魔王と、その勇者

喜哀楽

第1章 均衡の崩れ、予兆

1話

魔王城は平和だった。


だからこそ、ウィルラーツ・アルバ・ヘルムは落ち着かなかった。


廊下を行き交う兵の足音は規則正しく、鍛錬場から聞こえる声にも乱れはない。

執務区画では書類が滞りなく運ばれ、報告は時間通りに上がってくる。


すべてが、あまりにも整いすぎている。


ウィルは魔王親衛隊四天王の隊長として、その光景を見下ろしていた。

黒髪を短く整え、装飾の少ない外套を纏う。

人魔族としては取り立てて目立つ外見ではないが、判断を預けられる立場にある者の空気は自然と身についている。


魔王城が機能しているのは、魔王が最強だからではない。

その力を、使わない選択をし続けているからだ。


「……また増えているな」


執務室の机に積まれた書類を見て、ウィルは小さく息を吐いた。

人間領との折衝、魔族内部の調整、領地管理、治安報告。

どれも後回しにはできない。


「暇だのう……」


書類の山の向こうから、そんな声がかかった。


顔を上げると、執務用の机の奥に彼女は座っていた。


第十三代魔王、ヴィクトワール・ジュリエット・ディアブロ。


黒い長髪に紅い瞳、額から伸びる金色の角。

その姿だけを見れば、恐怖の象徴として語られてきた存在だ。

だが今は、完全に退屈を持て余した表情をしていた。


「魔王様」


「む、ウィルか」


視線が合い、彼女はわずかに表情を緩める。


「書類が山積みです。暇などと言っている場合ではありません」


「それは分かっておる。しかしな……」


椅子の背に体を預け、天井を見上げる。


「魔王というのは、もっとこう……世界を相手に派手に暴れるものだと思っておった」


「その結果が、これまでの戦争です」


「むぅ……正論は刺さるのう」


軽口を叩きながらも、ジュリエットは書類へと視線を戻す。

理解していないわけではない。

ただ、性格が落ち着いていないだけだ。


だが、ふとした瞬間。

冗談めいた口調の裏に、感情の温度がないことに気づけるのは、ウィルだけだった。


「最近は静かすぎて退屈だ」


「静かなのは良いことです」


「そういうところが、そなたは堅いのだ」


それでも彼女は、壊さない。

史上最強と謳われる力を持ちながら、選ばない。


自分がそばにいれば、魔王は間違えない。

ウィルは、そう信じて疑っていなかった。


「何かあったら、すぐに動けるよう準備はしています」


「そうか。頼りにしておるぞ、ウィル」


その言葉は軽い。

だが、そこに込められた信頼は本物だった。


ウィルは一礼し、踵を返す。


この平和が、いつまで続くのか。

その問いを、彼はまだ口にしないまま、執務へと戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る