2話
魔王城は、静かだった。
それは平穏とは違う。
嵐の前の静けさとも、少し違う。
言葉が削られ、呼吸が抑えられ、
沈黙だけが残った場所――そんな静けさだった。
廊下で交わされる挨拶が短い。
必要な報告だけが運ばれ、余計な雑談が消える。
兵たちの靴音さえ、いつもより慎重に響く。
誰もが「何も起きていない」ことを確認するように、
何も起こさないように、動いている。
その結果として残るのが、音の薄い静けさだった。
魔王城は、魔族領の中枢に築かれている。
山を削り、地脈の流れに沿って組み上げられた巨大な構造物だ。
外壁は黒石と黒鉄が組み合わさり、継ぎ目が少ない。
長い年月に削られた角は丸く、どこか無機質で、ただ重い。
装飾はほとんどない。
威圧のための尖塔も、誇示のための紋章もない。
それでも、人は近づかない。
正確には、近づけない。
城の周囲一帯には、目に見えない圧が満ちている。
魔力という言葉だけでは言い表せない、均一で、濃密な何か。
皮膚に触れる空気がわずかに硬い。
息を吸うと、肺の奥に重みが沈む。
訓練を積んだ魔族であっても、長く留まれば無意識のうちに息が浅くなる。
気合や慣れでどうにかなる種類のものではなく、
体が勝手に「ここは人の場所ではない」と理解してしまう。
この城は、人が住むために作られていない。
世界と向き合うための拠点だ。
そういう設計思想が、石と鉄の形になっている。
通路は広いのに、どこか逃げ場がない。
天井は高いのに、見上げても救われない。
ひとつひとつが、用途のために最適化されているからだ。
軍事区画。
魔王城でも、比較的人の出入りがある場所だ。
各地から集められた報告が、ここに集約される。
兵站の数字、巡回の記録、観測の値、境界線沿いの小さな異変。
それらが束になって、毎日、机に積まれる。
卓上に広げられた地図。
境界線を示す印。
そして――最近になって増えた、小さな赤い印。
ウィルは、それを見下ろしていた。
視線を落とすだけで、指先の感覚が硬くなる。
赤い印は小さい。
だが、増え方が不自然だった。
「……増えてるな」
低く呟く。
巡回回数の増加。
境界付近への視察要請。
本来であれば不要なはずの「調査」が、いくつも重なっている。
命令ではない。
あくまで要請という形を取っている。
だからこそ、厄介だった。
要請は拒める。
拒めるが、拒めば軋む。
軋んだものは、いつか割れる。
割れ方は選べない。
そんな種類の厄介さだ。
「あらあら。ほんとに好きね、そういう“確認”」
気の抜けた声が、背後から落ちた。
ウィルは振り返らない。
聞き慣れすぎている。
「好きでやってるわけじゃない」
声に棘を乗せるほどの余裕もない。
事実だけを返す。
「分かってるわよぉ。
でも、増えてるのは事実でしょ?」
視線を向けると、そこにいたのはラミアの魔族だった。
赤い鱗に黒い模様。
しなやかな女性の上半身と、長く伸びた蛇の下半身。
体躯は大きいが、城の通路に合わせて自然に身を丸めている。
尾の曲げ方が、通行の邪魔にならない角度を心得ていた。
視線は軽い。
だが、立ち位置はいつでも「状況が見える場所」だ。
アリエル・アマリウス・ラミア。
四天王副隊長。
「境界付近、過激派が動いてる」
ウィルは地図を指で叩いた。
乾いた音が、机の上で短く鳴る。
音は小さいのに、会議室の静けさの中ではやけに響いた。
「小競り合いだが、回数が増えてる」
「あー……」
アリエルは尾を軽く揺らした。
揺れは緩いが、そこに苛立ちが混じる。
「“魔王が動かないうちに、既成事実を積み上げろ”ってやつね」
「そう見える」
ウィルは否定しない。
推測ではなく、状況の読みとして十分に成立している。
「馬鹿ね」
即答だった。
「弱いと思ってるんじゃない。
“干渉してこない”と踏んでるのよ」
ウィルは何も言わなかった。
それは否定しようのない分析だった。
魔王が弱い、など誰も思っていない。
思っていないからこそ、余計に危ない。
力の恐ろしさではなく、行使の不在に賭ける。
それは、歪んだ合理だ。
ウィルは、地図の赤い印を一つずつ追った。
距離の問題ではない。
意味の積み重なりだ。
「止める」
短く告げる。
「正式命令として出す。境界から兵を引かせる」
言葉は簡単だが、実務は重い。
引かせるには理由が要る。
理由は、誰かの不満を生む。
不満は、別の場所で別の形になる。
それでも、今は止めるべきだ。
「反発は出るわね」
「出るだろうな」
「でも今は、踏み込む時じゃない、でしょ?」
「ああ」
ウィルは即答した。
「ここで線を越えたら、戻れなくなる」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが沈む。
線を越えるのは簡単だ。
越えた後に「越えなかったこと」にするのが不可能なだけで。
