記憶葬儀屋(メモリア・ブローカー)
深渡 ケイ
第1話:雨とノイズと死に損ない
雨は、都市の皮膚を剥ぐみたいに落ちていた。ネオンは濡れたアスファルトに溶け、紫と青が油膜のように広がる。排気と錆と安い消毒液の匂いが、路地の奥で混ざって腐った。
カイは軒のない壁際に膝をついた。コートの肩口から水が入り、背中を冷たい指で撫でていく。気にしない。気にしても、雨は止まない。
死体は仰向けだった。顔は半分、段ボールの影に隠れている。口元に泡はない。胸の上下もない。ただ、首の付け根だけが妙に綺麗だった。皮膚が一度剥がされ、端子が埋め込まれている。誰かが「準備」だけはして、あとは捨てた。
カイはポケットから細いケーブルを出した。片側のコネクタは使い込まれて角が丸い。もう片側は、新品の刃物みたいに冷たい。
端子の周りの水滴を指で拭う。指先に金属の冷えが伝わる。雨の中でやる仕事じゃない。だが、そういう仕事ほど、だいたい雨の中に転がっている。
コネクタを押し込むと、微かな抵抗のあとに「噛んだ」感触が来た。カチ、と音がして、ケーブルが首から伸びる。死体が都市と繋がる音だ。
カイはもう一方を自分の小型デッキに挿した。デッキの背面ファンが短く唸り、薄い振動が掌に乗った。画面は小さく、雨粒が当たるたびに白い点が走る。ノイズはいつも味方だ。余計なものを隠してくれる。
「起動」すると、デッキのインジケータが緑から黄に変わった。読み出し。死体の脳が、最後の残熱でまだ抵抗している。
カイは片手で死体の顎を軽く持ち上げ、顔を覗き込んだ。若い。頬の線はまだ柔らかい。睫毛に雨が溜まり、眠っているみたいに見える。眠りと死は似ている。違うのは、起こす側がいるかどうかだけだ。
デッキから、かすれた音が漏れた。スピーカー越しの呼吸。泣き声の前にある、喉の奥の震え。映像は出さない。出せば、こちらの目が腐る。音だけで十分だ。
カイはフィルターの設定を確認し、指を滑らせた。「悲嘆」「恐怖」「自己否定」。ラベルは綺麗だが、中身はいつも泥だ。彼はその泥を掬って捨てる。遺族が金を払うのは、泥を見ないためだ。
削除のバーが進む。雨がケーブルを伝い、デッキの縁から滴り落ちる。電気は嫌いじゃない。嫌いなのは、人間のほうだ。
死体の顔が、ほんの少しだけ緩んだ。口角が上がったわけじゃない。ただ、眉間の皺が薄くなる。痛みが抜けると、人はこういう顔になる。生きているときには、なかなか辿り着けない顔だ。
カイはその変化を見届ける。仕事は「消す」ことじゃない。死者の表情を、遺族が耐えられる形にすることだ。死はいつも醜い。だが、醜さのまま渡すと、残った人間が壊れる。
デッキが短く警告音を鳴らした。メモリの劣化。時間がない。死体の脳は、冷えるたびに崩れる。都市の夜は冷蔵庫みたいだ。保存はできる。だが、永遠じゃない。
カイは削除の深度を一段上げた。強引に削れば、余計な部分まで削れる。人格の端が欠ける。だが、遺族はそこまで気にしない。彼らが欲しいのは「最後の安心」だ。欠けた人格より、欠けない日常。
バーが終端に届く。デッキが静かになり、ファンの唸りだけが残った。カイはケーブルを抜いた。首の端子から、わずかな水と透明なジェルが滲む。彼は布で拭い、端子キャップを嵌めた。丁寧に。死体が相手でも、雑にはしない。
雨が強くなり、路地の奥の鉄階段を叩いた。遠くでサイレンが一度鳴り、すぐに途切れた。都市は、必要な音だけを残す。不要な音は消える。人間も同じだ。
カイは死体の顔に手を伸ばし、瞼をそっと閉じた。濡れた睫毛が指に触れた。冷たい。だが、もう震えていない。
「これでいい」
声に出したのは、死体のためじゃない。自分の手の動きを固定するためだ。迷いは指先に出る。指先の迷いは、データに傷をつける。
