第四章 折れた剣と出会い

血と土埃の匂いが、まだ鎧に染みついていた。


リーナ・フォルストームは、王都ルミナリアの南門をくぐりながら、自分がまだ生きていることに、かすかな驚きを感じていた。


三日前、彼女が率いる騎士小隊は、王都から南に二日の距離にある村で、魔物の群れと遭遇した。ゴブリンの群れだった。数は百を超える大群。通常の討伐任務の想定を遥かに超える数だった。


撤退すべきだった。だが、村人たちが逃げ遅れていた。


「騎士として、見捨てるわけにはいかない」


それがリーナの判断だった。小隊十二名で、百を超えるゴブリンを食い止める。村人が避難する時間を稼ぐ。


戦いは凄惨を極めた。ゴブリンは個々の力こそ弱いが、数で押し寄せてくる。切っても切っても、次が来る。体力が削られ、判断力が鈍り、仲間が一人、また一人と倒れていく。


そして、その瞬間が来た。


リーナが振り下ろした剣が、ゴブリンの首を断ち切った——その直後、刀身が根元から折れた。


「——!」


声も出なかった。目の前には、今まさに飛びかかろうとしているゴブリンがいた。手には、柄だけになった剣。体は疲労で鈍っている。避ける余裕はない。


死を覚悟した、その瞬間。


「隊長!」


部下の一人——まだ二十歳の若い騎士——が、リーナを庇って割り込んできた。


ゴブリンの爪が、彼の首を引き裂いた。


「マルクッ!」


叫びながら、リーナは予備の短剣でゴブリンを仕留めた。だが、マルクはもう動かなかった。首から吹き出す血が、乾いた地面を黒く染めていく。


その後の記憶は、断片的だった。援軍が来たらしい。村人は無事に避難できたらしい。小隊十二名のうち、生き残ったのは七名だった。


リーナ自身も、左腕と脇腹に深い傷を負った。野戦治療師の応急処置がなければ、失血死していただろう。


王都に戻ったリーナは、真っ先に騎士団本部に出向き、報告書を提出した。任務の顛末。被害状況。そして、戦死者五名の名前。


「ご苦労だった」


騎士団長は、リーナの報告を聞き終えると、静かにそう言った。感情のこもっていない、儀礼的な労いの言葉。戦死者の数など、この男にとっては統計上の数字に過ぎないのだろう。


