5話
外縁区は、夜になると音が減る。
昼間は種族ごとの生活音が重なり合い、境界の内側であることを主張する。
金槌の音、子どもの走る足、獣人の唸り声、樹人族が葉を擦らせる乾いた囁き。
香草の匂いと油の匂いが混じり、炊き出しの湯気が通路に溜まる。
あらゆるものが「ここで暮らしている」と言い張るように、互いの気配を押し返しながら並び立つ。
だが灯りが落ち、巡回の足音だけが残る時間帯になると、この区画は一気に「仮の場所」へと戻る。
屋台の布が畳まれ、簡易の火が消え、声が引っ込む。
壁に寄りかかっていた者が姿勢を直し、無意識に武器の位置を確かめる。
眠りに入るというより、「眠るふり」をする者が増える。
彼らは知っている。
夜は、外縁区が最も“外縁らしくなる”時間だということを。
ウィルは執務区の窓から、その外縁を見下ろしていた。
窓の外に見える灯りは点々としている。
魔力灯の光は一定だが、一定であることが逆に寒々しい。
人の火ではない。
人の気配を保つための火ではなく、監視のための光だ。
光の当たらない場所が、線の外側に見える。
実際には線の内側にあるのに、心が勝手にそう解釈する。
増えたのは人ではない。
制約だ。
水路の使用時間。
夜間巡回の優先順位。
治療資源の割り当て。
記録に残す名と、残さない名。
一つ増えるたびに、誰かの順番が後ろへ回る。
「順番」という言葉は中立に聞こえる。
だが、外縁区での順番は、ほとんどの場合「生き延びやすさ」と同義だ。
先に水が回れば根が乾かない。
先に薬が回れば熱が下がる。
先に巡回が回れば、夜に起きる小さな暴力が芽のうちに潰れる。
そして逆に、後ろへ回れば――何も起きなかったとしても、何かが削れていく。
眠りの深さ、食欲、仲間への信頼。
ときに理性。
ウィルは窓枠に指を置いた。
冷たい。
この高さの石は一日中外気を溜めている。
城が巨大であることを、こういうところで思い出す。
「……これで、第三巡回は削減ですね」
控えめな声で告げたのは、補佐官だった。
いつも通りの報告口調だが、最後の一言だけ、わずかに言い切らなかった。
“削減”は決定事項で、“その影響”が言い切れない。
そういう言い方だ。
補佐官の手元には帳票がある。
外縁区の夜間記録。
事故ではない、事件でもない、ただの接触。
肩がぶつかった、目が合った、言葉が刺さった。
そういうものが積もった記録。
「夜間の接触件数が増えています。今の人員では――」
「足りない」
ウィルが先に言った。
補佐官は一瞬だけ視線を伏せる。
理解している。
だが、飲み込んでいる。
足りないと言った瞬間、責任の所在が宙に浮く。
足りないのは兵か、資源か、制度か、判断か。
その問いを、補佐官は口にしない。
口にすれば、どれかを“選ぶ”ことになるからだ。
「優先度を下げる。樹人区画の周囲は維持。
代わりに、仮設居住地の巡回間隔を伸ばせ」
ウィルは数字を言わない。
巡回間隔の“伸び”は数字で残る。
残れば、後で誰かに責められる。
責められること自体は構わない。
だが、その責めが現場ではなく、別の場所で燃えるのが厄介だった。
「……了解しました」
返事は即答だった。
だが、その背中が部屋を出るまで、ほんのわずかだけ速度が落ちていた。
判断は正しい。
それでも、選ばれなかった区画がある。
その事実は、消えない。
選ばれなかった者たちは、理由を知らないかもしれない。
だが、“自分たちが後回しになった”という感覚だけは、はっきり残る。
それは恨みになるほど強くなくても、疑いになるには十分だ。
◇
「今日は、ずいぶん静かね」
アリエルは、珍しく冗談めかさなかった。
ウィルの隣で、外縁区の灯りを同じように眺めている。
夜の執務区は静かだ。
城の奥へ行けば行くほど、生活音が消えていく。
それはこの城の性質だ。
必要なものだけを残し、余計なものを落とす。
効率のための静けさ。
だが、今の静けさは効率の匂いがしない。