彼はデッキを閉じ、コートの内側に滑り込ませた。背中の冷えが増した。雨が縫い目から侵入してくる。都市はいつも、隙間から入ってくる。
路地の出口へ歩き出す。足元の水溜まりにネオンが揺れ、彼の影が千切れる。背後の死体は、もう「悲しい顔」をしていなかった。安らかな顔は、作られたものだ。だが、作り物でも、救いになることはある。
カイは振り返らない。振り返れば、仕事が「記憶」になってしまう。彼が扱うのは「データ」だ。データは切り捨てられる。記憶は、切り捨てると血が出る。
雨の中で、彼の靴音だけが乾いたまま進んだ。
雨が止む気配はなかった。路地の排水溝は詰まり、油膜が虹色の舌を出してネオンを舐めている。カイのコートの裾から落ちる雫が、鉄の階段に黒い点を打った。上階の換気扇が、死にかけの肺みたいに唸っている。
アジトの扉は、鍵より先に湿気で膨らんでいた。肩で押すと、蝶番が嫌な音を立てた。中は薬品と古い配線の匂い。消毒アルコールと焦げた樹脂が混ざった、記憶を切り刻む仕事場の匂いだ。
薄暗い室内に、機材の待機灯だけが点々と浮いていた。記憶抽出器の透明カバーに、外のネオンが滲んで映っている。壁際の冷却ユニットは、氷を吐く獣みたいに低く鳴った。
ミナは作業台の前に立っていた。雨の音と同期するように、首のサーボが微かに鳴る。軍用の骨格を民生パーツで繋いだ身体は、動くたびに金属が擦れる。瞳のレンズは乾いていて、瞬きだけが人間の癖を真似ている。
「戻りましたね」
声は平坦だった。温度も湿度もない。
カイは濡れた手袋を外し、シンクに放った。水滴がステンレスに弾け、薄い音を立てる。煙草に火をつけると、湿った空気が火種を渋らせた。煙が上に逃げる前に、天井の換気が吸い取っていく。ここでは、匂いも感情も長居できない。
「何か来てるか」
ミナは壁の端末を顎で示した。端末の通知灯が、赤く瞬いている。赤はいつだって仕事の色だった。血と同じで、乾く前に処理しろという合図。
カイは端末に指を滑らせた。指紋認証の光が、濡れた皮膚の皺を拾う。画面に浮かんだのは、匿名依頼のテンプレート。差出人は空欄。経路は何重にもマスキングされ、追跡用のログが最初から焼かれている。金だけが正直だった。
桁が一つ、日常からはみ出している。
カイは煙を吐いた。煙が端末の光を曇らせ、数字が一瞬だけ揺らいだ。揺らいだのは数字じゃない。こちらの足場だった。
依頼文は短かった。
要人A。脳内データ完全消去。中身を見るな。
指示は命令の形をしていた。お願いの皮も、言い訳の肉もない。残るのは骨だけ。骨は折れやすいが、刺さる。
ミナが端末の横に立ち、画面を覗いた。レンズが数字を無表情に反射する。
「報酬が高い。危険度も同じ比率です」
「いつもだ」
「今回は“中身を見るな”が付属しています。依頼主はあなたの癖を知っている」
カイは端末から目を離し、作業台の上に置かれたメモリカートリッジの山を見た。透明な樹脂の中に、誰かの最期が収まっている。恋人の声。子どもの泣き顔。裏切りの瞬間。どれもデータの形をしているが、触れば体温が残っているように錯覚する。錯覚は仕事の邪魔だ。だが、錯覚がなければこの仕事はただの解体屋になる。
「完全消去、ね」
カイは煙草を灰皿に押しつけた。湿った灰が固まり、黒い塊になった。
「焼却炉みたいなもんだ」
ミナは淡々と続ける。
「完全消去は不可逆です。復元不能。遺族に“綺麗な思い出”を渡す余地もない。あなたの流儀と矛盾します」
カイは冷却ユニットの唸りを聞いた。機械は正直だ。冷やすか、壊れるか。どちらかしかない。人間の記憶も同じだ。残すか、捨てるか。中途半端は腐る。
「要人Aってのが引っかかる」
「要人という語は、治安局の内部分類にも使われます」
