3章 戦乱の火種

1話

最初は、いつも通りの依頼だった。


冒険者ギルドの掲示板の隅。新しい紙でも、目立つ依頼でもない。誰かが剥がした跡の横に、追加で貼られたような一枚。

国境から遠い農村地帯の小さな村。最近、家畜が襲われているという報告が続いている。


柵が壊され、羊が数頭消えた。血の量は少なく、死体は見つからない。夜間限定。足跡は不明瞭。

村の人間は無事。だから、危険度は中級向け。


「……よくある話だな」


エルド・カイナスは依頼書を指で弾いた。

二十代半ばの男で、剣士としては平均的な体格だが、無駄な肉のない引き締まった身体をしている。

革手袋越しの紙は薄く、安っぽい。だが、報酬は悪くない。三人で割っても、次の装備の足しになる程度には残る。


「最近中級に上がった祝いに、ちょうどいいわね」


ミレア・ヴァンが眼鏡の位置を直した。

彼女はエルドより少し年下の女性で、火属性の術式を得意とする魔術師だ。

性格は冷静で計算が早く、無駄な戦闘や賭けを嫌う。


「村も国境から遠い。兵が出てくる案件じゃない」


レオン・グレイが短く言った。

長身の男で、槍を扱う前衛。寡黙だが、その視線は常に周囲を測るように動いている。


三人は地方の町出身だ。

国境の緊張とは無縁の場所で育った。

冒険者になった理由は単純だった。金と、名と、それが取れた先の自由。

一攫千金。誰も口には出さないが、三人ともそれを捨ててはいない。


「受けよう」


エルドが言い、依頼書を剥がした。

それで決まりだった。



村へ向かう道はのどかだった。


畑は耕され、風は穏やか。遠くに見える森も深いが静かだ。

馬車が通るほどの道ではないが、村と村をつなぐ踏み固められた土の道が続く。

途中、農夫が通りすぎることもない。季節のせいだろう、とエルドは思った。


ミレアは歩きながら、依頼書の文面をもう一度確認している。

慎重というより、習慣に近い。

レオンは槍を肩から下ろし、時折、草の倒れ方や足元の土を見ていた。


「……静かね」


ミレアが言った。


「昼間はこんなもんだ」


エルドは前を見たまま答える。


村が近づけば、人の声が聞こえる。犬が吠える。鍬の音が混じる。

そういうものだ。


丘を越えると、村が見えた。


柵がある。屋根もある。煙突もある。

だが、煙が上がっていない。


「……おい」


レオンが先に足を止めた。


風は吹いているのに、人の気配がない。

門は開いていた。壊された様子はない。整っている。

整いすぎている。


エルドは肩の力を抜かなかった。

逆に、ゆっくりと集中を上げる。

ミレアも口を閉じる。火の術式の詠唱を、頭の中で短縮して並べ始めた。


三人は門をくぐった。


村の中心へ向かう道。

石の井戸。木製の桶。乾いた干し草の匂い。

そして――匂いの奥に、別のものが混じる。


鉄の匂い。

濃い、湿った、甘い匂い。


「……血だ」


レオンが言った。


視線を動かす。

家の影。道端の草むら。積み上げられた薪。


そこに、最初の死体があった。


仰向けに倒れた老人。

胸のあたりが抉られている。

衣服は裂け、地面に暗い染みが広がっていた。


目は開いたまま。

喉の奥まで乾いているように見える。

叫ぶ暇もなかったのだろう。


ミレアが息を呑む。


「……家畜じゃない」


エルドは声を落とした。

頭が冷える。いつもと違う。


村の入口から見えない位置に、死体が置かれている。

隠しているわけではない。

見つける順番を選んだような配置だ。


「戻る?」


ミレアが問う。

喉が乾いている。


エルドは首を振った。


「確認だけする。村人がまだ生きてる可能性がある」


救出対象がいるなら、逃げる前に位置を把握する必要がある。

そういう理屈で自分を動かす。


だが、内側では別の感覚が鳴っていた。


――危険だ。


三人は足音を殺し、家々の間を進む。


次の死体は、井戸の近くにあった。

女だった。

腹が裂けている。

手は井戸の縁にかかっている。


水を求めたのか。

逃げようとしたのか。

どちらでも同じだ。


間に合っていない。


その先には、子どもの小さな死体が二つあった。

片方は腕がない。

もう片方は顔が潰れている。


形だけが、人間のまま残っていた。


ミレアの口元が震える。

詠唱の準備が、わずかに乱れかける。


「見るな」


エルドは短く言った。

命令ではなく、今はそうするしかないという判断だった。


ミレアは視線を外し、唇を噛んだ。


村の中心、集会所の前。


そこに、村人がまとめて倒れていた。


十人以上。

二十には届かない。


老人も、若者も、女もいる。


