6話
撤退の報は、想像以上に早く広がった。
人は口を閉ざしても、噂は閉じない。
恐怖は、言葉よりも速く伝播する。
戦場で見たものを、誰も正確には語らない。
語れない部分が、勝手に形を持ち始める。
それが、噂になる。
ファウス・バアドが領都へ戻った時、街は静かすぎた。
城門は開いている。
兵は整列し、通路も確保されている。
だが、そこに迎えはなかった。
歓声はない。
勝利を祝う準備もない。
あるのは、視線だけだ。
通りの両脇に立つ民の目。
兵舎の影から向けられる無言の確認。
誰も声をかけない。
誰も、何があったのかを尋ねない。
それが、余計に重かった。
兵たちは命令通りに動いた。
混乱も、潰走もなかった。
誰一人、武器を捨てて逃げてはいない。
それでも――
誰も胸を張っていない。
鎧を脱ぐ動作が遅い。
剣を壁に立てかける手が重い。
それぞれが、何かを飲み込んだまま動いている。
「……退いたのは、正しい判断だ」
自分に言い聞かせるように、バアドは呟いた。
小競り合いでは負けていない。
魔族相手に、数と装備で押し切ってきた実績もある。
地形を見極め、補給線を整え、無理をしない。
それが、彼の戦だった。
だから今回も、そうなるはずだった。
だが、現実は違った。
剣を交える前に、足が止まった。
敵を前にしてではない。
“存在”を前にしてだ。
魔族の軍勢ではない。
戦陣でもない。
ただ、そこに在った。
あれは、戦ではない。
力比べですらない。
――最初から、土俵が違った。
理屈ではなく、身体が理解してしまった。
あの場に立ち続ければ、負けるのではない。
壊される。
バアドは拳を握りしめ、視線を上げた。
領都の空は、いつもと変わらない。
雲の流れも、風の匂いも同じだ。
それでも、あの瞬間から、何かがズレている。
次に向かう先は、一つしかなかった。
◇
アルラーツ領主館の執務室には、すでに来客があった。
重い扉が閉じられる音が、やけに大きく響く。
それだけで、この場が平穏ではないことが分かる。
「説明しろ」
バアドは、挨拶も前置きも省いた。
甲冑は脱いでいる。
だが、声にはまだ戦場の緊張が残っていた。
「俺は、あんたの言葉を信じた。武器も、人も、金も――全部、そこに賭けた」
視線は逸らさない。
逃げ道を与えない言い方だ。
アルラーツは、机の前に立ったまま答えない。
書類に落としていた視線を、ゆっくりと上げる。
「……撤いたと聞いた」
言葉を選んだ形跡はある。
だが、そこに責任を取る覚悟は見えない。
「撤いた? 違う」
バアドは歯を食いしばる。
「“退かされた”んだ」
吐き捨てるような声音だった。
それでも、感情だけで言っているわけではない。
「見ただろう。報告は読んだはずだ。あれが、魔王だ」
一瞬、アルラーツの表情が揺れる。
否定しきれない動揺が、目に出た。
「我々は、勇者が現れれば何とかなると思っていた」
バアドの声は低い。
責めているようでいて、どこか疲れている。
「これまでがそうだった。今回も同じだと、疑いもしなかった」
それは、彼自身への言葉でもあった。
アルラーツは、深く息を吐いた。
「……我々の慢心だ」
短く、だが重い言葉だった。
否定も、言い訳もない。
「武器を流し、戦を煽れば、いつも通りの“戦争”になると思っていた」
「違ったのか?」
問いは鋭い。
だが、感情よりも確認に近い。
「違った」
アルラーツは、はっきりと答えた。
「魔王は、戦争の延長線上にいる存在ではなかった」
沈黙が落ちる。
同盟でも、共犯でもない。
ただ利害で繋がっていただけの関係が、
音を立てて軋んだ。
「……俺の領は、どうなる」
問いは、責めではなかった。
現実を確認するためのものだった。
アルラーツは、即答しなかった。
「責任は、分散される」
それは、救いではない。
逃げ道でもない。
「だが、忘れるな。最初に踏み越えたのは――我々だ」
バアドは、視線を落とした。
否定は、できなかった。
◇
魔王城では、後始末が淡々と進められていた。
境界付近の部隊整理。
人間側への形式的な抗議。
過激派への牽制。
どれも、想定の範囲内だ。
想定していたからこそ、迅速に進む。
誰も騒がない。
誰も功を誇らない。
それが、逆に異様だった。
ウィルは報告書に目を通しながら、ふと手を止めた。
数字は整っている。
文言も正しい。
だが、行間にある“空白”が、気になった。
城の奥。
執務室の灯りは、まだ消えていない。
彼女は、何も言わない。
だが、何も起きていないわけではない。
動かないこと自体が、すでに動いている。
夜が深まった頃、ウィルは静かに扉を叩いた。
◇
夜が深まった頃、ウィルは執務室の扉を叩いた。
返事は短い。
中へ入ると、部屋は必要最低限の灯りだけが残されていた。
書類はすでに片付けられ、
机の上には酒瓶と杯が二つ、並べられている。
それは、誰かを呼ぶための配置ではない。
だが、拒む配置でもなかった。
魔王は椅子に腰掛けたまま、
杯にはまだ手を伸ばしていなかった。
「……酒は」
唐突な問いだった。
だが、ウィルは驚かない。
「甘かったか」
ウィルは一瞬だけ考え、言葉を選ぶ。
それは感想ではなく、報告だった。
「ええ。毒は含まれていましたが、魔族にとっては苦味程度です。甘味の方が勝っていました」
魔王は杯を見下ろしたまま、しばらく動かない。
沈黙が落ちる。
灯りが揺れる音だけが、微かに耳に残る。
やがて、魔王は杯を手に取った。
その動きは、いつも通りだ。
「そうか」
それ以上、言葉は続かなかった。
ウィルも、何も付け加えない。
杯が静かに触れ合う音が、部屋に響く。
酒は確かに甘い。
だが、その甘さが何によるものかを、
二人とも口にすることはなかった。
世界は、今日も回っている。
何事もなかったかのように。
ただし――
同じ場所には、戻っていない。
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