ミナの声は雨より冷たい。
「あなたの元相棒の部署が好む言い方です」
カイの喉の奥が、煙草の焦げでざらついた。グレイの顔が脳裏に浮かびかけ、すぐにノイズに押し流された。自分で削ったはずの部分が、雨の水圧みたいに戻ろうとする。削るたびに、穴の縁が鋭くなる。
端末の下部に、支払い条件が表示されていた。前金で半分。残りは完了後。前金の送金は既に済んでいる。残高の数字が、カイの口座に不釣り合いな重さで座っていた。金は匂いを持たない。だから余計に不気味だ。
ミナが言う。
「断るなら、今です。受けるなら、今です。匿名依頼は猶予を与えません」
カイは作業台の引き出しを開けた。中には、使い込んだコネクタと、焼け跡のあるデータピンセット。それから、目を背けたくなるような小さなメモリ片が一つ。自分のものだ。欠けている部分が、欠けたまま光っている。
彼はそれを見ないように引き出しを閉めた。金属が噛み合う音が、やけに大きかった。
端末に戻り、依頼の添付を開く。ターゲットの搬送予定。場所。時刻。必要機材。全部が整っている。整いすぎている。誰かが、カイの手順を手のひらで転がすみたいに把握している。
「中身を見るな、か」
カイは低く言った。
「見るなって言われると、見たくなる」
ミナは即答した。
「あなたが見れば、あなたが死にます」
「見なきゃ?」
「あなた以外が死にます。依頼主が“要人”を消したい理由は、誰かの生存と直結している可能性が高い」
カイは笑わなかった。笑うとしたら、喉の錆が剥がれて血が出る。代わりに、窓の外を見た。雨がガラスを叩き、遠くの看板が滲んでいる。街はいつも通りに光っている。いつも通りの嘘を、いつも通りの速度で流している。
この仕事を受ければ、誰かの頭の中を丸ごと消す。綺麗な部分も、汚い部分も、痛みも、救いも。データとしての記録は消える。だが、消したという事実だけは残る。手の中の感触として、指の節の疲れとして、眠りの浅さとして。
断れば、金は返せない。返したところで、相手は納得しない。匿名依頼の本当の支払いは、金じゃない。沈黙だ。
ミナが言った。
「あなたはいつも、死者の尊厳を理由に覗きます」
「覗くんじゃない。弔うんだ」
「弔いは、データの中身を必要としません」
カイは端末の承諾ボタンの上に指を置いた。指先が湿っている。雨のせいか、別のものかは分からない。機械は迷わない。迷うのは、まだ壊れていない証拠だ。
承諾を押せば、戻れない。依頼主は逃げ道を用意しない。完全消去は、仕事の中でも最も乾いた殺し方だ。記憶を殺す。人を殺すより静かで、後味が長い。
カイは指を押し込んだ。
端末が短く鳴り、画面の赤が別の赤に変わった。進行中。キャンセル不可。そう書かれている。
ミナのレンズが、わずかに角度を変えた。
「選びましたね」
「選んだのは地獄の種類だ」
「種類が違っても、温度は同じです」
カイはコートを椅子に掛け、濡れたシャツの袖を捲った。腕の皮膚の下に埋め込まれたポートが、冷たい光を返す。彼は工具箱から滅菌シートを取り出し、台を拭いた。アルコールの匂いが立ち、鼻の奥が刺された。雨の匂いが遠のき、仕事の匂いが近づく。
「準備しろ、ミナ」
「必要機材は揃っています。問題はあなたです」
「俺が何だ」
「あなたは“見ない”という命令に耐えられない」
カイは抽出器の電源を入れた。ファンが回り始め、低い振動が床を伝う。光が一つ、また一つ点る。機械の心臓が目を覚ます音だ。
「耐えるさ」
カイは言った。煙草を取り出し、火をつけるのをやめた。代わりに、フィルターを指で潰した。白い繊維が潰れ、戻らない形になった。
「耐えなきゃ、もっと悪いことになる」
