5話

ファウス・バアドは、魔族との小競り合いで負けたことがない。


それは誇張でも虚勢でもなく、事実だった。


武門として知られるファウス家に生まれ、剣を覚えたのは物心がつく前だった。

歩くより先に、刃物の重さを知った。

遊びよりも稽古が日常で、剣を振るうことは特別な行為ではなかった。


十代で初陣に立った。

血の匂いも、悲鳴も、そこで初めて知った。

だが恐怖はなかった。

恐怖を感じる前に、状況を把握していた。


それ以来、彼は戦場から離れたことがない。


魔族との衝突では常に前線に立ち、

退くべき時と、押すべき時を誤らず、

結果として領地は拡大してきた。


勇者ではない。

女神に選ばれた存在でもない。


奇跡を起こしたこともなければ、

剣を振るっただけで世界が変わったこともない。


だが、戦争を起こし、勝ちを拾う才覚はあった。


だからこそ、人間側ではこう評されている。


――魔族を知っている男。


魔族の動き方を知り、

彼らが引く理由と、引かない理由を知り、

無理に踏み込めば何が起きるのかを理解している。


それが、ファウス・バアドの最大の武器だった。


そして今回も、

同じだと思っていた。


背後には、十分な装備があった。


刃こぼれのない剣。

手入れの行き届いた槍。

魔族相手を想定した形状の防具。


一部の武器には、見慣れない刻印が刻まれていた。

魔族の魔力に反応する仕組みだと説明されている。


だが、それがどこで作られたかなど、

バアドにとっては些細な問題だった。


切れ味は確かだ。

実戦で使える。


それで十分だった。


誰が作ったかよりも、

どこで、どう使うかの方が重要だ。


「進め」


短い命令だった。

だが、その一言で隊列が動く。


訓練された兵たちが、迷いなく前へ進む。

足並みは揃い、武器の音も抑えられている。


丘を越えた、その瞬間だった。


空気が変わった。


冷たいわけではない。

湿っているわけでもない。


ただ、重い。


理由の分からない圧が、胸に乗る。

兵の一人が、無意識に喉を鳴らした。

別の者は、胸の奥に何かを飲み込んだような違和感を覚える。


魔力を感じ取る素養のない者ですら分かった。


ここから先は、

人間の領域ではない。


草の色が濃い。

土の匂いが違う。

風の音が、遠い。


生き物の気配が薄い。

鳥の声も、虫の音も聞こえない。


バアドは足を止めた。


――早い。


地図上では、まだ境界のはずだった。


だが、現実は地図通りにはいかない。

境界は線ではなく、揺らぎだ。


その時だった。


何もないはずの空に、

“それ”は最初から存在していたかのように現れた。


魔王。


地に立ってはいない。

宙に、静かに浮かんでいる。


風に揺れることもなく、

重力に引かれる様子もない。


黒い長髪。

紅い瞳。

頭には、金色の角。


その存在を正しく認識した瞬間、

バアドの背中を冷たいものが走った。


敵ではない。

交渉の相手でもない。


――災厄だ。


理屈ではなく、

経験がそう告げていた。


魔王の後方、地上には一人の魔族が控えていた。

黒髪に黒い角。

視線は揺れず、魔王から目を離さない。


隊長格。

魔王の従者だと、直感で分かる。


次の瞬間だった。


魔王が、軽く手を掲げた。


それだけで、空が軋んだ。


音はしない。

だが、空間そのものが歪む。


空一面に、魔法陣が展開される。


火や水、光など、各属性ごとに色は分かれる。

それが、この世界の常識だ。


だが、広がった魔法陣は違った。


赤、青、緑、白。

本来なら交わらないはずの色が、

互いを侵食するように重なり合っている。


色は定まらない。

境界がない。


魔力の流れが、視認できるほどに濃い。

それは術式ではなく、

世界そのものが組み替えられているかのようだった。


光を拒み、

すべてを飲み込むような“黒”。


空気が震える。


圧が、骨の内側にまで染み込んでくる。

呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。


兵の中には、膝をつきそうになる者もいた。

歯を食いしばり、立っているだけで精一杯だ。


魔力を知らぬ兵ですら理解した。


これは、撃たれる前兆だ。


(……勝てない)


その判断は、驚くほど冷静だった。


勝ち負けの話ではない。

立っていていい場所ではない。


魔王は何も言わない。

詠唱もない。


ただ、世界が応えている。


次の瞬間、魔法陣が消えた。


最初から存在しなかったかのように。


沈黙が落ちる。


音が戻らない。

風も吹かない。


その沈黙が、恐怖を完成させた。


「……退け」


掠れた声で、バアドは命じた。


誰も逆らわない。

統率は、まだ残っていた。


兵たちは背を向け、走り出す。

隊列は乱れない。

誰一人、振り返らない。


魔王は追わない。


宙に浮かんだまま、

ただ静かに見下ろしている。


それが、

「許された」のではないことだけは、

はっきりと分かった。



魔王城へ戻る途中、

ウィルは、あの光景を何度も思い返していた。


空に広がった魔法陣。

あの密度。

あの制御。


力を誇示するためではない。

威嚇のためでもない。


ただ、

「ここにいる」と示しただけだ。


魔王は、何も語らない。

歩みも、呼吸も、変わらない。


だが――


あれほどの力を通して、

何も起きないはずがなかった。


「……魔王様」


呼びかけても、返事はない。


ただ一瞬、

彼女の視線が、わずかに揺れた。


それだけで、十分だった。


均衡は、まだ保たれている。


だが、

その均衡が力によって支えられていることを――

この日、人間は初めて理解した。

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