることを確かめるように、もう一度指で叩いた。


後戻りはできない。できるふりをするのは、いつも死者だけで十分だ。



路地の雨は、上から落ちるんじゃない。看板の縁と配線の束から絞り出されて、油と埃を混ぜて落ちてくる。カイのコートの肩で弾けた雫が、すぐに冷えて貼りついた。


ミナは一歩後ろを歩く。軍用の関節が湿気を吸って、微かに鳴いた。人間なら咳払いで誤魔化す音だが、彼女は誤魔化さない。必要がない。


カイの掌の中で、薄いカプセルが温度を失っていく。死者の脳から抜いた断片。妻を殺した顔。データはデータで、放っておけば腐る。劣化は静かで、容赦がない。


背後で、遠くのドローンが低い唸りを引きずった。雨粒がプロペラに叩かれて、白い粉みたいに散る。


「時間は?」カイが言った。


ミナが首を少し傾ける。瞳孔の奥で、薄い光が走る。「追跡信号の再捕捉まで、七分。カプセルの温度上昇で劣化が加速。あなたの体温は敵です」


「俺が敵なら、助かるな」


「あなたはいつもそう言う。助からないのに」


カイは笑わなかった。歯の裏に金属の味が残っている。さっき噛み潰した鎮痛剤の粉だ。


闇医者の看板は、表通りのネオンの裏側に貼りついていた。点滅する赤い十字が、雨の膜越しに滲む。錆びたシャッターの隙間から、薬品の匂いが漏れている。消毒のアルコールと、血の甘さと、焼けた基板の焦げ。


カイはシャッターを三回、短く叩いた。二拍置いて、もう一回。合図は古い。古すぎて、逆に安全だった。


内側でロックが外れる音がした。金具が擦れて、犬の唸りみたいな音が出る。


シャッターが半分だけ上がり、顔が覗いた。白髪に、目の下の黒い隈。瞳は、いつもより乾いていた。


「カイか」闇医者は言った。声が、湿気を嫌っている。


「急ぎだ」


「急ぎは高い」


「いつもだろ」


闇医者の口角が動いたが、笑いにはならなかった。シャッターが上がり、二人は中へ滑り込む。背後で金属が落ち、外の雨音が薄い壁に押し込められた。


室内は狭い。蛍光灯が一つ、虫の死骸みたいに明滅している。棚にはアンプルと、義歯と、神経束のコイル。床には乾いた血の跡が何本も走っていて、その上をケーブルが蛇みたいに這っていた。


