3話

魔王城の軍事区画は、夜でも完全には眠らない。


完全に照明を落とせば、作業効率が下がる。

かといって昼間と同じ明るさを保てば、無駄な緊張と誤解を生む。


だからこの時間帯、通路を照らす魔力灯は最低限に抑えられている。

必要な場所に、必要な分だけ。

影が多く、輪郭は曖昧だ。


昼間であれば多種族の足音や報告の声が反響する広い空間も、

今は選別された者だけが集まる場所になっていた。


長机の上には地図と報告書。

境界線を示す印は、これまでと変わらない。

だが、その周囲には、誰も指でなぞりたがらない小さな印が増えている。


それは前線の移動でも、部隊配置でもない。

消失、壊滅、未確認――そういった意味を含む、曖昧な印だ。


ウィルは椅子に座らず、立ったまま紙に視線を落としていた。

背筋は伸び、腕は自然に体の横に下ろされている。

威圧する姿勢ではない。

だが、気を抜いている様子もなかった。


「整理する」


低く、短い声だった。

感情を含まず、命令でもない。

ただ、場を動かすための合図。


「人間領側、国境付近の村が一つ消失。住民は全滅。派遣された冒険者三名は、行方不明から死亡扱いへ変更」


誰も口を挟まない。

すでに共有され、何度も読み返された事実だ。

それでも、言葉にされるたびに重さが増す。


「建物は残存。焼失なし。略奪痕も限定的。だが、血痕と戦闘痕は複数箇所で確認」


ウィルは一拍置く。

視線を上げず、紙の上だけを見たまま続けた。


「越境は確認されていない。魔族部隊の行動履歴もなし。結界の異常も、観測上はゼロだ」


その瞬間、机の端で誰かが小さく息を吐いた。

安堵ではない。

むしろ逆だ。


情報が、揃いすぎている。


矛盾がない。

欠落もない。

だが、その完璧さが、かえって異常だった。


「……つまり」


低い声が、場に落ちる。


「こちらは何もしていない。だが、人間側では“事件”が起きた」


「そうだ」


ウィルは即答する。


「これは魔族の軍事行動ではない。だが、人間はそう受け取らない」


反論は出なかった。

出せる材料がない。


卓の向こう側で、ヴォルト・ルード・ヴァイアが杖を静かに床へ立てた。

金属音はしない。

だが、その所作だけで場の視線が集まる。


「問題は、被害の性質です」


淡々とした声。

感情も評価も含まれていない。


「村人、冒険者、兵。いずれも同様に捕食されています。年齢、装備、立場による偏りがない」


「魔獣ではない、という判断か」


ウィルの問いに、ルードは静かに頷いた。


「魔獣であれば、縄張り、警戒対象、捕食対象に偏りが出ます。また、狩りの効率にもばらつきが出る」


報告書の一部に、指先を置く。


「今回は、効率が良すぎる。動きに迷いがなく、無駄がない。生存と捕食だけに最適化されている」


沈黙が、ひとつ落ちた。


「……魔族の兵器か」


短く投げられた言葉。


ウィルは即座に首を振る。


「違う。軍で使うには制御が効かない。命令系統が存在しない。撤退もしない」


「捨て身の兵器、という可能性は?」


「それなら、なおさら違う」


ウィルは言い切った。


「捨て身であっても、命令はある。だが、これは“誰の命令も受けていない”」


誰もが、その意味を理解していた。


命令がない。

だが、存在している。


制御されていない。

だが、無秩序でもない。


「……では」


沈黙を破ったのは、ルードだった。


「キメラでしょう」


その言葉は、場に落ちても波紋を生まなかった。

誰の中にも、すでにその答えはあった。


「旧戦争期に研究され、破棄された技術。複数の生物特性を接合し、生存性と殺傷効率を極端に引き上げる存在」


「本来、軍事利用は不可能とされたはずだ」


「ええ」


ルードは頷く。


「制御が困難、量産不能、味方をも区別しない」


だからこそ、捨てられた。

危険だからではない。

“使えない”からだ。


「……だが、概念まで消えたわけではない」


ウィルの言葉に、誰も反論しない。


「問題は、誰が作ったか、ではない」


ルードが続ける。


「誰が“責任を負わない存在”を、人間領へ送り込んだか、です」


戦争ではない。

だが、事故とも言い切れない。


「人間側は、どう動く」


ウィルの問いに、即答はなかった。


ルードは一瞬だけ視線を伏せ、思考を整えるように言う。


「冒険者ギルドでは対処不能。兵を出せば、越境と受け取られる可能性がある」


「だから――」


「備えます」


ルードは静かに告げた。


「防衛線の強化、警備の増設、監視範囲の拡張」


そして。


「最初に越える理由を、待つ」


ウィルは、ゆっくりと息を吐いた。


「こちらは動いていない。

 だが、人間は“攻められた”と感じる」


「ええ」


「そして、その感情は正当化される」


「被害が、現実に存在する以上は」


沈黙。


「……厄介だな」


「非常に」


ルードは杖に手を置いた。


「これは戦争ではありません。

 しかし、戦争を起こすための形は、揃っています」


ウィルは、しばらく黙り込んだ。


キメラは命令を受けていない。

だが、放置すれば人間が動く。


止めるには、こちらが動くしかない。

だが、それは――


「魔王様を、引きずり出す形になる」


誰かが、そう呟いた。


否定はなかった。


ウィルは、静かに立ち上がる。


「キメラは、魔族の兵器ではない」


一つずつ、言葉を置く。


「だが、魔族の責任がゼロとも言えない」


視線を巡らせる。


「現時点での結論は一つだ」


全員が、彼を見る。


「――静観は、もう選択肢ではない」


それは宣言ではない。

命令でもない。


ただの判断だ。


魔王城は、まだ動かない。

だが――


“動かないこと”が、

初めて、はっきりと危険になった。


境界は、越えられていない。


それでも、

世界は確実に、

次の段階へ踏み込んでいた。

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