3話
外縁区の朝は、静かすぎるほど静かだった。
魔族領において、静けさは平穏を意味しない。
それは多くの場合、判断がまだ下されていない状態を指す。
ウィルは執務室で報告書を読み進めながら、その違和感を指先でなぞっていた。
越境――なし。
交戦――なし。
負傷者――なし。
結界異常――報告なし。
紙の上だけを見れば、外縁は完全に安定している。
だが、ページをめくる速度は自然と遅くなっていった。
巡回記録。
夜間の魔力観測。
監視塔からの視認報告。
数値はいずれも許容範囲内だ。
だが、わずかに揃っていない。
「……揃えた形跡があるな」
独り言のように呟いた瞬間、扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
現れたのは、ヴォルト・ルード・ヴァイアだった。
いつもと変わらぬ静かな佇まい。
だが、その視線はすでに答えを持っている。
「お気づきになりましたか」
「ああ。夜間の魔力反応だ。増えているが、記録上は誤差に押し込まれている」
「意図的です」
ルードは淡々と告げた。
「境界線は?」
「越えていません」
「人間領への侵入は」
「なし」
ウィルは短く息を吐いた。
「……小さな越境、か」
「正確には、“越境の手前”です」
ルードは補足する。
「結界の外側。だが、監視塔から確実に視認できる距離。
魔力は隠さず、武装も解除せず――ただ、立っている」
「攻撃も挑発もない」
「はい。違反ではありません」
違反ではない。
だが、意味は明確だ。
「人間側の反応は?」
「即座に出ています」
ルードは一枚の報告書を差し出した。
「警備の増強。
防壁工事の前倒し。
冒険者ギルドへの“要請”の増加」
「命令ではなく、要請」
「刺激を避けているつもりなのでしょう」
ウィルは報告書から目を離し、窓の外を見た。
越えていない。
だが、引いてもいない。
存在を示すだけで、人間は動く。
「……誰が動かした」
問いは確認に近い。
「過激派の一部です」
ルードは即答した。
「正式な命令はありません。
魔王様の意思でもない。
ただ、“許されている範囲”を正確に踏んだだけです」
「正確すぎる」
「だからこそ、止めにくい」
ウィルは椅子から立ち上がった。
「現場は?」
「外縁区に動揺はありません。
ただし――」
「ただし?」
「人間領側の防衛線が厚くなれば、
最初に圧迫されるのは、境界付近にいた“無関係な者たち”です」
樹人族の顔が、脳裏をよぎる。
「……来るな」
「ええ。来ます」
ルードは静かに頷いた。
「魔族が一歩踏み出したわけではありません。
ですが、人間は“踏み出される可能性”に備え始めました」
備えは、誰かを弾く。
「越境はしていない」
ウィルは低く言う。
「だが、境界は確実に揺れた」
「はい」
「これは警告だな」
「人間への、ですか」
「いや――」
ウィルは言葉を切った。
「内側への警告だ」
線は越えられていない。
だが、線の意味は変わり始めている。
「……止めるか?」
「違反ではありません」
ルードは事実を述べる。
「止めれば、“なぜ止めたのか”が問われます」
「……厄介だな」
ウィルは短く笑った。
「だが、放置はしない」
「線を引き直すのですか」
「ああ」
どこまで許し、どこから制裁するか。
その基準を、より明確にする。
それは抑止であり、同時に覚悟の提示でもある。
「過激派に伝えろ」
ウィルは命じた。
「“次は偶然では済まない”と」
ルードは一礼する。
「承知しました」
扉が閉まり、執務室に再び静けさが戻った。
◇
夜の境界線。
人間領と魔族領を隔てる線の手前に、
過激派の魔族兵たちが展開していた。
吸血族を中心とした斥候。
ヘラーナの指示で動く者たちだ。
闇に溶けることに慣れ、
月光の下でも気配を薄める訓練を受けている。
本来なら、ここに立っていても
人間側に正確な数を悟らせることはない。
武器は抜かれていない。
魔力も隠してはいないが、暴れてもいない
越えてはいない。
だが、引いてもいない。
そのはずだった。
――月が、消えた。
正確には、消えたのではない。
光が、届かなくなった。
夜はすでに訪れていた。
だが、その夜の上に、さらに深い闇が被さる。
星の瞬きが途切れ、
松明の火が、理由もなく揺らぎ、
魔力の流れが、重く沈む。
闇に紛れることを生業とする斥候たちが、
即座に理解した。
これは、自分たちの“隠蔽”ではない。
「……何だ、これは」
誰かがそう呟いた瞬間、
境界線の中央に“在った”。
ヴォルト・ルード・ヴァイア。
歩いてきた様子はない。
転移の気配もない。
気づいた時には、そこに立っていた。
杖を持つ老爺の姿。
だがその輪郭は、闇に溶け、
月光すら輪郭を与えられない。
斥候たちは息を呑んだ。
闇に溶ける側であるはずの自分たちが、
闇の“外側”に弾き出されている。
この場の異常は、彼の存在そのものだった。
「安心しなさい」
声は、静かだった。
だが、夜そのものが喋ったかのように、
兵たちの耳の奥に直接響く。
「越境は確認していない。
命令違反も、まだない」
兵の一人が、喉を鳴らしながら応じる。
「……は、はい。
我々は、すべて許容範囲内で――」
ヘラーナ様の指示通りに。
そう続けかけて、言葉を飲み込む。
「承知している」
否定ではない。
裁きでもない。
ただの、確認。
ルードは杖を軽く地面に突いた。
音はしなかった。
だが、その瞬間――
境界線の“意味”が、重く沈む。
「君たちは、よく理解している。
どこまでが“偶然”で、
どこからが“意思”として扱われるかを」
誰も返せない。
斥候という立場だからこそ、
その線引きがどれほど薄いかを知っている。
「だからこそ、警告に来た」
闇が、さらに濃くなる。
兵たちの足元から、影が伸び、
逃げ場の角度を塞いでいく。
闇を扱う者ほど、
この異常がどれほど危険かを理解していた。
「次に同じ位置に立てば、
それは“様子見”ではなくなる」
「……制裁、ですか」
震えを隠しきれない声。
「いいえ」
即答だった。
「制裁は、越えた後だ」
ルードは、初めて一歩だけ踏み出す。
距離は変わらない。
だが、空気の密度が変わる。
「次は、“線そのもの”を引き直す」
兵の一人が、理解した。
越えなくても終わる。
立ち続けるだけで、終わる。
「伝えておきなさい」
淡々と、告げる。
「境界を試す行為は、
境界を守っているつもりの者から、
最初に切り捨てられる」
そして、最後に。
「魔王城は、静観しているのではない」
闇の中心で、
赤い光が一瞬だけ灯る。
「見ている」
次の瞬間、
闇は、夜へと戻った。
月光が降り、
星が瞬き、
火は、何事もなかったように燃える。
そこにはもう、誰もいない。
斥候たちは動けなかった。
闇に溶ける技を持つ者たちでさえ、
今しがた自分たちが
“闇から拒絶された”ことを理解していた。
越えてはいない。
だが、足元の線が――
確実に、
“刃物のように細くなった”ことだけは、
理解していた。
越境はない。
だが、世界は一歩だけ動いた。
その一歩が、
誰の足跡になるのかは――
まだ、誰にも分からない。
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