第3章 境界の内で

1話

魔王城は、単なる城ではない。


黒石と黒鉄で組まれた巨大な城塞の内側に、軍も行政も生活も飲み込み、

その外側へ向けて、城下の街が広がっている。

単一国家というより、魔王城を核にした多種族の連合体。

その中心に、最終決裁権だけを持つ魔王が座っている。


「魔王が動かない」のではない。

動けば、それ自体が世界を傾ける。


だから日常の統治は、魔王直属の権力機関――四天王が担う。

種族代表ではない。

軍であり、行政であり、治安であり、外交窓口だ。


そして今、その「治安」のために現場を見に行く用事があった。


ウィル・ラーツは外套を羽織り、執務区を出た。


中枢区から城下へ抜ける通路は、天井が高い。

大型種や飛行種がぶつからないよう、最初から高さを優先して作られている。

照明は火ではなく魔力灯で、燐光が黒い石壁の継ぎ目を淡くなぞっていた。


階段を降りると、匂いが変わる。


金属の焼けた匂い。

薬品の匂い。

獣脂と血の匂い。

そこに、酒と香草の甘さが混じる。


城下区は混在だ。

人型も、人型でない者も、同じ道を行き交う。

翼を持つ者は上空の通路を渡り、地を歩く者は黒石の舗装路を進む。

建築様式も統一されていない。

石壁に寄り添うように木造が継ぎ足され、

半地下街に穴居の区画がつながり、

塔群が高所を好む種族の通り道になっている。


秩序はある。

だが、人間の都市のように整えられた秩序ではない。


必要に合わせて増え、譲り合い、折り合い、

結果として形になっただけだ。



専門区画の一角を通ると、低く唸るような音が腹に響いた。


魔導炉区だ。

排熱路が地下に張り巡らされているため、地面が微かに暖かい。

黒鉄の柵越しに、炉の口から漏れる光が瞬いた。


さらに進めば、薬草と消毒の匂いが強くなる。

医療・研究区――ジャックの管轄だ。

研究棟の扉が開くたび、金属器具の触れ合う音が外へ漏れる。


兵站・倉庫区の角では、酒樽の搬入を巡って口論が起きていた。

誰が責任者かは、見なくても分かる。

アリエルの「影響」が強い区画だ。


ウィルは視線だけで合図を送る。

兵が空気を読んで動き、口論はそれ以上膨らまなかった。


過激派がどう、という話ではない。

日常の摩擦だ。


魔王城は連合体で、四天王はそれを回す。

回っている限り、血を流す理由もない。

ただし――回っているように見えるのは、

負荷がまだ表に出ていないだけだ。



外縁区へ向かう。


監視塔と検問所が増え、駐屯地の土の匂いが濃くなる。

ここから先は、街の「外」ではない。

街の「縁」だ。


難民や多種族の一時保護区が設けられている。

保護はする。だが無条件ではない。

危険度、敵対関係、生活適応性を精査する。

最初は外縁で留め、問題がなければ城下へ移す。

それが基本方針だった。


今日の対象は、樹人族。


報告によれば数は27名、さらに魔力の消耗が激しい者がいると言っていた。


外縁区の入口で、護衛の兵が一礼する。


「隊長。樹人族は指定区画に収容済みです。争いはありません」


「代表者は?」


「名乗りはリエナ。年長者です。会話は可能です」


「案内しろ」


兵が先導し、柵の内側へ入る。



区画は、意図的に開けてあった。


樹人族は根を持つ。

閉じた部屋より、空と土と水が必要になる。

黒石の地面は一部だけ剥がされ、土が露出している。

浅い水路が引かれ、地下の水脈から冷たい水が流れ込んでいた。


樹人族の女たちは、静かにそこにいた。


上半身は人間の女性と変わらない。

肌は淡く、髪は葉脈のような筋を含んで揺れる。

腰から下は根と幹が絡み合う木質で形作られ、

動くたびに葉が擦れて、かすかな音を立てた。


疲労は隠せない。

根の一部が乾き、色を落としている者もいる。

それでも、怯えはなかった。


ウィルが歩み寄ると、一人が前へ出た。

背は高くないが、立ち姿に迷いがない。


「あなたが……魔王城の、責任ある方ですか」


「私はウィルラーツ、四天王の一人だ。状況を確認しに来た」


「リエナと申します。私たちの代表として話します」


ウィルは頷いた。


「怪我は?」


「傷はありません。ただ、根の乾きがいくつか。移動が長く、水が足りませんでした」


「水路は増やせる。日照は――ここが限界だが、遮蔽物は減らす」


リエナは一瞬、目を伏せた。


「……ありがとうございます」


礼は言う。

だが、それで終わらない表情だった。


「質問しても、よろしいでしょうか」


「答えられる範囲でなら」


「……また、争いになりますか」


ウィルは、すぐには答えなかった。


「我々としては望んでいない。魔王城の方針も同じだ」


「では、なぜ……」


「こちらも一枚岩じゃない」


穏やかな者も、戦を望む者もいる。

制度上の派閥ではない。

だからこそ、曖昧さが摩擦になる。


「……止められないのですか」


「命令違反、越境、無許可攻撃は制裁できる。

だが“許容範囲での挑発”はな......」


ウィルは視線を外へ向けた。


ここに彼女たちがいるのは偶然ではない。

原因の一端は、こちらにある。


情でも、善意でもない。

連合体としての必然だった。


「……あなたは、怖くないのですか」


「怖いから、現場がいる」


短く、だが偽りのない言葉だった。


「魔王様が動けば、世界が揺れる。だから、我々がいる。」



区画を離れかけた時、視界の端で尾が揺れた。


柵の外、荷運びの魔族に混じって、アリエルが立っている。

樹人族の様子を、先に見ていたのだろう。

腕を組み、表情は珍しく軽くない。


「……まーた、重たい顔してる」


からかうような口調だったが、声音は落ち着いていた。


「全部、聞いてた?」


ウィルの問いに、アリエルは肩をすくめる。


「見てただけよ。聞くまでもないでしょ」

「追い出された理由も、受け入れた理由も」


ウィルは答えなかった。

否定もしない。


「人間が備え始めたのは、こっちの在り方のせい。それを選んだのは、魔王様じゃないけど――」


アリエルは、言葉を切る。


「責任がゼロってわけでもない」


「……ああ」


短い返事だった。


「過激派は?」


「不満は出るわ。戦えない相手が増えた、ってね。でも、越えさせないでしょ。あなたが」


ウィルは視線を落とした。


「越えさせない」

そのために、判断を置く。

どこまで許し、どこから制裁するか。


「……制裁の基準が増えるな」


「増えるわね」


アリエルは、少しだけ真面目な顔をした。


「でも、減るよりマシでしょ。基準がなくなった時は、もう誰も止められない」


ウィルは一拍置いて、息を吐いた。


「……忙しくなる」


「ええ」


今度は、いつもの笑みだった。


「でも、嫌いじゃないでしょ?」


ウィルは肩をすくめる。


「これも仕事だからな」


魔族領は、受け入れることで形を保っている。

そして受け入れた分だけ、守るべき者も増える。


世界はまだ動いていない。


だが、動き出した時に「止められなかった」と言わないために、ウィルは今日も現場に立つ。

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