4話
魔王城では、何も起きていない――表向きは。
巡回の報告は通常通り。
城内の警備体制も、規定から大きく外れてはいない。
兵の配置に異常はなく、補給線も滞りなく機能している。
怒号が廊下に響くこともなければ、剣が抜かれる気配もない。
城は、いつも通りだ。
秩序は保たれ、規律は守られ、統治は続いている。
それでも、ウィルは違和感を拭えずにいた。
それは、目に見える異常ではない。
数値が跳ね上がったわけでも、明確な事件が起きたわけでもない。
だが、確実に――
空気の流れが、変わっている。
「……増えているな」
執務机の前に立ち、報告書を見下ろしながら、低く呟く。
紙の上に並ぶ文字は、どれも一見すれば問題のないものばかりだ。
巡回の完了報告。
境界付近の安全確認。
視察要請の提出。
だが、それらが“重なって”いる。
巡回回数が、わずかに増えている。
境界付近への確認要請が、通常よりも頻繁だ。
本来であれば、定期報告に含めれば済むはずの内容が、
わざわざ独立した報告書として上がってきている。
どれも単体では些細だ。
だが、積み重なれば意味を持つ。
「誰が主導している?」
ウィルの問いに、報告役の魔族は一瞬だけ視線を伏せた。
答えを知らないわけではない。
だが、言葉を選んでいる。
「……複数です。いずれも中堅どころで……古参ではありません」
若くはない。
だが、決定権を持つほどの立場でもない。
命令を出す側ではなく、受け取る側。
だが、現場に顔が利き、部下も持っている。
「勝手に動いている、というわけか」
「“調査”だと主張しています」
調査。
その言葉に、ウィルは小さく息を吐いた。
会議室での結論は、先送りされた。
だが、それを「何も決まらなかった」と受け取った者がいる。
あるいは、「止められていない」と。
「境界付近の状況を確認するだけだ、と」
「確認のために、どれほどの兵が動いている」
「……小隊規模です」
小隊。
攻めるには足りない。
だが、見せるには十分な数だ。
威圧としては、過不足ない。
「魔力反応は?」
「意図的に、抑えていません」
その一言で、状況は明確になった。
隠すつもりはない。
だが、攻撃もしない。
見せるために立つ。
それだけで、人間は反応する。
ウィルは、報告書を静かに閉じた。
これは、威嚇だ。
挑発ではない。
攻撃でもない。
だが、人間側から見れば――
違いはない。
「止める」
短く告げる。
「こちらから正式に指示を出す。調査は中止だ」
「はっ」
命令は即座に伝えられた。
表立って逆らう者はいない。
誰も、命令違反はしない。
それが、魔王城の秩序だ。
だが、ウィルは分かっていた。
これは勝利ではない。
ただ、表面をなぞっただけだ。
◇
境界付近。
人間領と魔族領を隔てる線は、地図ほど明確ではない。
森と丘が連なり、川や岩場が自然の境界を作っている。
だが、それは人間の感覚で引かれた線に過ぎない。
実際の領土の境は、曖昧だ。
一歩踏み出したところで、地面の色が変わるわけでもない。
そこに、魔族の小隊がいた。
武装は整っているが、戦闘態勢ではない。
剣は抜かれていない。
盾も構えられていない。
だが、魔力を纏った気配は、意図的に抑えられていなかった。
獣が縄張りを示すような、
誰にでも分かる威圧。
「これ以上は行き過ぎだ」
ウィルの声に、小隊の指揮を執っていた魔族が振り返る。
年若くはない。
だが、古参というほどでもない。
「隊長。あくまで調査です」
「それは聞いた」
短いやり取り。
だが、その間に、空気が張りつめる。
「……いつまで“様子を見る”おつもりですか」
名指しはされていない。
だが、向けられた先は明白だった。
魔王。
そして、その判断を現場に落とす四天王。
ウィルは、即答しなかった。
ここで感情を乗せれば、引けなくなる。
言葉を強めれば、線を越える。
「ここで踏み込めば、戻れなくなる」
それだけを告げる。
それ以上でも、それ以下でもない。
沈黙が落ちる。
森の奥で、風が葉を揺らす音だけがした。
やがて、指揮官はゆっくりと頷く。
「……了解しました」
小隊は引き上げた。
境界線を越えることはなかった。
だが――
彼らが残したものは、消えない。
踏み荒らされた地面。
魔力が滞留した空気。
そして、遠くからでも分かる存在感。
それらは、人間側に届いた。
魔族が、動いた。
そう認識するには、十分すぎる事実だった。
◇
その報告が城へ戻った時、
ウィルはすでに分かっていた。
執務室には、報告役の魔族と彼しかいない。
「被害は出ていません」
部下の声は、事務的だった。
「分かっている」
ウィルの声も、落ち着いている。
「だが、これで十分だ」
何が、とは言わなかった。
人間側は、理由など求めない。
必要なのは、口実だ。
「魔族が境界に兵を出した」
それだけで、人間は備える。
ウィルは、報告書を静かに閉じた。
魔王は、まだ動かない。
それは変わらない。
城の奥。
魔王の執務室には、灯りがともっている。
扉の向こうで、彼女はすべてを把握しているはずだった。
それでも、まだ動かない。
均衡は、確かに保たれていた。
だが、それは、
誰かが必死に支えている均衡ではない。
触れれば崩れる均衡だ。
そして――
触れてしまった者は、もういる。
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