外の雨は強くなった。ネオンは滲み、街の輪郭が溶けていく。溶けた光の向こうで、誰かが“要人”の頭の中を消す準備をしている。カイの指の中で潰れたフィルターみたいに、形を変えたら戻らないものが、また一つ増えた。
雨は屋上の排水溝を叩き、古い鉄の匂いを引きずって階下へ落ちていった。カイの作業場はその雨の下にある。ネオンの滲みが窓ガラスに貼りつき、青と紫の筋をゆっくり流した。換気扇は死にかけの肺みたいな音を出し、焦げた樹脂と消毒用アルコールの匂いを混ぜて吐いた。
作業台の上には、さっき回収したばかりの脳殻ユニットが横たわっていた。死者の頭蓋に埋め込まれた、黒い陶器みたいなカートリッジ。濡れた手袋で触ると、微かな振動が指に返る。まだ熱が残っている。生きていた時間の余熱だ。
ミナは壁際で立っていた。軍用の骨格を雑に隠す外装。濡れた髪が首筋に張りついても、瞬き一つしない。瞳の奥で、診断用の光がかすかに明滅していた。
「劣化率、上昇」ミナが言った。声は平坦で、雨音に負けない硬さがある。「搬送時に電磁ノイズを浴びています。全域コピーは危険」
カイは煙草に火をつけた。ライターの火が一瞬、作業台の金属を赤く舐めた。吸い込むと、喉の奥に苦い熱が落ちていく。吐いた煙は、ネオンの反射に切り刻まれて天井へ散った。
「だから、今やる」カイは言った。
彼はカートリッジを固定具に嵌め、端子に細いプローブを刺した。接続の瞬間、機械が小さく鳴いた。水滴がケーブルを伝って床に落ち、コンクリートに黒い点を作る。モニタの片隅で波形が跳ね、ノイズが白い砂嵐になって走った。
葬儀屋の仕事は、覗くことじゃない。覗かずに整えることだ。遺族が欲しがるのは、痛みのない最後。死者に残るのは、切り取られた「綺麗」だけ。
だが、データは嘘をつかない代わりに、簡単に腐る。
カイは解析ソフトを立ち上げ、破損箇所のマップを開いた。赤い欠損が脳内地図のあちこちに咲いている。特定の領域に、針で刺したみたいな穴が集中していた。誰かが狙って削った痕だ。葬儀屋の手口じゃない。もっと荒い。もっと権力の匂いがする。
「ここ」ミナが顎でモニタを指した。「圧縮痕。再書き込みの痕跡。検証にはサンプル再生が必要」
カイは指を止めた。煙草の灰が、知らないうちに長く伸びていた。灰は落ち、金属の皿に当たって粉々に砕けた。
「一秒でいい」ミナが続けた。「ヘッダ整合性の確認。内容の理解は不要」
皮肉だ。内容の理解が不要な映像なんて、この街にはない。
カイは無言で、再生範囲を最小に絞った。タイムコードを先頭から数フレームだけ。音声は切る。視覚だけ。破損チェック。自分に言い聞かせる言葉は、雨音にすぐ溶けた。
再生ボタンを押すと、モニタが暗転し、次の瞬間、白い蛍光灯の眩しさが画面から溢れた。
病院じゃない。清潔すぎる。壁は無機質な灰色で、角が丸められている。床は濡れていないのに光を返し、靴音が硬く響く。監視カメラの視点。上からの角度。施設の目だ。
画面の隅に、政府の紋章が一瞬だけ映った。古い鳥の形。翼の線が鋭く、どこか刃物みたいに見えた。
カイの指の関節が、わずかに鳴った。義手の軋みじゃない。生身のほうだ。
次のフレームで、担架が通った。白いシーツ。腕が垂れている。手首に巻かれたタグが揺れ、バーコードが蛍光灯に光った。担架を押す男たちの顔はぼやけている。モザイクじゃない。記録自体が、意図的に焦点を殺されている。
担架の横で、ひとりの女が歩いていた。髪は短く切られ、首筋が露出している。頬は痩せて、目の下に影が落ちている。だが、歩き方だけは変わらない。肩の角度。指先の癖。誰にも真似できない、その「癖」。
カイの肺が、煙を吸うのを忘れた。
女が顔を上げた。蛍光灯の白が瞳に刺さり、涙みたいに光った。頬に貼られた電極パッド。こめかみの小さな切開痕。皮膚の下で細い配線が走っているのが、透けて見えた。
