4話
時代に取り残された会議室。
数日前、密談を交わした場所にヘラーナはいた。
この部屋だけ、空気が古い。
城の中枢で使われなくなった会議室は、清掃も最低限で、磨かれない床板が足音を吸う。
壁には剥げた紋章の跡が残り、飾り柱の影が妙に長い。
灯りは抑えられているのに、広さだけはそのままだ。
広さは威圧になる。
空席は、何もないことを強調する。
ヘラーナは、円卓の端に腰掛けていた。
背もたれに寄りかかり、片脚を組み、指先で杯の縁をなぞっている。
中身は空だが、気にする様子はない。
杯が空であることは、彼女にとって自然だった。
満たすものは、別にある。
先に来ていたのは、ゴルドフだった。
椅子に深く座り込み、両腕を組んだまま動かない。
灰色の肌は相変わらず黒に近く、右目の傷が薄暗い光を反射していた。
大きい。
体格だけではない。
存在が、という意味で。
オーガは強者に従う。
それを美徳にする種だ。
そして、強さを信じすぎた者は、待つことが苦手になる。
「……相変わらず、ここは落ち着かないな」
低い声が、広い室内に沈む。
「昔は好きだったくせに」
ヘラーナは口元だけで笑った。
「戦の前の匂いがする場所、って」
「今は、その匂いすらしない」
ゴルドフは吐き捨てるように言った。
言葉が荒いわけではない。
ただ、短い。
短い言葉は、溜めたものの厚みを誤魔化せない。
「……境界が、騒がしいらしいな」
「ええ」
ヘラーナは軽く頷く。
「静かだけど、落ち着かない。
人間も、こっちも」
境界が騒がしい、という言い方は便利だ。
誰が動いたか、何が起きたか、具体を避けたまま共有できる。
避けた言葉ほど、想像は肥える。
ゴルドフの視線が鋭くなる。
「お前の斥候か」
ヘラーナは、即答しなかった。
空の杯を傾ける仕草だけを見せ、
ほんの一拍置いてから、肩をすくめる。
「さぁ?」
否定もしない。
肯定もしない。
その曖昧さが、答えの代わりになることを彼女は知っている。
吸血種は、刃より先に空気を刺す。
「闇に溶ける子たちは多いもの。境界が気になるのは、私だけじゃないわ」
ゴルドフは鼻を鳴らした。
「……相変わらずだな」
「褒め言葉?」
「いや」
短く返す。
「だが――」
ゴルドフの拳が、ゆっくりと握られた。
椅子の肘掛けが、わずかに軋む。
それだけで、腕の力がどれほどか分かる。
「正直に言えば、俺は……もう少し、分かりやすい答えが欲しい」
「分かりやすい?」
ヘラーナは首を傾ける。
興味があるのではない。
興味があるふりをして、相手の熱を引き出す顔だ。
「戦えるのか、戦えねぇのか、だ」
言葉は抑えられている。
だが、その奥に溜まった熱は隠せていない。
「俺たちオーガは、強者に従う種だ。強者に仕え、剣を振るうために、力を磨いてきた」
わずかに目を伏せる。
「……だが今は、振るう場がねぇ」
それは不満ではある。
だが、単なる愚痴ではない。
長く戦士として生きてきた者の、存在理由に触れる飢えだ。
ヘラーナは、ゴルドフを見つめた。
同情でも、嘲笑でもない。
評価するような目だ。
吸血種は、欲を軽んじない。
欲は、もっとも正直な駆動力だと知っている。
「だから、今すぐ何かを起こしたい?」
「いや」
ゴルドフは即答した。
「今じゃない。だが……このまま何も起きないとは思ってねぇ」
短い断言。
だが、後半が真だ。
彼は戦を求めている。
それは「今すぐ攻める」という話ではない。
いつか必ず起きるものを、起きないふりでやり過ごしたくない、という話だ。
沈黙が落ちる。
空の杯の縁をなぞる音さえ、聞こえそうな沈黙。
そこへ、扉が静かに開いた。
ウィスター・ノーツ・ヘルムが入ってくる。
眼鏡をかけ、表情は冷静そのものだ。
足音が軽い。
意図的に軽くしている。
目立たないためではなく、空気を乱さないために。
「兄上は、気づいています」
唐突な言葉だった。
ヘラーナが視線を向ける。
