第九章 工程能力という概念
「——これが、うちの工房のデータだ」
セイは、一枚の紙をテーブルに広げた。
紙には、過去三か月間に製造した短刀の刃の長さが、一本一本記録されていた。規格値は200ミリ±2ミリ。つまり、198ミリから202ミリの範囲が合格だ。
「全部で百五十八本。そのうち、規格外は——」
セイは、データを指でなぞった。
「四本。つまり、不良率は約2.5パーセント」
「それは——良いのか? 悪いのか?」
リーナが、首を傾げた。彼女は、騎士としての仕事の合間を縫って、セイの活動を手伝い続けていた。
「悪くはない。でも、もっと良くできるはず」
セイは、別の紙を取り出した。そこには、百五十八個のデータ点が、グラフとして描かれていた。
「これは、データの『分布』を示したものだ。横軸が測定値、縦軸がその値を取った本数」
グラフは、200ミリを中心に、左右に広がる山のような形をしていた。
「これ——山みたいな形になるのか」
「そう。これを『正規分布』という。多くの自然現象や、人間の作業結果は、こういう形になる。中心付近が最も多くて、離れるほど少なくなる」
「ふむ——」
「重要なのは、この山の『幅』だ。幅が狭ければ、ばらつきが小さい。幅が広ければ、ばらつきが大きい」
セイは、グラフの左右に縦線を引いた。
「ここが規格の上限と下限。山がこの線の内側に完全に収まっていれば、理論上、不良は出ない。でも、今のうちの工房の山は——」
「少しはみ出てるな」
「そう。このはみ出た部分が、不良になる」
リーナは、グラフを食い入るように見つめた。
「つまり——山の幅を狭くすれば、不良が減る」
「その通り。山の幅のことを、専門的には『標準偏差』という。標準偏差を小さくすることが、品質改善の目標だ」
「標準偏差を小さくする——具体的には、どうすればいい?」
ガルドが尋ねた。彼も、息子の説明を聞きながら、真剣な表情を浮かべていた。
「ばらつきの原因を見つけて、潰すんだ」
セイは、答えた。
「さっき話した、水曜日の炭の問題。あれを解決したら、標準偏差は少し小さくなった。同じように、他の原因も一つ一つ見つけて、対策していく」
「時間がかかりそうだな」
「かかる。でも、一度小さくなった標準偏差は、維持できる。今日の改善は、明日以降の全ての製品に効く」
セイは、新しいグラフを描いた。
「例えば、今の標準偏差が1.0だとする。規格幅が4ミリだから——」
数式を書きながら、計算していく。
「工程能力指数、Cpは——約0.67。これだと、理論上、不良率は約4.5パーセント」
「実際の2.5パーセントより高いな」
「理論と実際は、完全には一致しない。でも、目安にはなる。Cpが1.0以上になれば、不良率は0.3パーセント以下。1.33以上になれば、0.006パーセント以下——つまり、ほぼゼロ」
「ほぼゼロ——」
リーナの目が、光った。
「それが実現できれば——」
「戦場で、武器の不具合で命を落とす騎士は、激減する」
工程能力の概念は、ガルドの工房だけでなく、協力工房にも広がっていった。
セイは、定期的に「品質会議」を開催するようになった。参加するのは、ガルドの工房と、協力関係にある数軒の工房の代表者たち。
「先月の品質データを共有しよう」
会議の冒頭で、セイは各工房のデータをまとめた資料を配った。
「A工房——刃の長さのCpは1.12。良好。B工房——0.89。改善の余地あり。C工房——0.72。要注意」
「うちが一番悪いのか——」
C工房の代表が、渋い顔をした。
「悪いというより、まだ伸び代があるということ。何が原因か、一緒に考えましょう」
「原因——」
「データを見ると、C工房は、特に月末に数値が悪くなる傾向がある。月末に何か変わったことはない?」
「月末——ああ、月末は納期に追われて、急ぎの仕事が多いな」
「急ぐと、どうしても作業が雑になりますか?」
「まあ——確認作業を省いたりすることはあるかもしれん」
「それだ」
セイは、頷いた。
「急いでいるときほど、ミスが増える。だから、『急いでいるときのための手順』を別に作っておくといい。『最低限、ここだけは確認する』というチェックリストを用意しておけば、急ぎでも品質を維持できる」