まとまって死んでいるのに、戦った跡が薄い。

武器の傷が少ない。

逃げ場のない場所で追い詰められたにしては、

散らばり方が妙に整っている。


「……全滅か」


レオンが、掠れた声で言った。


その時だった。


ぬちゃ、と濡れた音がした。


三人は同時に視線を向ける。

集会所の裏、日陰。積み上げられた木箱の向こう。


何かが、そこにいる。


最初に見えたのは、背中だった。

盛り上がった筋肉の塊。

皮膚の一部は獣毛に覆われ、別の部分は鈍く光る鱗に変わっている。


次に、首。

太い。

人間の胴ほどもある。


そして、頭部が二つ。


一つは獣の頭だった。

裂けた顎。剥き出しの牙。血と唾液が混じった涎が垂れている。


もう一つは、鳥の頭だった。

硬質な嘴。小さく鋭い眼。

こちらは静かに、周囲を測るように動いている。


胴体は獅子に近い。

だが、背中には折り畳まれた翼がある。

羽毛ではない。

蝙蝠のような薄膜が骨格に張りつき、僅かに震えていた。


尾は異様に長い。

蛇のようにしなり、先端は硬質化して棘になっている。


――キメラ。


ミレアの喉から、かすかな息が漏れた。


「……嘘」


キメラは、村人の死体を掴んでいた。

腕か脚か、判別できない肉の塊を咥え、噛み砕く。


骨が折れる音。肉が裂ける音。

乾いた村の空気に、不釣り合いなほど生々しく響いた。


生物としての格が違う。

それは、理屈より先に身体が理解した。


エルドの背中を、冷たいものが這い上がる。

レオンの握る槍が、僅かに下がる。

ミレアの指先が、硬直する。


キメラの獣の頭が、ゆっくりとこちらを向いた。


瞳孔が細くなる。

焦点が合った瞬間、顎が僅かに開く。


鳴き声はなかった。

代わりに、空気が歪む。


圧。

威圧ではない。

捕食者として「見つけた」という圧だ。

肺が縮む。

心臓の鼓動が、耳の奥でうるさい。


「……逃げる」


エルドが言った。

声は平坦だった。

感情が追いついていない。


ミレアが一瞬遅れ、頷く。

レオンは、もう踵を返していた。


三人は同時に走り出す。


村の道を戻る。

門へ。柵へ。外へ。


足が地面を叩く音が、やけに大きい。

静かな村が、音を吸わない。


背後で、何かが跳ねた気配がした。


重い。

だが、速い。


「ミレア、煙幕!」


エルドが叫ぶ。


ミレアは走りながら詠唱する。

短縮した火の術式。


掌に小さな火球を作り、地面へ叩きつける。

爆ぜる。

土と煙が舞い上がり、視界が白くなる。


煙幕。

見えなくするためではない。

追跡の“一拍”を作るためだ。


だが、その拍は――短すぎた。


煙の向こうから、翼が開く音。


風が裂ける。


キメラが上から来て、影が落ちる。


エルドは反射的に横へ跳んだ。

レオンも同じ方向に飛ぶ。


ミレアは――一瞬、遅れた。


地面が抉れ、土が爆ぜる。

爪が通った跡。

軽い一撃ではない。

人間なら、そのまま裂けていた。


ミレアが転ぶ。

息が詰まり、視界が揺れる。


「立て!」


エルドが腕を掴み、引き上げる。

ミレアは歯を食いしばり、脚を動かす。

震えている。

だが、止まれない。


「森に入るな! 開けた方へ!」


レオンが叫んだ。


キメラは空と地上を使える。

木々は遮蔽物にならない。

森は、狩場になる。


三人は畑の方へ走る。

柵を越え、畝を踏み荒らす。


背後の気配が、近い。

近すぎる。


ミレアは走りながら、火の槍を作ろうとする。

詠唱が途切れる。息が足りない。

恐怖が、言葉を切る。


「……無理、今……!」


「撃てる距離になったら撃て!」


エルドは言った。

無茶だと分かっている。

だが、他に手がない。


その時、レオンが足を止めた。


「おい!」


エルドが振り向く。


レオンは槍を構え、正面からキメラを見据えていた。

逃げれば追いつかれる。

なら、止める。

時間を作る。


理屈は、冷静だった。


「先に行け」


「無理だ、三人で――」


「三人で死ぬよりマシだ」


声に揺れはない。


次の瞬間、キメラが突っ込んでくる。


レオンは槍を前に出す。

狙いは胸。

獣の頭が、嘲るように顎を開く。


槍は刺さった。


――はずだった。


刃は鱗に当たり、滑り、貫通せず。

キメラは止まらない。

衝突の勢いだけで、レオンの身体が宙に浮いた。


骨が折れる音。

槍が折れる音。


レオンは地面に落ちる前に、

尾の棘に貫かれた。


声が出ない。

口は開いているのに、息が漏れない。


次の瞬間、獣の顎が首元に噛みついた。


短い。

あまりにも短い。


エルドの視界が白くなる。