死んだはずの女だった。
カイの妻。
画面の中の彼女は、口を動かした。音は切ってある。だが唇の形が、言葉を吐く。助けて、と読める形じゃない。もっと短い。もっと硬い。名前だ。カイの名前を呼ぶときの、あの癖のある口の動き。
次の瞬間、白衣の腕が伸び、彼女の顎を掴んで横を向かせた。乱暴な手つき。彼女の首筋の皮膚が引っ張られ、タグが見えた。番号。個体識別。人間の名前じゃない。
「実験体」ミナが言った。淡々と、画面の情報を読み取るように。「収容施設。国家医療局の管轄。死亡証明と矛盾」
カイは再生を止めた。モニタは砂嵐に戻り、ノイズの海が部屋を照らした。雨の音が、急に近くなった気がした。換気扇の唸りが、喉の奥まで入り込んでくる。
煙草の火が、いつの間にか消えていた。吸い口だけが濡れて、苦い。
カイはカートリッジから手を離さなかった。指先に伝わる微振動が、心臓の鼓動みたいに不快だった。データは冷たい。だが、データの中にいた女は、温度を持っていた。血の色を持っていた。
ミナが一歩近づいた。床の水溜まりが、彼女の足元で小さく波打った。
「選択肢」ミナが言った。「この断片を削除し、通常の葬儀編集を行う。あなたは生存確率を維持できます」
カイの視線はモニタの砂嵐に刺さったままだった。ノイズの粒が、さっきの蛍光灯の白と同じ色をしているのが腹立たしかった。
「もう一つは」カイが言った。声が乾いていた。雨のせいじゃない。
「保持する」ミナが言った。「解析する。追跡する。都市治安局と国家医療局、両方を敵に回す。生存確率は下がります。時間もありません。劣化が進行しています」
時間。データの腐敗は、雨より容赦がない。今この瞬間も、記録の端から崩れていく。妻の顔の輪郭が、砂嵐に溶けるまでの猶予。
カイは固定具のロックを外し、カートリッジを抜いた。端子が離れるときの小さな火花が、指先を青く照らした。火花はすぐ消えた。消えるのが早すぎた。
彼はカートリッジを防磁ケースに押し込み、蓋を閉めた。金属の留め具が「カチ」と鳴る。棺の蓋みたいな音だった。
「葬儀屋が、死者を増やす仕事をする羽目になるとはな」カイが言った。
ミナは瞬きもせずに答えた。「あなたは死者の尊厳を守ると言う。彼女は死者ではありません。矛盾です」
カイはケースをコートの内ポケットに入れた。胸の内側で、硬い角が肋骨に当たった。痛みは現実だった。データは現実じゃない。だが、痛みは嘘を許さない。
外のネオンが、雨の膜越しに揺れた。街はいつも通り、平和の顔をしている。誰かの幸福を管理するために、誰かの記憶を切り捨てる顔だ。
カイは作業台の引き出しを乱暴に閉めた。金属が鳴り、工具が中で跳ねた。
「出るぞ」カイが言った。
「目的地」ミナ。
「わからない」カイはドアノブに手をかけた。冷たい金属が掌に張りつく。「わからないままじゃ、死んだことにされる」
ドアを開けると、湿った風が顔を殴った。雨が街灯を叩き、アスファルトの油を浮かせて虹色に光らせている。遠くでサイレンが鳴った。近づいているのか、ただこの街がいつも泣いているだけなのか、区別がつかない音だった。
カイは階段を下りた。靴底が濡れた鉄に滑り、体が一瞬だけ傾いた。戻るなら今だ、と階段が囁いた。戻れば、きれいに編集して、何も知らなかったことにできる。知らなかったなら、痛まない。
だがポケットの中のケースが、肋骨をもう一度突いた。後戻りの余地なんて、最初からなかった。彼はそのまま暗い路地へ足を踏み出した。雨がコートを叩き、冷たさが背中から骨に染みていった。
雨が窓の鉄格子を叩いていた。ネオンが水滴の膜に砕け、床の油染みに滲んでいる。カイの指先には、まだ他人の脳の温度が残っていた。冷えきらないプラスチックの匂いと、焼けた埃の匂いが混じる。編集台のファンが、疲れた犬みたいに唸っていた。