「チェックリスト——」
「うちの工房で使っているものを、後で見せます。参考にしてください」
品質会議は、単なる情報共有の場ではなかった。
それは、「競争」と「協力」が同居する、独特の場だった。
各工房は、本来ならば競争相手だ。だが、品質データを共有することで、互いに学び合い、全体のレベルを上げることができる。自分の弱点を隠すよりも、オープンにして改善策を得る方が、長い目で見れば得になる。
「——正直、最初は抵抗があった」
ある日、B工房の代表が打ち明けた。
「うちの数字が他の工房に知られるなんて、恥ずかしいと思った。でも、実際にやってみると——」
「どうでしたか?」
「みんな、同じような問題を抱えてることが分かった。そして、一人で悩むより、みんなで解決策を考えた方が、ずっと早く改善できる」
「それが、『共有』の力ですね」
「ああ。競争相手だと思ってた連中が、いつの間にか仲間になってた」
セイは、その言葉を聞きながら、静かに微笑んだ。
これこそが、品質管理の本質だ。一社だけが良くなっても意味がない。業界全体が良くなることで、顧客——この場合は、武器を使う騎士たち——が守られる。
しかし、この動きは、全ての人に歓迎されたわけではなかった。
「——ハンマーフェルの息子が、また何かやっているようだな」
王都の貴族街。豪奢な屋敷の一室で、男の声が響いた。
声の主は、ヴァルザーク公爵の側近だった。禿げ上がった頭に、鋭い目つき。いかにも策謀家といった風体の男だ。
「鍛冶工房を集めて、何やら『会議』をしているとか」
「会議——何を話しているのだ?」
公爵自身の声は、低く、威圧的だった。五十代半ばの、恰幅のいい男。だが、その目には、油断のない光が宿っている。
「『品質』について、だそうです。製品のばらつきを数字で管理し、全体のレベルを上げようとしているとか」
「品質——」
公爵は、その言葉を吟味するように繰り返した。
「つまり、今の納入業者の製品が『質が悪い』と言いたいのか」
「そういうことになりますな」
「不愉快だな」
公爵の声が、冷たくなった。
「我が家と取引のある工房は、王国最高の品質を誇っている。それを、どこの馬の骨とも知れぬ小僧が——」
「いかがいたしましょう。芽の小さいうちに、摘んでおきますか?」
側近の提案に、公爵は少し考え込んだ。
「——いや、急ぐな」
「急がないのですか?」
「まだ、相手は子どもだ。今ここで潰しても、『子どもいじめ』と笑われるだけだ。泳がせておいて、もう少し大きくなったところで——」
公爵の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
「叩き潰す。言い訳ができないほど、徹底的にな」
セイは、この時点では、自分が敵の視界に入っていることを知らなかった。
だが、直感的には、何かを感じていた。
「——何か、嫌な予感がする」
ある夜、工房で一人、記録を整理しながら、セイは呟いた。
順調すぎる。二年近くにわたって、品質改善の活動を続けてきた。標準作業、測定技術、工程能力——全てが着実に進んでいる。協力工房も増え、データも蓄積されてきた。
だが、これまで、大きな妨害がなかった。それが、逆に不自然だった。
ヴァルザーク公爵家が、この動きに気づいていないはずがない。気づいていて、放置しているとすれば——何か、理由があるはずだ。
「敵が動くとしたら——」
セイは、考えを巡らせた。
「今じゃない。もう少し後だ。僕たちが目に見える成果を出して、無視できなくなった時点で——」
その時、敵は本気で潰しにくる。
「だったら——」
セイは、決意を固めた。
「その前に、実績を作る。敵が動く前に、既成事実を作って、後戻りできない状況を作る」
十五歳。騎士団への納入。それが、次の目標だ。
そこまでたどり着ければ、状況は大きく変わる。たどり着く前に潰されれば、全てが水泡に帰す。
時間との戦いが、始まっていた。
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