4話

境界防衛第四拠点は、静かすぎた。


恒常的な緊張が求められる場所にしては、あまりにも変化がない。

警鐘は鳴らず、結界反応も正常値を保っている。

見張り台の上で交代に立つ兵士たちは、

その「異常のなさ」に、かえって落ち着かなさを覚えていた。


「……結局、来ないな」


櫓の縁にもたれ、若い兵が低く呟く。

名はエルツ。配属されて半年、実戦経験はない。


「来てほしいのか?」


隣で双眼鏡を構える下士官が、視線を外さずに返した。


この拠点で十年以上勤務している古参、ガルドだ。


「いえ、そういう意味じゃ……」


エルツは言葉を探す。


「キメラ、って話。あれだけ騒いでたのに、何も起きないから」


その単語を口にした瞬間、

櫓の空気が、わずかに硬くなった。


「公式には、未確認だ」


ガルドは淡々と言う。


「討伐報告はある。冒険者がやられたって話もな。だが――」


「魔族の兵器、ですよね?」


エルツが遮る。


「そう断言できりゃ、話は早い」


ガルドは双眼鏡を下ろし、若い兵を一瞥した。


「だが、越境はなく、結界も破られていない。魔族部隊の動きも確認されていない」


「それでも、人が死んでいます」


「だから、ここに俺たちがいる」


言葉は厳しいが、声は落ち着いている。


「“起きてから考える”って判断を、上が嫌がってるだけだ」


エルツは黙り込んだ。


防衛部隊に配属された以上、最悪を想定する訓練は受けている。

だが、想定と実感は別物だ。


「……もし、本当にキメラなら」


「その時は、闘うしかない」


即答だった。


「魔獣でも、魔族でもない。だが、境界を壊す存在だ」


ガルドは再び双眼鏡を構える。


「だから――」


その言葉は、途中で止まった。


視界の端。

結界監視用の符が、一瞬だけ脈打つ。


「……反応?」


エルツが身を乗り出す。


「誤報か......?いや――」


ガルドは、ためらわずに警鐘索へ手を伸ばした。


「総員、配置につけ。訓練じゃない」


遠くで、低い警鐘が鳴り始める。

そして警鐘が、完全に鳴り切る前だった。


境界線の内側――

監視区画の森が、不自然に静まり返る。


風は止んでいない。

虫の声も消えていない。


それなのに、「何かがいる」気配だけが、はっきりと存在していた。


「……見えるか?」


ガルドの声が低く落ちる。


エルツは双眼鏡を覗き込み、そして、息を止めた。


森の縁、結界線の手前。


そこに――

“それ”は立っていた。


四足。

だが、獣ではない。


胴体は獣に近いが、

前脚は明らかに人型の構造を持ち、

背には歪に折れた翼の痕跡が残っている。


頭部は一つではなかった。


角を持つもの。

牙を剥いたもの。

そして、人の顔に似た輪郭が、

不自然な位置に縫い付けられている。


「……キメラ」


誰かが、呟いた。


その瞬間、理論も想定も、すべてが現実に変わった。


「全員、構えろ!」


ガルドの怒声が飛ぶ。


弓兵が矢を番え、魔術兵が詠唱を開始する。


「結界は?」


「反応、正常です!」


「越境は?」


「――してません!」


事実だった。

キメラは、境界線を越えていない。


だが――


次の瞬間、

キメラが“跳んだ”。


助走はなかった。溜めもなかった。


ただ、

空間を踏み潰すように前脚を叩きつけ、

距離を消し飛ばす。


その瞬間、「境界」という名の防衛線は、崩壊した。


「――来るぞ!」


衝突音。


前列の盾兵が、まとめて吹き飛んだ。


悲鳴が上がる。だが、それは長く続かなかった。

キメラの顎が開き、盾ごと兵の上半身を噛み砕く。


骨の砕ける音。血が、霧になる。


「後退! 陣形を――」


命令は途中で途切れた。


キメラの尾がしなり、別の兵を横殴りに叩き飛ばす。鎧が歪み、地面に転がる。


動かない。


「治療兵!負傷者を後方へ!」


「無理だ!近づけない!」


魔術部隊から魔術が放たれる。

火球、雷撃、水槍。

ありとあらゆる属性の攻撃が、目標に向かう。


当たる。確かに、当たっている。


だが、止まらない。


皮膚の一部が焦げ、筋肉が露出しても、キメラは速度を落とさない。


「……効いてない?」


「効いてる!だが、足りない!」


それは、“倒せない”のではない。


“殺し切る前に、こちらが削られる”。


明確な差だった。


エルツは必死に弓を引く。

狙いは関節。動きを止めるためだ。


矢は刺さる。

だが――


キメラは、自分の腕に刺さった矢を噛みちぎるように引き抜いた。

そして、“人の顔に似た口”が、歪む。


笑ったように見えた。


「……っ」


背筋が凍る。


その時だった。


エルツの視界の端、森のさらに奥。結界の外。


そこに――

“影”があった。

一つではない。

複数。


立っている。ただ、見ている。


結界の位置を、こちらよりも正確に把握している。


月光に照らされ、その輪郭が、一瞬だけはっきりした。


――角。


――人型。


――魔族。


「……魔族だ」


声が、震える。


「後方に……魔族がいる!」


ガルドが振り返る。


双眼鏡を構え、そして、言葉を失った。


「……確認した」


否定はなかった。

躊躇もなかった。


「あれは、斥候だ」


誰かが叫ぶ。


「魔族が、攻めてきたんだ!」


「キメラは、囮だ!」


その判断は、この場にいる誰にとっても、最も自然だった。


なぜなら――


キメラは、

“ちょうどいい数”で現れ、

“ちょうどいいタイミング”で暴れ、

そして、魔族の影は、

“見える位置”に立っていたからだ。


偶然には、見えない。


「退却命令を!」


「無理だ! 今引けば――」


その言葉は、次の衝撃で掻き消えた。

キメラが、最後の盾兵を踏み潰し、防衛線が、崩れる。


境界防衛部隊は、この瞬間、確信した。

魔族が、戦争を始めたのだと。


その認識が、この戦闘で最も致命的だったことを――


彼らは、まだ知らない。





境界から、少し離れた高台。


月明かりの届かない場所で、女は一人、戦場の方角を見下ろしていた。


赤い髪が、夜風にわずかに揺れる。

吸血族の感覚が、遠くの血の匂いと悲鳴を正確に拾っていた。


「……ちゃんと、見えたみたいね」


呟きは、誰に向けたものでもない。


キメラは、役目を果たした。

人間の兵は、敵を“理解した”。

そして――影を見た。


越境したのは、獣。

だが、彼らが信じるのは、獣ではない。


「魔族が来た、って」


口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「ええ。そう思うわよね」


彼女は動かない。

指一本、境界の外側へは踏み出さない。


釘は、刺されている。

あの夜の、闇の中で。


だから――

自分では戦わない。


代わりに、理由だけを置いていく。


「戦争はね」


小さく、楽しげに言う。


「始めるものじゃないの。

 “始まったと思わせる”ものよ」


背後で、影が揺れた。

配下の吸血族たちが、すでに退路へ散っている。


痕跡は残さない。

ただ、見せるだけだ。


ヘラーナは、最後に一度だけ振り返る。


境界線の向こう。

炎と叫びが上がる、防衛線。


「さて……」


その声は、夜に溶けた。


「どこまで耐えられるかしらね。

 “正しい人たち”は」


彼女の姿は、いつの間にか消えていた。


残ったのは――

人間側が、もう後戻りできないと確信した夜だけだった。

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