ミレアが叫びかけ、声が途切れる。


咀嚼の音が、背後から追ってくる。

それが次は自分たちだと、身体が理解してしまう音だった。


「走れ!」


エルドはミレアの手首を掴み、

引きずるように走り出す。


畑の終わりの小川。


川自体は浅い。普段なら何でもない深さ。

だが、恐怖と焦りで足を取られる。


ミレアが滑り、水が跳ねる。

その音は、致命的に大きかった。


キメラの鳥の頭が、鋭く鳴いた。


甲高い。

耳の奥が痛む。


それは合図のようで、

次の瞬間、翼が再び広がった。


上から来る。


エルドはミレアを突き飛ばすように、小川の向こうへ送った。

だが自分は半歩遅れた。


キメラの爪が肩口を掠める。

布が裂け、肉が裂ける。


ーー熱い。


痛みは、遅れて来た。


エルドは転びそうになりながら、

地面を蹴って立つ。


「……ミレア、撃て!」


ミレアは地面に膝をつき、

震える手で詠唱を繋げる。


火球では足りない。

相手は鱗と筋肉の塊だ。


燃やすなら――内部。

口。目。肺。


「――燃えろ」


短い詠唱。


火が生まれる。槍の形に圧縮された炎。

ミレアの得意な術式だった。


キメラが突っ込んでくる。

獣の口、開いた顎の奥を。


放った炎槍は直撃した。火が口内で爆ぜ、煙が上がる。


獣の頭が一瞬のたうつ。

呻き声が漏れた。


――効いている。


だが、止まらない。


鳥の頭が動く。

首がしなる。


嘴が、ミレアの肩を穿った。

肉が裂ける音に身体が引きずられる。


「……っ、痛……!」


エルドは剣を抜き、キメラへ斬りかかる。

刃は鱗に弾かれる。焦げた部分も、硬いままだ。


斬れない。

通らない。

届かない。


キメラが尾を振る。棘が空気を切る音。


エルドは避けた。だが、避けきれない。


脇腹に、鈍い衝撃。

次に、熱い痛み。


血が出る感覚が遅れて分かる。

足がもつれる。


ミレアが地面に落ちる。

肩から血が流れ、眼鏡が外れて泥に沈んだ。


視界がぼやけたまま、彼女は手を伸ばす。


「……もう一回……」


火が生まれる。

小さい。

槍にならない。

火花程度。


それでも、詠唱を続けようとする。


キメラの獣の頭が、こちらを向いた。


焦げた匂い。

唾液。

血。


混ざった臭気が、風に乗る。


エルドは理解した。


ここで死ぬ。


村人と同じように、

食われる。


逃げる余地はない。

脚も、痛みで言うことをきかない。


だから――せめて、報告だけでも。


エルドは腰の小袋から簡易の魔導札を掴む。

それは地方でも使われる緊急連絡用の魔道札だった。

ギルドか近隣の詰所に短い信号だけ飛ばせる。


「……生き残れ」


誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

手が震え、札がうまく起動できない。

キメラが一歩、近づく。


影が落ちる。


札を起動した直後、ミレアが最後の力で火花を散らした。


目元を狙ったつもりだった。

だが、火花は散るだけで触れたかも分からない。


獣の顎が開く。


牙。

舌。

喉の奥。


そこは、

村人の最期が吸い込まれた場所だ。


エルドは剣を構え直した。


意味がないと分かっていてもそうするしかなかった。


次の瞬間、視界が揺れた。


衝撃。

身体が浮く。

地面が遠ざかる。


落ちる前に、

腹部が裂ける感覚が来る。


痛みが、爆発する。

息ができない。

声が出ない。


地面に転がり、視界の端で、ミレアが引きずられていくのが見えた。


彼女は、まだ生きている。

だが――もう。


空が青い。

風が冷たい。


村へ向かう途中に感じた

穏やかさが、

嘘みたいに遠い。


キメラの影が彼を覆った。


最後に聞こえたのは、骨が砕ける音ではなかった。


遠くで鳥を撃つような、乾いた鳴き声。


それがキメラの声だったのか。


それとも――。


区別をつける余裕は、

もうなかった。


後に、村は「空になっていた」とだけ記録された。

家畜被害の依頼は、村人全滅の報告へ変わる。


中級冒険者三名の行方不明は、死亡扱いへ変わる。


そして討伐対象は――魔獣ではなく、キメラへ変わった。


越境はない。


だが、境界は別の形で裂けていた。

誰が、それを放ったのか。

どこから、来たのか。


答えはまだ、誰の紙にも載っていない。


ただ一つだけ確かなのは、


村人も、

冒険者も、

兵も――


同じように食われる、という事実だった。

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