闇医者は手を洗わなかった。代わりに、指先のグローブを擦り合わせて静電気を払った。目がカイの掌に落ちる。


「それを見せろ」


カイはカプセルを出さない。ポケットの中で指を締めたまま、闇医者の顔を見た。蛍光灯の白が、相手の皮膚を紙みたいに薄く見せる。


「先に遮断だ。追跡を切る。俺の頭に残ってるノイズも取る」


「ノイズ?」闇医者が肩をすくめた。「お前の人生全部だろ」


ミナが一歩前に出た。足音が硬い。「遮断パッチを要求。あなたの在庫にある」


闇医者はミナを見て、目を細めた。「軍用の亡霊を連れて歩くとは、趣味が悪いな」


「趣味は死んだ」カイが言った。「仕事だ」


闇医者は棚の奥へ手を伸ばし、黒いケースを引き出した。指が一瞬、躊躇する。躊躇は、ここでは金になる。誰かに買われた躊躇だ。


カイの喉の奥が冷えた。雨より冷たい予感が、舌に触れる。


「椅子に座れ」闇医者が言う。「頭を開ける」


「開けるな」ミナが言った。「パッチだけでいい」


闇医者は鼻で笑った。「機械は人間の恐怖を理解しない。開けないと追跡は切れない」


カイは椅子を見た。金属の肘掛けに乾いた皮膚が貼りついている。誰かの名残だ。ここに座った最後の客の、剥がれた生。


「ミナ」カイが言った。


「罠の可能性、六十二パーセント」ミナが即答した。「あなたが座ると、麻酔で動けなくなる」


「じゃあ、三十八パーセントで賭ける」


「あなたの賭け方は、いつも負ける側」


カイは椅子に座った。背もたれが冷たく、湿った金属が背骨に沿ってきた。頭の後ろに、闇医者の手が触れる。指先が、いつもより軽い。躊躇を隠すために軽くしている。


闇医者は首筋の皮膚を押し、何かを探るふりをした。探っているのは、皮膚じゃない。カイの反応だ。


「動くな」闇医者が言った。


「動かない」カイが言った。「逃げない」


闇医者の手が、背後のトレーに触れた。金属が鳴る。注射器の擦れる音。薬液の匂いが、鼻の奥に刺さる。甘い。麻酔の甘さだ。


ミナが闇医者の手首を掴んだ。指が食い込み、グローブが軋む。


「麻酔は不要」ミナが言った。「遮断パッチを」


闇医者の目が跳ねた。次の瞬間、棚の影から、別の足音が出た。軽い。訓練された足音。雨の中で育った足音じゃない。室内の乾いた床を前提にした足音だ。


カイは振り返らない。振り返ると、選択肢が増える。増えた選択肢は、全部悪い。


「局長からの伝言だ」背後の男が言った。声が若い。若い声は、命令を疑わない。「カイ。手を上げろ」


闇医者が、ようやく笑った。笑いは薄く、切れ味が悪いナイフみたいだった。「悪いな。俺も生きてる」


「生きてるだけで売るのか」カイが言った。


「生きてるから売るんだ」闇医者は肩をすくめた。「死んだら、誰も払わない」


ミナの手が闇医者の手首を捻った。骨が鳴る寸前で止める。軍用の加減だ。殺さないための加減じゃない。必要な情報を引き出すための加減。


「買収額」ミナが言った。


闇医者の額に汗が浮いた。蛍光灯の白が汗を鉛みたいに重く見せる。「関係ない……」


ミナが少しだけ捻る。グローブの内側で、皮膚がずれる音がした。


「言え」ミナが言った。


闇医者は息を吐き、吐いた息が薬品臭に混ざった。「クレジットじゃない。免罪。治安局の監査から外すって……」


「それは高い」カイが言った。自分の声が、やけに遠い。背後の男が銃を構える音が、金属の小さな決意として響く。


「動くな」若い声が言った。「局長は、お前を殺したくない。記憶だけでいい」


カイはポケットの中のカプセルを握り直した。プラスチックが指の熱で柔らかくなる。柔らかくなるほど、劣化が進む。守るほど失われる。


闇医者の目が、カイのポケットに吸い寄せられている。欲じゃない。恐怖だ。局長の目が、ここにある。


カイは、椅子の肘掛けに付いた乾いた皮膚を見た。誰かの最後の抵抗。剥がれて、残って、忘れられたもの。記憶は、こんなふうに残らない。残るのはデータだけだ。データは奪える。記憶は奪えない。だから彼らは、データを奪う。


ミナがカイを見た。表情はない。だが、視線の角度が一ミリだけ変わる。その一ミリが、合図になる。


「あなたが座ると麻酔」ミナが言った。「予測通り」


「予測は当たると退屈だ」カイが言った。


「退屈は生存に有利」


背後の男が一歩近づいた。床板が鳴る。距離が詰まるほど、選択肢が減る。減るのはいい。悪い選択肢しかないなら、少ない方がマシだ。


カイはポケットからカプセルを出した。闇医者の目がそれに釘付けになる。若い男の呼吸が止まる。


「これが欲しいんだろ」カイが言った。


「床に置け」若い声が言った。


カイは床に置かなかった。代わりに、カプセルを自分の歯に当てた。薄い膜が歯茎に冷たい。


闇医者が叫んだ。「やめろ!」


ミナの手が闇医者の腕をさらに捻り、叫びを喉の奥で潰した。


若い男が銃口を上げる。引き金の遊びが消える音がした。


カイは噛み砕かなかった。噛み砕けば、真実は自分の中に戻る。戻った真実は、また奪われる。奪われる前に、彼はそれを使わないといけない。使うには、逃げるしかない。逃げるには、何かを捨てるしかない。