薄い緊張の匂いがする。
アリエルの尾が、いつもより小さく揺れている。
落ち着かないときの癖だ。
「静かなのは、管理が回ってる証拠だ」
ウィルは言葉を選んだ。
慰めではない。
言い訳でもない。
ただ、管理が回っていないときの“静けさ”は、もっと別の形で現れることを知っている。
「……それ、本気で言ってる?」
一拍。
ウィルは否定しなかった。
「問題が表に出ていない、という意味ではな」
アリエルは小さく息を吐いた。
「表に出せないだけ、って場合もあるわよ」
「分かっている」
「なら、いいけど」
アリエルは肩をすくめるが、いつもの軽さが戻らない。
軽さは、余裕がある時にしか使えない。
彼女は余裕を演じるのが上手い。
その彼女が演じない時点で、状況の温度は明らかだった。
「保護区、限界が近いわね」
「ああ」
「これ以上受け入れたら?」
「誰かを弾く」
即答だった。
ここで逡巡すれば、アリエルは安心しない。
ウィルが迷っていると感じた瞬間、現場が揺れる。
現場が揺れれば、さらに“接触件数”が増える。
だから即答する。
迷いがないように見せるために。
アリエルは一瞬、口を閉じる。
「……線、決めたの?」
「人数だ」
短い答え。
「具体的な数は?」
「まだ言わない」
アリエルはそれ以上聞かなかった。
聞けば、答えが現実になる。
現実になれば、そこに向かって人が動く。
線は、引いた瞬間から“越えようとされる”ものになる。
「増えるわよ」
「分かってる」
受け入れられなかった理由は、
いつも「遅かった」「足りなかった」「基準外だった」のどれかだ。
遅かったのは誰だ。
足りなかったのは何だ。
基準外とは何を指す。
その問いは、必ず人に向かう。
制度ではなく、担当者に。
最終的には、決裁した者に。
そして、その理由は必ず、誰かの記憶に残る。
記憶は記録より厄介だ。
紙は燃やせる。
数字は改められる。
だが記憶は、人の都合で増幅する。
怒りの方向を与えれば、それだけで形になる。
◇
夜の外縁区。
巡回の兵たちが、短い合図だけで配置を入れ替える。
言葉はない。
記録にも残らない。
言葉にした瞬間、責任になる。
記録にした瞬間、証拠になる。
証拠があると、後で誰かがそれを“旗”にする。
旗は人を集める。
集まった人間は、必ず何かを要求する。
要求は現場を削る。
だから合図だけで動く。
必要最低限の意思疎通。
それは優しさではない。
現場を守るための、最も冷たい合理だ。
ウィルは、その様子を遠くから見ていた。
目で追えば追うほど、揃いすぎていることが分かる。
兵の配置が滑らかすぎる。
巡回の入れ替えが迅速すぎる。
現場の摩擦が、見えない層で吸収されている。
吸収しているのは誰だ。
兵か。
現場の班長か。
それとも、“別の誰か”が調整しているのか。
境界は越えられていない。
衝突もない。
だが、基準の内側に収まらない動きが、確実に増えている。
例えば、巡回表にない時間帯の視察。
例えば、個人判断での“見回りの延長”。
例えば、記録に残らない小物資の横流し。
例えば、善意のふりをした貸し借り。
貸し借りは、返せなかった瞬間に縄になる。
「……選別が始まっているな」
独り言に近い呟き。
選んでいるつもりはない。
ただ、維持できる範囲を守っているだけだ。
それでも――
守れなかった理由だけが、
静かに、積み上がっていく。
それを拾う者が、外にいるとは限らない。
外の敵だけが脅威だと考えるのは、楽だ。
現実はもっと面倒だ。
敵は、内側にも芽を出す。
芽を出した敵は、自分を敵だと思っていない。
正義だと思っている。
魔族領は、今日も回っている。
静かに。
だが、余白はもう少ない。
越境はない。
だが、世界は一歩だけ動いた。
その一歩が、
誰の足跡になるのかは――
まだ、誰にも分からない。
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