4話

王都の朝は、いつも通りだった。


城門は開き、石畳には早朝の商人たちの足音が響く。

夜露を含んだ冷たい空気の中で、露店は布を広げ、荷を並べ、兵士たちは交代の合図とともに持ち場へ散っていく。


誰もが忙しなく動いている。

だが、その動きに切迫した色はない。


――何も、起きていない。


少なくとも、王都に暮らす人々の目には、そう映っていた。



王都中央に構えられた冒険者ギルドも、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。


石造りの建物は重厚で、長い年月を経た壁には無数の傷と補修の跡が残っている。

かつて魔族との戦争が激しかった時代、この場所は平民たちが生き残るための拠り所だった。


今では、その名残は空気の中にわずかに残るだけだ。


掲示板の前には、数人の冒険者が立っていた。

だが貼り出されている依頼の数は少なく、その多くが護衛や雑務に近い内容だった。


国境絡みの依頼は、ほとんど見当たらない。


「……また、保留か」


革鎧の男が、低く呟いた。


「昨日も一昨日も同じだ。魔族関係は全部“様子見”」


槍を背負った冒険者が肩をすくめる。


「王都からの通達だ。刺激するな、ってな」


受付台の向こうで、職員が淡々と補足した。


「正式な依頼としては受けられません。国境周辺の案件は、当面このままです」


「刺激、ねぇ……」


革鎧の男は鼻で笑った。


「向こうが動いてないなら、問題ないって判断だろ?」


「勇者様がいるからな」


別の冒険者が、半ば冗談のように言う。


「いざとなれば、全部あの人が片付ける」


その言葉で、場の空気は自然と収束した。

異論は出ない。

誰もが、それ以上を考える必要はないという顔をしている。


勇者がいる。

それだけで、話は終わる。


「……でもよ」


槍使いが、声を落とした。


「超級の連中、国境の話を一切しないの、気にならねぇか?」


一瞬、周囲の空気が引き締まる。


「超級ってのは……」


革鎧の男が言葉を選ぶ。


「国に雇われてもおかしくない連中だ。単独で戦場をひっくり返せるような」


「勇者を除けば、人間側の最上位だな」


別の冒険者が続けた。


「そいつらが動かないってことは……」


「割に合わないか」


「命が足りないか、だ」


受付職員は視線を逸らした。


「それ以上のことは……」


言葉を濁したその態度が、何より雄弁だった。


勇者がいるから安心だ。

そう言えば、誰も責任を負わずに済む。


それが、今の王都だった。





一方、国境に近い街では、同じ情報がまったく違う重さで受け止められていた。


詰所の中で、文官が報告書を読み返している。


「……魔族が、境界付近に姿を見せていると?」


「ええ。越境は確認されていません。ただ、引いた様子もなく」


「命令は?」


「曖昧です。刺激するな。ただし、下がるな、と」


文官は額を押さえた。


何をすればいいのか。

何をしてはいけないのか。


その境界線が、どこにも示されていない。


「結局、現場判断か……」


呟きには、諦めが混じっていた。


魔族が越えてこない限り、問題ではない。

越えた瞬間に、すべてが問題になる。


その線引きが、これほど曖昧だったことはない。





街外れでは、別の噂が静かに広がっていた。


「国境の警備、増えたらしい」


「魔族が出てきたからだろ?」


「壁も見張りも増やすって話だ」


「……巻き込まれるのは、いつも私たちね」


そう口にしたのは、人間ではなかった。


樹人族。

上半身は人間の女性と変わらぬ姿をしているが、腰から下は根と幹が絡み合う木質で形作られている。

動くたび、葉がかすかに擦れる音がした。


彼女たちは、国境近くの森で静かに暮らしてきた。

人間とも魔族とも争わず、ただそこに根を張っていただけだ。


「塀を増やすそうよ」


年長の樹人族の女が言う。


「警備の都合ですって。ここは危険地帯になるから、立ち退けと」


それは命令だった。

交渉の余地は、最初からない。


魔族の動きに備える。

その名目の下、人間は領域を固めていく。


その結果、境界に最も近かった彼女たちが、最初に押し出された。


「……魔族が何かしたわけじゃない」


若い樹人族の女が、静かに呟く。


「でも、人間が備え始めた。それだけで、居場所を失った」


怒りはない。

あるのは、疲労と、受け入れるしかない現実だけだった。


彼女たちは逃げてきたのではない。

追い出されただけだ。





同じ頃、魔族領側の高台では、誰にも気づかれぬまま、

境界線を見下ろす影がひとつあった。


報告も、命令もない。

ただ状況を“確認”しているだけだ。


その視線は、人間領の奥深くまで伸びている。



同じ事実が、場所ごとに違う意味を持つ。


王都では、平穏の証。

国境では、不穏の兆し。

樹人族にとっては、生活を壊す引き金。


だが、どこにも「事件」は起きていない。


だからこそ、誰も動かない。



世界は、まだ静かだった。


それは均衡が保たれているからではない。

誰も決断しないまま、時間だけが流れているからだ。


その静けさが、いつまで続くのかを知る者は、

まだ、どこにもいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る