3話

魔王城の奥、今では使われていない古い会議室。


天井は高く、壁には風化した紋章の跡が残っている。

かつて戦争の最前線で意思決定が行われていた場所だが、今は照明も最低限で、広さばかりが空虚に目立っていた。


この部屋だけが、城の中で時代に取り残されている。


そこに集まっていたのは、三名だった。


「……相変わらず、嫌な空気ね」


最初に口を開いたのは、ヘラーナだった。

赤い髪を肩に流し、細い指で唇をなぞる。吸血族特有の妖艶さを隠そうともせず、気怠げに会議室を見回す。


「昔はここ、人間の血の匂いが残ってたのに。最近はすっかり薄くなったわ」


冗談めいた口調だが、その声音には隠しきれない不満が滲んでいる。

戦が減った。人間と接触する機会が減った。

それは彼女にとって、渇きを意味していた。


「それは、戦が起きていないからだ」


低く答えたのは、イヴァーナ・ゴルドフ・オウグだった。

身じろぎすると、古い椅子が低く軋む。

灰色の肌は黒に近く、右目に走る傷が歴戦を物語っていた。


「減った、じゃないわ。止まったのよ」


ヘラーナは鼻で笑う。


「今代の魔王様は、無駄な争いを好まれない。それは分かってる。でもね――」


彼女は椅子に身を預け、指先で机を軽く叩いた。


「“動かない”ってことは、見る側次第で意味が変わるのよ」


沈黙が落ちる。


三人目、ウィスター・ノーツ・ヘルムが口を開いた。

眼鏡の位置を指で直し、淡々と告げる。


「人間は、そう解釈します」


「魔王が力を持っているかどうかではなく、“今、干渉されていない”という事実を見ます」


罰せられないという状況を、人間は“黙認”だと受け取る。


ゴルドフが眉をひそめた。


「魔王様がいる限り、世界は滅びん。それは事実だ」


「ええ。魔族はそう考えます」


ウィスターは否定しない。


「ですが人間は違う。彼らは力そのものより、“裁かれていない状況”を安全だと判断する」


魔王が動かない。

戦が起きない。

境界を越えても、即座に罰が下らない。


その積み重ねが、人間に一つの認識を生む。


――今は許されている。


「……弱いとは思わない。でも、脅威ではないと?」


ヘラーナが笑みを浮かべた。


「ええ。少なくとも“今すぐ刃を振るわれる存在”ではない」


魔王が弱いと考えている者はいない。

疑われているのは、“行使されない力”だった。


ゴルドフは黙り込む。

拳を握りしめ、低く息を吐いた。


「俺たちは、魔王様のために剣を振るってきた」


「だが今は、その剣を振るう場がない」


「場はあるわよ」


ヘラーナが即座に返す。


「人間は境界を試してる。小競り合い、挑発、視察。全部“探り”」


「だが、命令は出ていない」


ウィスターが言う。


「ええ。だから反逆じゃない」


ヘラーナは即答した。


「正式な命令が出ていない以上、こちらから止める理由もないでしょう?」


魔王様の意思を否定するわけでもない。

命令を破ったわけでも、境界を越えたわけでもない。


ただ、人間側の“勘違い”を正すだけだ。


「……どうやってだ」


ゴルドフが問う。


「越えない。だが、引かない」


ヘラーナはすでに決めていたようだった。


「境界に立つ。魔力も隠さない。“魔族は、いつでもここにいる”って教えてあげるのよ」


ウィスターは一瞬、視線を伏せる。


「……兄上は、このやり方を好みません」


「四天王隊長さん?」


ヘラーナが楽しげに笑った。


「あなたのお兄様、随分と理性的だものね。で、どう思ってるの?」


「人間を刺激すれば、均衡が崩れると」


「正しいわ」


ヘラーナは肩をすくめる。


「でもね、均衡ってのは“何もしない”ことで保たれるものじゃない」


一拍置いて、続ける。


「安心させすぎると、人間は調子に乗る」


ゴルドフが、ゆっくりと頷いた。


「……戦わない」


「ええ」


「殺さない」