ミナは壁際で立っていた。軍用の骨格に貼られた安物の皮膚が、蛍光灯のちらつきで白く青く見える。瞳孔は固定焦点のまま、部屋の隅から隅までを数値で測っているようだった。
カイは金属ケースを開け、薄いカートリッジを一本、指でつまんだ。透明な樹脂の中に、微細な光の筋が泳いでいる。死者の最後の断片。そこに混じっていた“余計なもの”が、まだ頭の裏側を擦っていた。
机の上の端末が、短く鳴いた。通信ではない。警告音だ。都市の空気が、ひとつギアを噛み替えるときの音。
ミナが言った。「侵入信号。外壁、熱源付着。起爆まで——」
言い終わる前に、床が持ち上がった。
衝撃は音より先に来た。肺の中の空気が一瞬で奪われ、耳の奥が白くなる。壁の錆びた鋼板が紙みたいに裂け、雨が横殴りに吹き込んだ。ネオンの色が、爆炎の橙に塗り替えられる。焦げた配線の匂いが、鼻腔を焼いた。
カイは机の角に肩を打ちつけ、歯が鳴った。視界の端で編集台が跳ね、ケーブルが蛇みたいに暴れて火花を吐いた。天井のパネルが剥がれ落ち、黒い粉と断熱材が雪みたいに舞う。火はすぐに育つ。安い断熱材はよく燃える。都市は貧乏人に、火事のやり方まで教える。
ミナがカイの襟を掴んだ。指の力は人間じゃない。関節のサーボが乾いた音を立てる。「生存確率が下がります。移動。」
カイは呻き、金属ケースを抱え込んだ。中のカートリッジがぶつかり、カチカチと乾いた音を立てる。記憶はガラスより脆い。割れたら終わりだ。データなら複製で済む。だが、これは違う。死者の脳の湿った暗がりから掬い上げたものだ。二度と同じ温度では戻らない。
二発目が来た。今度は窓側。鉄格子が赤熱し、雨粒が触れた瞬間に蒸気になって白く爆ぜた。熱風が背中を舐め、皮膚が縮む匂いがした。カイの頬を、ガラス片が掠める。血が雨に混じって、すぐ薄まる。
「グレイか」カイが吐き捨てた。口の中が鉄の味だった。
ミナは答えない。答えが必要ないからだ。都市治安局は、こういうとき必ず“掃除”をする。足跡も、証拠も、記憶も。
カイは床に散ったカートリッジを目で数えた。拾える数じゃない。火がもう床下を走っている。樹脂が溶ける甘い匂いが立ち上がり、喉の奥にまとわりつく。
彼は一本だけ、さっき指でつまんだそれをポケットに滑り込ませた。残りは、ケースごと抱えた。重さが腕に食い込む。持ち出せるのはこれが限界だ。選ぶしかない。いつもそうだ。死者の人生は長いが、持てるのは片手分だけ。
ミナが先にドアへ向かった。だがドアはもうなかった。枠だけが歪み、向こうは炎と煙で満ちている。廊下の床材が溶け、黒い液体になって流れていた。遠くで警報が鳴っている。都市の警報はいつも遅い。間に合うのは、間に合わないときだけだ。
ミナが足を止めた。「上。非常梯子。屋上へ。」
カイは咳き込みながら頷いた。煙は喉を刃物みたいに切る。目が痛む。涙が勝手に出る。涙は感情じゃない。煙のせいだ。そう言い聞かせるのが、彼の癖だった。
階段は半分崩れていた。鉄骨が露出し、熱で赤く光っている。カイが足をかけるたび、靴底がべたついた。焼けたゴムの匂いが鼻を刺す。ミナは迷いなく進む。彼女の足音は一定で、雨の音と同じリズムだった。
三階の踊り場で、天井が落ちた。火の塊が舌を伸ばし、二人の間を裂いた。カイの前髪が焦げ、皮膚が熱でひりつく。ミナが腕を伸ばし、カイのケースを掴んで引き寄せた。サーボが唸り、金属が軋む。
「荷物を捨てれば速度が上がります。」ミナが言った。
カイは笑ったつもりだった。喉が焼けて、息が割れるだけだった。「捨てたら……仕事が終わる。」
「仕事は終わっています。あなたの生存が——」