「何に?」
「“一歩分、空気が動いた”ことに」
ゴルドフが低く唸る。
「大げさだな」
「そう見えるなら、それでいい」
ウィスターは否定しない。
「ですが、見られました」
「境界に“いる”という事実を」
「越えてはいない」
ゴルドフが言う。
「殺してもいない」
オーガの理屈は単純だ。
越えたか、越えていないか。
斬ったか、斬っていないか。
白黒が、戦場では武器になる。
「問題は、そこではありません」
ウィスターは淡々と続ける。
「見せた、という事実です。そして――止めなかった、という事実」
止めなかった。
それは、動いたのと同じだけの意味を持つことがある。
沈黙は、都合よく読まれる。
ヘラーナが小さく笑った。
「正解」
彼女は立ち上がり、円卓の縁に指を置く。
「境界に立ったこと自体じゃない。“立っていると認識された”ことが問題」
「人間は、感じ取った。魔族は、引かなかった。それだけで、世界は少し前に傾く」
傾く、という言葉に、ゴルドフは眉をひそめる。
彼は「傾き」より「倒す」を想像する。
だが、傾きこそが戦の入口だ。
戦は宣言ではなく、傾きから始まる。
ゴルドフは、黙ってそれを聞いていた。
理解したふりをしない。
だが、理解しようとしている沈黙だった。
「……魔王様は」
ウィスターが口にする。
「何も言わないわ」
ヘラーナは即答する。
「今は、ね」
その「今は」が、言外の刃になる。
いつまでも今ではない。
「兄上も、同じでしょう」
「ええ」
ウィスターは頷いた。
「だから、ここに来ました」
ヘラーナは首を傾ける。
「止めに?」
「確認に」
ウィスターは言い換えた。
「あなたが、どこまで“黙って見ているつもりなのか”」
空気が、僅かに張る。
“黙って見ている”は、責めに聞こえる。
だがウィスターの口調は責めていない。
事実として言う。
事実を言われるのが、いちばん不快だ。
言い逃れの余地が削られるから。
ヘラーナは壁に残る古い紋章に視線をやった。
削れた紋章の跡は、昔の戦の名残だ。
かつてこの部屋は、命令が生まれる場所だった。
今は命令が生まれない。
それでも、過去の気配だけが残っている。
「私はね」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「踏み越えたら終わる線だけを見てる」
「そこまでは、何もしない」
「そこから先は――」
視線を戻す。
「あちら側に立つわ」
言った瞬間、部屋が少し静かになった。
“あちら側”がどこか。
誰の側か。
境界の外か、内か。
正確に定義しないからこそ、広い意味を孕む。
ゴルドフの口角が、わずかに上がった。
「……その時は」
「ええ」
ヘラーナは頷く。
「もう、“起きない”とは言えない」
“起きる”のは戦だけじゃない。
命令も、粛清も、分裂も。
何かが確実に動き出す。
ウィスターは目を伏せる。
「兄上は、線を引き続けるでしょう」
「でしょうね」
ヘラーナは軽く返す。
そこに敬意も侮りもない。
ウィルはそういう男だ、という認識だけがある。
「そして、あなたは?」
ウィスターが問う。
問いは簡単だ。
だが答えは簡単ではない。
ヘラーナは、いつもの気怠げな笑みを浮かべた。
「起きるかどうかじゃない」
「誰が、先に耐えられなくなるか」
耐える、という言葉は弱く聞こえる。
だが、ここでは強い。
耐えることができる者が、最後に決める側に立つからだ。
古い会議室に、静寂が戻る。
ここでは、何も決まらない。
命令も、宣言もない。
ただ、決めないことだけが決まっている。
それが、この城の今だ。
だが――
戦わないことを選び続ける時間は、
確実に、終わりへ近づいていた。
終わりは、爆発ではない。
いつも、静かに近づく。
この部屋の空気のように。
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