「もちろん」


「だが、引かない」


「そう」


ヘラーナは微笑む。


「斥候は私の方で動かすわ。闇に溶け込める子たちをね。魔力量も十分」


吸血族の密偵。

境界を越えず、だが確実に“存在”を示す者たち。


それで十分だった。


彼らは決断したのではない。

欲と不満、そして焦りが、同じ方向を向いただけだ。





決定は、命令書の形を取らなかった。


だが、流れは生まれる。


人間側の監視が、ここ数日で明らかに増えていた。


夜の境界。

森と丘が連なり、地図ほど明確ではない線の上。


闇が揺れ、吸血族の斥候が音もなく現れる。

存在を隠すのではない。気づく者だけに気づかせる、曖昧な気配。


彼らは越えない。

境界の、こちら側に立つ。


斥候の気配が届いた頃合いを見計らうように、武装した魔族の小隊が姿を見せた。

魔力は抑えられていないが、剣も抜かれていない。


攻撃ではない。

意思表示だ。


人間は、それに気づいた。


魔族が“立っている”という事実に。

越えてはいないが、引いてもいないという事実に。


恐怖は、理由を必要としない。


境界は静かだった。

だがそれは、均衡が保たれている静けさではない。


次に何が起きるのかを、誰もが測っている沈黙だった。





魔王城。


夜は深く、城内は静まり返っている。

執務室の灯りだけが、城の奥に淡く浮かんでいた。


ウィルは机に肘をつき、報告書を見下ろしている。

文字を追わずとも、状況は理解できた。


越境はない。

衝突もない。

被害報告も、まだ上がっていない。


それでも。


「……動き始めましたね」


影の中から、穏やかな声がした。


ウィルは顔を上げない。


「見ていたのか」


「ええ。少々、興味深い動きでしたので」


ヴォルト・ルード・ヴァイア。

紳士服に身を包み、杖を携えた不死族――リッチ。


四天王の一人。

だが彼は、表に立つことをほとんどしない。


戦場に立つ将でもなく、

命令を振り回す指揮官でもない。


代わりに彼は、いつも“裏側”にいる。


「過激派が集まっていた」


「正式な会議ではありません。記録も残らないでしょう」


「……止めなかったのか」


「止める理由がありませんでした」


「彼らは、魔王様の意思に逆らったわけではない。

命令を破ったわけでも、境界を越えたわけでもない」


「だが――」


「ええ。流れを作った」


ルードは杖を軽く床に突く。


「流れというものは、一度生まれると、誰にも止められません。

止められるとすれば、それは――」


扉の向こうから、足音が近づいた。


「――我、であろうか」


静かな声。


扉が開き、魔王が姿を見せる。

長い黒髪に、赤い瞳。

圧倒的な存在感を放ちながらも、その表情は穏やかだった。


「報告は聞いている」


「境界に斥候が立ち、小隊が引かずにいる。

越えてはいない。だが、引いてもいない」


「人間は、怯えるであろう」


「ええ。そして、王国は判断を迫られます」


魔王は、少しだけ目を伏せた。


「……皆、焦っているのだな」


ウィルは一歩踏み出す。


「魔王様。少し……抱え込みすぎではありませんか」


「そうかもしれぬ」


魔王は静かに認める。


「動けば、世界が傾く。

動かなければ、世界が勘違いをする」


「……それでも」


「ここで強制的に止めれば、それこそ“命令”になる。

それが何を生むか、我には分かっている」


沈黙。


「感謝する、ウィル。

そして、ルード」


「影から見てくれているのだろう」


「光栄です」


「私は表には出ません。

ですが――影から、世界の動きを見続けましょう」


「ええ。それでよい」


城は、まだ静かだ。


均衡は、まだ壊れてはいない。

だが、確実に――試されていた。

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