3話

魔王城の空気が、わずかに変わった。


それを最初に感じ取ったのは、怒声でも、剣戟の音でもなかった。

誰かが声を荒げるよりも前に、誰かが刃を抜くよりも前に、

噂が、静かに会議室へと持ち込まれた瞬間だった。


明確な形を持たない情報は、時に命令よりも早く広がる。

囁きと推測、事実と憶測が混ざり合い、いつの間にか空気そのものを変えていく。


会議室には、古参の魔族が多く集められていた。


長く魔王城を支えてきた者たちだ。

かつて前線に立ち、血を浴び、名もない戦を越えてきた者。

あるいは後方で補給や統治を担い、崩れかけた秩序を繋ぎ止めてきた者。


鎧を身に着けていない者も多い。

だが、その場に漂うのは武装よりも重い、経験の気配だった。


十数名。

誰も声を荒げない。


椅子に深く腰掛け、背を預けている者。

肘を卓につき、指を組んで沈黙を守る者。

壁際に立ち、全体を見渡している者。


会議卓に置かれた指先には、微かに力が籠もっている。

爪が木目に沈み、無意識に圧がかかっているのが分かる。


静かだ。

だが、この静けさは、落ち着きとは違う。


ウィルは、会議卓の端に立っていた。


中央に座る資格はない。

だが、黙って見ていることを許される立場でもなかった。


四天王の一角として、そしてこの件を現場で扱った者として、

ここに立たなければならない。


「隔離庫を使用した件については、事実です」


ウィルの声は落ち着いている。

感情を乗せない。説明に徹する。


「献上酒に毒性反応が出ました。検分は規定通り行われています。意図は不明――」


「だが、毒だったのは事実だ」


低い声が、静かな会議室に落ちた。


発言したのは、かつて前線に立っていた古参の魔族だった。

種族は違えど、その声には共通した重みがある。


感情を表に出してはいない。

だが、その視線は硬く、逃げ場を与えない。


「我々に効かぬ毒を盛るなど、試されているとしか思えん」


それは、断定ではない。

だが、否定しきれない推測だった。


「挑発の可能性は否定できません。しかし、即断は――」


ウィルは続けようとする。


「即断を避けている間に、事態が悪化した例は一度や二度ではない」


別の者が、静かに言葉を継いだ。

椅子が、わずかに軋む音がする。


誰も声を荒げない。

だからこそ、空気は重い。


怒りではない。

焦りでもない。


これは、恐れだ。


「魔王様は静観を選ばれた」


ウィルの言葉で、会議室が一瞬だけ静まり返る。


沈黙は短い。

だが、確かに間が空いた。


「それが問題だ」

「魔王様が動かれぬから、人類が調子に乗る」


言葉は穏やかだ。

しかし、その奥にある不安は隠しきれていない。


詳細は、すでにアリエルからも伝えられている。

過激派の動き。

城内で広がり始めた噂。

そして、人類側の反応。


それでも、魔王は動かない。


ウィルは、ゆっくりと視線を巡らせた。


彼らは暴走しているわけではない。

むしろ冷静だ。


冷静だからこそ、恐れている。

恐れているからこそ、何かを求めている。


「過激な行動は、魔王城全体を危険に晒します」


正論だった。

否定しようがない。


「では、何もしないのか」


その問いに、ウィルは一拍だけ言葉を失う。


自分が抑えれば大丈夫だ。

自分が調整すれば、事態は制御できる。


そう思っていた。

思っていたはずだった。


「――情報が集まり次第、対応は決めます」


慎重な答え。

逃げではない。

だが、踏み込んでもいない。


会議は、それ以上踏み込まれなかった。

結論は先送りされた。


誰も不満を口にしない。

だが、納得もしていない。


散会した後、ウィルは理解していた。


完全には、抑えきれていない。



人類側――アルラーツ領。


執務室の壁一面には、武器が並べられていた。

剣、斧、槍。

どれも手入れは行き届いている。


刃こぼれもなく、錆もない。

だが、使われた形跡はない。


装飾としての武器。

象徴としての武力。


椅子に深く腰掛けているのが、アルラーツ・ヴィエゴだった。


茶色の長い髪をオールバックにまとめ、

狡猾さを隠そうともしない目を細めている。


「……献上酒は、問題なく魔王城へ運び込まれたようだな」


報告書を指で弾き、鼻で笑う。


「ふん。魔王が出てくるなど……ありえんな」


「ヴィエゴ様」


背後に控えていたウォルト・ラーツが、一歩前に出た。


白髪混じりの短い髪はきちんと整えられ、

その姿勢には長年仕えてきた者の慎みがあった。


「分かっておる。魔族が騒ぎ始めたのだろう」


「はい。ただ――」


ウォルトは一拍置く。


「魔王という存在を、あまり軽く見ない方がよろしいかと」


アルラーツは肩をすくめる。


「今代の魔王は弱腰らしい。歴代でも弱い部類なのやもしれんな」


「……魔王が弱い? ありえませんな」


即答だった。


「勇者が存在する限り、最悪は避けられるはずです」


ウォルトはそう続ける。


「今代の勇者は、歴代でも頭抜けているとの噂もありますが……油断はなりません」


噂。

確証ではない。

だが、人類はそれに縋る。


「今回も勇者サマがどうにかしてくれるだろう」


アルラーツは満足そうに笑った。


「その前に、一稼ぎさせてもらおうじゃないか」


魔族が動けば、武器が売れる。

魔王が出れば、市場は荒れる。


それでいい。


ウォルトはそれ以上、何も言わなかった。


ただ、窓の外――

遠く離れた魔王城の方向を、一瞬だけ見た。



魔王城。


ウィルは執務室へ戻り、報告書をまとめていた。


筆は滑らかに動いている。

判断は間違っていない。

そう、何度も自分に言い聞かせる。


魔王は、まだ動かない。

それが最善だ。


……本当に?


会議室で交わされた視線。

言葉にならなかった不安。

沈黙の中に溜まっていく、答えの出ない感情。


均衡は、まだ保たれている。

だが、それは誰かが意図して守っているものではない。


勝手に、崩れ始めている。


そのことに、気づいている者は――

まだ、少なかった。

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