アリエルは一瞬、城の奥へ視線を向けた。
魔王の執務室。
灯りは消えていない。
この城で灯りが消えない部屋は少ない。
消えない、という事実が、そのまま「誰かが起きている」を意味する。
「魔王様は……」
「動かない」
ウィルは断言する。
願望ではなく、現実として。
「でしょうね」
軽い口調だが、そこに軽視はない。
「強すぎるのよ、あの人は。
だからこそ、簡単には世界に触れられない」
その言葉に、ウィルは僅かに息を吐いた。
魔王が動けば世界が傾く――それは比喩ではない。
この城の圧の均一さが、そのまま証明している。
世界と接続している存在が、ここにいる。
だから動けない。
動けないから、他が揺れる。
その矛盾の上で、四天王は仕事をする。
政治区画では、会話が途切れていた。
区画を隔てる扉の向こう側を想像する。
穏健派と呼ばれる者たち。
争いが連鎖し、世界が殺伐とすることを何より恐れている者たち。
彼らの慎重さは正しい。
だが、慎重さだけでは止まらないものがある。
慎重さの顔をした焦りが、いちばん厄介だ。
一言が、火種になる。
一歩が、後戻りできない線になる。
「王国からは?」
アリエルが問う。
「領主を処罰した、と通達が来ている。形式上だ」
形式上、という言葉が舌に苦い。
形式は必要だ。
だが形式は、現実を動かさない。
動かすのは、形式をどう解釈したかだ。
「……勇者任せ、ね」
「ああ」
ウィルは頷いた。
王国は、勇者に委ねた。
魔族は、魔王の沈黙に委ねた。
どちらも、自分で世界を背負うことから逃げている。
逃げている、と言い切るのは簡単だ。
だが彼らにも理由がある。
理由があるから、余計に止まらない。
「均衡は、保たれてる」
アリエルが言う。
言葉の選び方が巧い。
壊れていない、ではない。
保たれている。
つまり、意図があるはずだと思わせる言い方。
「でも、いつまでかしら」
ウィルは答えなかった。
地図の上。
赤い印は、確実に増えている。
まだ線にはなっていない。
だが、点はやがて繋がる。
繋がった時、線を切るには血が必要になる。
それを知っているから、今、止める。
魔王は、まだ動かない。
世界も、まだ壊れていない。
だがその静けさが、
意志ではなく、恐れの上に成り立っていることだけは、
彼ら全員が理解していた。
恐れは、間違いを避ける。
同時に、決断を遅らせる。
遅れた決断は、より大きな代価を要求する。
そういう循環の入口に、今、立っている。
しばしの沈黙。
地図から視線を離し、ウィルが息を吐く。
「……今日は、ここまでだ」
やるべきことは残っている。
だが、詰めすぎれば判断が鈍る。
鈍った判断は、誰かの命に直結する。
だから区切る。
区切れるうちに区切る。
「お疲れさま」
アリエルは軽く言って、尾を揺らした。
「じゃあ私、戻るわ」
「戻る?」
「酒」
即答だった。
「献上酒が来てるの。
今回は南の方から。結構いいやつよ」
言い方があまりに自然で、ウィルは一瞬だけ眉を寄せる。
酒の話は日常だ。
だが今の状況で日常を持ち出すのは、意図がある。
「……仕事の話だ」
「分かってる分かってる」
適当に手を振る。
「でもね、こういう時にこそ息抜きは大切よ?」
冗談めいた口調。
だが、深刻さを和らげるためのものだと、ウィルには分かった。
息抜きは甘えではない。
硬くなった思考をほぐさなければ、同じところで判断を誤る。
アリエルはそれを分かっている。
「一杯だけにしなさいよ。
飲み過ぎたら、あとで面倒見るの嫌だから」
わざと軽く言う。
重くすれば、ウィルが余計に背負うのを知っている。
そう言って、アリエルは城の奥へと戻っていった。
蛇の尾が床を滑る音が、遠ざかるにつれて薄くなる。
それだけで、部屋の空気が少し重く戻る。
残された静けさの中で、
ウィルは机に手を置く。
献上酒があるから世界が平和、なんて話ではない。
ただ、
城はまだ機能していて、
誰かはいつも通り酒を飲み、
誰かはいつも通り仕事をしている。
その「いつも通り」が、今は価値になる。
壊れていないことの証拠になる。
「……一杯だけ、か」
小さく呟く。
酒の甘さで問題が消えるわけじゃない。
だが甘さを感じられるうちは、まだ戻れる場所がある。
その感覚が失われた時、線を引く手が狂う。
魔王は、まだ動かない。
それでも、魔王城の日常は続いている。
そのことだけを確かめるように、
ウィルは再び書類へと視線を落とした。
紙の上の数字は冷たい。
だが、冷たいからこそ嘘をつかない。
増えている。
赤い印は、確実に増えている。
そして――増えるたびに、
止めるための言葉は、少しずつ削られていく。
静けさの中で、
ウィルは次の命令文を頭の中で組み立て始めた。
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