2話
この世界は、アーサスと呼ばれている。
三つの月と一つの太陽が空に浮かび、それらが互いに影を落とし合いながら巡る、不安定な均衡の上に成り立つ世界だ。
昼と夜の境界は曖昧で、月の配置によって空の色すら変わる。
人類、魔族、そしてその他の種族が存在し、争いは特別な出来事ではなく、日常の延長として受け入れられてきた。
勇者が選ばれれば、人類は安心する。
魔王が現れれば、必ず勇者も選ばれる。
因果のように繰り返されるその構図は、長い年月の中で常識として固定されていた。
だが、その裏で誰が死ぬのかを、真剣に考える者は少ない。
選ばれなかった者。巻き込まれた者。
均衡を保つために、名前すら残らず消えていく存在について、語られることはほとんどない。
均衡とは、そういうものだ。
◇
人間領からの献上品が魔王城へ運び込まれたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
太陽が最も高い位置を過ぎ、城内の通路に差し込む光がわずかに傾き始めた時間帯。
城下の喧騒が一段落し、執務区では報告や決裁が淡々と処理されていく、いつもと変わらない流れの中だった。
献上品は贈り物であり、同時に外交そのものだ。
そこに込められた意図を、送り手が明言することはない。
受け取り方ひとつで、相手は勝手に意味を読み取り、勝手に期待し、あるいは警戒する。
だからこそ魔王城では、献上品の扱いは慎重を極める。
感情ではなく、手順で。
疑念ではなく、検分で。
異変は、その一次検分の段階で起きた。
「隊長。一次検分より報告です」
執務机に向かっていたウィルのもとへ、副官が静かに声をかける。
声色は落ち着いているが、報告の内容が通常ではないことは、その間の取り方から察せられた。
「人間領からの献上酒です。担当が違和感を覚えたと」
「担当は」
ウィルは顔を上げずに問う。
「魔狼種の兵、ラグドです」
魔狼種は嗅覚に優れ、毒や薬品に対する反応が鋭い。
酒や香料、薬品類の検分に配置されるのは、経験則に基づいた合理的な判断だった。
「献上品は未開封のまま隔離庫へ。封蝋には触れるな」
一瞬の迷いもなく指示を出す。
「了解しました」
誤報であれば、人類側を無用に刺激することになる。
だが見逃せば、城そのものを揺るがす事態に発展しかねない。
どちらの可能性も天秤にかけた上で、ウィルは席を立った。
◇
隔離庫の前で待っていたのは、魔狼種の兵だった。
背筋を伸ばし、鼻先をわずかに空へ向けたまま立っている。
周囲に漂う空気を、視覚よりも嗅覚で捉えているのが分かる。
「強い異臭ではありません」
兵は、そう前置きしてから続けた。
「だが、違和感がある」
「具体的には」
「はい。酒としては、香りが整いすぎています」
熟成酒特有の雑味も、樽の癖もない。
不自然なほど均一で、完成されすぎた香り。
理屈では説明しきれない感覚。
だがウィルは、それを軽視しなかった。
「検分室へ回す」
短い命令だったが、その重みを兵は理解していた。
◇
検分室には、二つの木箱が並べられていた。
部屋に入った瞬間、独特の薬品臭が鼻を刺す。
そこに現れたのは、魔王城専属医師にして四天王の一員、ジャック・シザース・ソーマだった。
白衣の裾を翻しながら、箱を見下ろす。
「面倒なやつですね」
ぼそりと呟く。
「同感だ」
封蝋を切ると、甘い香りが室内に広がった。
だが、それは心地よさよりも、作為的な印象を残す香りだった。
ジャックが薬液を垂らし、反応を確かめる。
「……毒性反応あり」
「量は」
「人類なら致死量。魔族には無害です」
殺すための毒ではない。
だが、魔族が反応し、騒ぎ、動けば、それだけで目的は果たされる。
「隔離庫を使った以上、城内じゃ噂になりますよ」
「隠せないな」
「“献上品に問題があるらしい”。それだけで、過激派は騒ぎます」
◇
魔王の執務室。
重厚な扉の向こうで、魔王は静かに報告を聞いていた。
「……今度は何だ、ウィル」
「献上酒の検分で、毒物反応が出ました」
魔王は、わずかに視線を伏せる。
「魔族に効くのか」
「いいえ。人類基準です」
「……酒は、甘かったか?」
噛み合わない問いに、ウィルは一瞬言葉を失う。
「隔離庫を使用しました。城内では既に話が出始めています」
「止められぬな」
「過激派が動く可能性があります」
「分かっておる」
短い沈黙が落ちる。
「アリエルを呼べ」
「副隊長を?」
「把握するためだ」
ウィルは一礼し、踵を返そうとした。
「ウィル」
「はい」
「……この件、我が直々に動くべきか?」
即答はしなかった。
「現時点では判断材料が不足しています。ただ」
「ただ?」
「過激派が先に動けば、事態は制御しづらくなります。魔王様が動かない選択も、また危険です」
魔王は目を閉じ、そして開いた。
「……分かった。まずは情報を集めよ」
その声に、感情は乗っていなかった。
それが、何よりの警告だった。
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