カイはカプセルをミナに投げた。短い距離。雨のない空気を切って、透明な弾丸が飛ぶ。


「持て」カイが言った。「冷やせ。走れ」


ミナは受け取った。掌が閉じる。カプセルが彼女の金属の体温に触れ、すぐに冷えた。人間の熱が敵なら、機械の冷たさは味方だ。


「あなたは?」ミナが言った。


カイは椅子の下に手を伸ばし、固定ボルトを掴んだ。錆びている。錆は、力を必要とする。力は時間を食う。


「俺は囮だ」カイが言った。「趣味が悪いだろ」


ミナは一瞬だけ止まった。止まるのは、彼女の中ではエラーに近い。それでも止まった。学習のために。


「合理的ではない」ミナが言った。


「合理的に生きて、何が残る」カイが言った。言葉が乾いて、喉に引っかかった。


若い男が怒鳴った。「動くな! そいつを渡せ!」


ミナが背中を向けた。ドアへ向かう。彼女の足が床の血の跡を踏む。血は乾いている。データみたいに乾いている。匂いだけが残る。


カイはボルトを引き抜いた。金属が軋み、椅子が少し傾く。闇医者の目が、その動きに釣られる。


「お前、局長に何を約束された」カイが言った。


闇医者は歯を食いしばり、答えない。答えないのは、約束が嘘だと知っているからだ。


カイは椅子を蹴った。椅子が倒れ、金属が床を滑って火花を散らす。火花が蛍光灯の白に負けて、すぐ死ぬ。


その一瞬で、若い男の銃口が揺れた。


カイは立ち上がり、闇医者の棚に肘を叩きつけた。アンプルが落ち、割れ、薬品が床に広がる。甘い匂いが濃くなる。目が痛い。喉が焼ける。


若い男が咳き込み、引き金を引いた。銃声が狭い室内で跳ね返り、耳の奥に釘を打った。弾が棚を抉り、義歯が飛んだ。白い歯が床を転がる。笑いの残骸だ。


ミナがドアを開けた。外の雨音が、刃物みたいに入り込む。


「行け!」カイが言った。


ミナは一度だけ振り返った。瞳の奥の光が、カイの顔を測るみたいに走る。


「あなたは戻れない」ミナが言った。


「最初から戻ってない」カイが言った。


ミナが消える。雨の中へ、冷たい影が滑り込む。


カイは闇医者のカウンターを掴み、体を低くした。次の弾がガラスを割り、破片が雨みたいに降る。破片が頬を切り、温い線が走る。血はまだ生きている匂いがした。


闇医者が震える声で言った。「カイ……局長は、お前を……」


「助ける?」カイが言った。口の端から血が垂れる。「あいつは、俺の記憶を葬るだけだ」


若い男が通信を入れる。「対象、助手が持ち出し。追跡開始」


カイは床に落ちたアンプルの破片を踏んだ。ガラスが靴底で砕ける音がした。痛みはない。痛みは後で来る。いつも後で来る。


彼は闇医者の目を見た。買われた目。免罪で濁った目。


「お前は生き延びる」カイが言った。「その代わり、お前の夜はずっと明るい」


闇医者は何も言えなかった。蛍光灯が明滅し、顔の影が刻々と変わる。影だけが、嘘をつけない。


カイは裏口へ走った。背中で銃声がもう一つ鳴り、壁が砕ける音がした。雨の匂いが近づく。錆と油と、都市の冷たい息。


外に出れば、追手。中にいれば、拘束。どちらも地獄だ。


カイは裏口のハンドルを掴んだ。金属が冷たく、指の血を奪っていく。彼はそれを引いた。


扉が開き、雨が顔を殴った。ネオンが水膜に滲み、街が別の顔を見せる。逃げ道は一本じゃない。だが、戻り道はもうない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る