「俺の仕事は、死んだ奴の顔を泥に埋めないことだ。」
ミナの目が一瞬だけ揺れた。揺れたように見えただけかもしれない。雨粒が瞳に当たって屈折しただけ。どちらでも同じだ。彼女は答えず、火の縁を跨ぐように進んだ。
屋上へ続く非常梯子は、雨で滑っていた。手をかけると、冷たい水が手袋の縫い目から染みた。下ではアジトが呻いている。梁が折れ、配管が破裂し、圧力が抜ける音が、死に損ないの呼吸みたいに続いた。
カイは梯子を登りながら、ポケットのカートリッジに指を押し当てた。薄い樹脂越しに、微かな振動が伝わる。データは冷たい。だが記憶は、まだ熱を持っている気がした。そこに映っていた顔——妻を奪ったものの輪郭が、煙の向こうに張りついて離れない。
屋上に出た瞬間、雨が顔を殴った。冷たさが火傷の熱を一瞬だけ奪う。ネオン看板が近くで唸り、紫の光が水たまりに揺れている。遠くの高層ビル群は霧に溶け、空は鉛色だった。都市はいつも、濡れた金属の匂いがする。
背後で、アジトが一度大きく沈んだ。次に、腹の底まで届く音が来た。火が内部のガスに噛みつき、建物が内側から膨らんで裂けた。窓のない壁が外へ倒れ、雨の中に火花と破片を撒き散らす。熱が背中を押し、カイのコートがばたついた。
ミナが屋上の縁へ歩き、下を覗いた。治安局の黒い車列が、路地の入口に鼻先を揃えていた。ライトが雨を切り裂き、白い柱になって揺れる。上空にはドローンの羽音。蜂の群れみたいな音が、雨音の上に薄く乗る。
ミナが言った。「包囲。退路は二つ。飛び降りるか、捕まるか。」
カイは屋上の縁に立ち、下を見た。濡れた非常階段、配管、看板のフレーム。どれも頼りない。だが捕まれば、もっと頼りないものになる。自分の頭の中だ。彼はそれを知っている。記憶は奪われる。データにされ、切り貼りされ、都合のいい平和の部品にされる。
彼は金属ケースを抱え直した。肩の筋が悲鳴を上げる。雨がケースを叩き、冷たい音を立てる。
「落ちるぞ。」カイが言った。
ミナは即座に頷いた。「骨折確率——」
「数えるな。」
彼は縁を蹴った。世界が一瞬、無音になった。雨が頬を流れ、ネオンが視界の端で伸びる。落下の風がコートを膨らませ、煙の匂いがようやく遠ざかる。
金属ケースが胸に食い込み、痛みが確かな重さで彼を現実に繋ぎ止めた。失うなら、ここで失う。捕まって消されるよりは、マシな地獄だ。
下の看板フレームに足が当たり、金属が悲鳴を上げた。膝が砕けるような衝撃。カイの口から息が漏れ、雨の中に白く散った。ミナは隣の配管に手をかけ、滑るように着地した。彼女の動きだけが、雨の中で異様に正確だった。
路地に転がり落ちた瞬間、背後でアジトが完全に崩れた。炎が雨に叩かれながらも、しつこく空へ舌を伸ばす。煙が黒い布みたいに垂れ、ネオンを汚した。
カイは濡れたアスファルトに片膝をつき、ケースを抱えたまま息を整えようとした。喉は煤でざらつき、舌に金属の味が残る。雨が血を洗い流し、冷たさが痛みを増やした。
ミナが路地の奥を指した。「三十秒で追跡が降りてきます。」
カイは立ち上がった。膝が笑う。だが笑っている暇はない。背中の火の熱が、まだ皮膚に貼りついている。もう戻れない。戻る場所が、燃えて崩れた。
彼はポケットのカートリッジを指で叩いた。小さな硬さが、確かな罪みたいにそこにあった。データなら捨てられる。記憶は捨てると、捨てたことだけが残る。
「行くぞ。」カイが言った。
ミナは雨の中で頷き、二人はネオンの汚れた路地へ走り出した。背後でドローンの羽音が近づき、雨粒がその振動で細かく震えた。都市が、彼らの名前を消しに来ていた。
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