6話

撤退の報は、想像以上に早く広がった。


人は口を閉ざしても、噂は閉じない。

恐怖は、言葉よりも速く伝播する。


戦場で見たものを、誰も正確には語らない。

語れない部分が、勝手に形を持ち始める。

それが、噂になる。


ファウス・バアドが領都へ戻った時、街は静かすぎた。


城門は開いている。

兵は整列し、通路も確保されている。

だが、そこに迎えはなかった。


歓声はない。

勝利を祝う準備もない。


あるのは、視線だけだ。


通りの両脇に立つ民の目。

兵舎の影から向けられる無言の確認。

誰も声をかけない。

誰も、何があったのかを尋ねない。


それが、余計に重かった。


兵たちは命令通りに動いた。

混乱も、潰走もなかった。

誰一人、武器を捨てて逃げてはいない。


それでも――

誰も胸を張っていない。


鎧を脱ぐ動作が遅い。

剣を壁に立てかける手が重い。

それぞれが、何かを飲み込んだまま動いている。


「……退いたのは、正しい判断だ」


自分に言い聞かせるように、バアドは呟いた。


小競り合いでは負けていない。

魔族相手に、数と装備で押し切ってきた実績もある。

地形を見極め、補給線を整え、無理をしない。

それが、彼の戦だった。


だから今回も、そうなるはずだった。


だが、現実は違った。


剣を交える前に、足が止まった。

敵を前にしてではない。

“存在”を前にしてだ。


魔族の軍勢ではない。

戦陣でもない。


ただ、そこに在った。


あれは、戦ではない。

力比べですらない。


――最初から、土俵が違った。


理屈ではなく、身体が理解してしまった。

あの場に立ち続ければ、負けるのではない。

壊される。


バアドは拳を握りしめ、視線を上げた。


領都の空は、いつもと変わらない。

雲の流れも、風の匂いも同じだ。


それでも、あの瞬間から、何かがズレている。


次に向かう先は、一つしかなかった。





アルラーツ領主館の執務室には、すでに来客があった。


重い扉が閉じられる音が、やけに大きく響く。

それだけで、この場が平穏ではないことが分かる。


「説明しろ」


バアドは、挨拶も前置きも省いた。


甲冑は脱いでいる。

だが、声にはまだ戦場の緊張が残っていた。


「俺は、あんたの言葉を信じた。武器も、人も、金も――全部、そこに賭けた」


視線は逸らさない。

逃げ道を与えない言い方だ。


アルラーツは、机の前に立ったまま答えない。

書類に落としていた視線を、ゆっくりと上げる。


「……撤いたと聞いた」


言葉を選んだ形跡はある。

だが、そこに責任を取る覚悟は見えない。


「撤いた? 違う」


バアドは歯を食いしばる。


「“退かされた”んだ」


吐き捨てるような声音だった。

それでも、感情だけで言っているわけではない。


「見ただろう。報告は読んだはずだ。あれが、魔王だ」


一瞬、アルラーツの表情が揺れる。

否定しきれない動揺が、目に出た。


「我々は、勇者が現れれば何とかなると思っていた」


バアドの声は低い。

責めているようでいて、どこか疲れている。


「これまでがそうだった。今回も同じだと、疑いもしなかった」


それは、彼自身への言葉でもあった。


アルラーツは、深く息を吐いた。


「……我々の慢心だ」


短く、だが重い言葉だった。

否定も、言い訳もない。


「武器を流し、戦を煽れば、いつも通りの“戦争”になると思っていた」


「違ったのか?」


問いは鋭い。

だが、感情よりも確認に近い。


「違った」


アルラーツは、はっきりと答えた。


「魔王は、戦争の延長線上にいる存在ではなかった」


沈黙が落ちる。


同盟でも、共犯でもない。

ただ利害で繋がっていただけの関係が、

音を立てて軋んだ。


「……俺の領は、どうなる」


問いは、責めではなかった。

現実を確認するためのものだった。


アルラーツは、即答しなかった。


「責任は、分散される」


それは、救いではない。

逃げ道でもない。


「だが、忘れるな。最初に踏み越えたのは――我々だ」


バアドは、視線を落とした。


否定は、できなかった。





魔王城では、後始末が淡々と進められていた。


境界付近の部隊整理。

人間側への形式的な抗議。

過激派への牽制。


どれも、想定の範囲内だ。

想定していたからこそ、迅速に進む。


誰も騒がない。

誰も功を誇らない。


それが、逆に異様だった。


ウィルは報告書に目を通しながら、ふと手を止めた。


数字は整っている。

文言も正しい。

だが、行間にある“空白”が、気になった。


城の奥。

執務室の灯りは、まだ消えていない。


彼女は、何も言わない。

だが、何も起きていないわけではない。


動かないこと自体が、すでに動いている。


夜が深まった頃、ウィルは静かに扉を叩いた。





夜が深まった頃、ウィルは執務室の扉を叩いた。


返事は短い。


中へ入ると、部屋は必要最低限の灯りだけが残されていた。

書類はすでに片付けられ、

机の上には酒瓶と杯が二つ、並べられている。


それは、誰かを呼ぶための配置ではない。

だが、拒む配置でもなかった。


魔王は椅子に腰掛けたまま、

杯にはまだ手を伸ばしていなかった。


「……酒は」


唐突な問いだった。

だが、ウィルは驚かない。


「甘かったか」


ウィルは一瞬だけ考え、言葉を選ぶ。

それは感想ではなく、報告だった。


「ええ。毒は含まれていましたが、魔族にとっては苦味程度です。甘味の方が勝っていました」


魔王は杯を見下ろしたまま、しばらく動かない。


沈黙が落ちる。

灯りが揺れる音だけが、微かに耳に残る。


やがて、魔王は杯を手に取った。

その動きは、いつも通りだ。


「そうか」


それ以上、言葉は続かなかった。


ウィルも、何も付け加えない。


杯が静かに触れ合う音が、部屋に響く。


酒は確かに甘い。

だが、その甘さが何によるものかを、

二人とも口にすることはなかった。


世界は、今日も回っている。

何事もなかったかのように。


ただし――

同じ場所には、戻っていない。

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