「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


リーナは、感情を押し殺して言った。


「なんだ」


「私の剣が折れました。戦闘中に、刀身が根元から」


「ふむ」


「剣が折れなければ、マルクは——部下は、死なずに済んだかもしれません」


騎士団長の眉が、わずかに動いた。


「お前の言いたいことは分かる。だが、剣が折れることなど、珍しくはない。戦場では何が起きるか分からん。それも含めて、騎士の宿命だ」


「宿命、ですか」


「そうだ。武器を恨むな。己の力不足を恨め。それが騎士というものだ」


リーナは、それ以上何も言わなかった。言っても無駄だと分かっていた。この男は、現場を知らない。剣が折れる恐怖を知らない。自分の武器を信じられない絶望を知らない。


騎士団本部を後にしたリーナは、折れた剣——柄と、折れた刀身の一部——を手に、王都の街を歩いた。行く宛てはなかった。ただ、じっとしていられなかった。


「なぜ、折れた——」


その問いが、頭の中でぐるぐると回り続けていた。


自分の腕が未熟だったのか。使い方が悪かったのか。それとも——剣そのものに、問題があったのか。


答えを知りたかった。知らなければ、この先、剣を信じて戦うことができない。


「——これは、製造時の欠陥だ」


その言葉を聞いたのは、リーナが三軒目の鍛冶工房を訪れたときだった。


最初の二軒では、まともに相手にしてもらえなかった。


「剣が折れた? そりゃ、お嬢さんの使い方が悪いんだろう」


「うちで作ったもんじゃない。文句があるなら、買った店に言いな」


鍛冶師たちの態度は、判で押したように同じだった。自分たちの製品に問題があるとは、認めようとしない。


三軒目の工房——ハンマーフェル工房という看板が掛かっていた——でも、最初は同じ展開だった。


「見せてもらってもいいが、うちで作ったもんじゃないなら、何とも言えんな」


工房の親方——ガルドという名前だった——は、そう言いながら、折れた剣を受け取った。


「どれどれ——」


ガルドは、折れた断面をじっと見つめた。眉をひそめ、光に透かし、指で触れて確かめる。


「ふむ——」


「何か分かりますか?」


「いや、俺には——」


「父さん、僕に見せて」


声は、工房の奥から聞こえてきた。振り向くと、十歳くらいの少年が立っていた。黒い髪に、真っ直ぐな眼差し。子どもにしては、妙に落ち着いた雰囲気を持っている。


「セイ、客の前だぞ」


「でも、興味がある。見せてほしい」


ガルドは溜息をつきながら、剣を息子に渡した。少年は——セイは——折れた断面を、食い入るように見つめた。


「拡大鏡、ある?」


「棚の上だ」


セイは、拡大鏡を取り出し、断面に当てた。何かをぶつぶつ呟いている。リーナには、その内容は聞き取れなかった。


「お姉さん」


しばらくして、セイがリーナに向き直った。


「この剣が折れたとき、どういう状況だった? 何かにぶつけた? それとも、斬っている最中?」


「斬っている最中だ。ゴブリンの首を——」


「ゴブリンの首? 骨とか、硬いものは切った?」


「いや——肉だけだったと思う。骨は避けて斬った」


「じゃあ、普通の使い方だったんだね」


セイは頷き、再び断面を見つめた。


「この折れ方——これは、製造時の欠陥だ」


「何だと?」


ガルドが、驚いた声を上げた。


「セイ、軽々しくそんなことを言うな。他の工房の製品を——」


「でも、事実だよ。この断面を見て。ここ、分かる?」


セイは、拡大鏡越しに断面の一点を指差した。ガルドが覗き込む。


「——何か、線みたいなものが見えるが」


「それ、『介在物』だと思う。鋼の中に、不純物が残ってるんだ。たぶん、精錬のときに除去しきれなかった鉄滓か、あるいは——鍛造のときに入り込んだ異物」


「介在物?」


「鋼の中に、鋼じゃないものが混じってること。そこが弱点になって、力がかかったときに、そこから割れる」


リーナは、少年の説明を聞きながら、信じられない思いだった。この子どもは、一体何者なのだ。


「この剣を作った人は、たぶん悪気はなかったと思う。肉眼じゃ見えないから、気づけなかったんだ。でも、結果として、この剣には欠陥があった。戦場で折れたのは、お姉さんのせいじゃない。剣の問題だ」


少年の言葉が、リーナの胸に深く突き刺さった。


剣の問題。自分のせいではない。それは、救いの言葉であると同時に、新たな怒りを呼び起こす言葉でもあった。


「なぜ——」


声が震えていた。


「なぜ、そんな欠陥のある剣が、騎士団に納入されているんだ。なぜ、誰も気づかない。なぜ——」


リーナは、言葉を続けることができなかった。涙が、頬を伝い落ちていた。戦場では泣かなかった。部下を失っても、自分が傷ついても、涙は見せなかった。だが、今——この小さな工房で、十歳の少年に真実を告げられて——リーナは、ついに決壊した。


マルクの死に顔が、脳裏に蘇る。あの瞬間、剣が折れなければ。あの剣に欠陥がなければ。彼は、死なずに済んだのだ。


「お姉さん——いや、騎士様」


セイの声が、静かに響いた。


「僕は——その問題を、解決したいと思ってる」


夕暮れの工房で、セイはリーナに「品質保証」という概念を説明した。


ガルドは、この「お客さん」を追い出そうとしたが、息子の真剣な眼差しに押し切られた。リーナもまた、帰る気にはなれなかった。この少年の言葉には、不思議な説得力があった。


「品質保証というのは、簡単に言うと、『悪いものを出さない仕組み』を作ること」


セイは、床に散らばった木片を使って図を描きながら説明した。


「今の鍛冶業界は、『良いものを作る』ことだけを考えてる。職人の腕が良ければ、良い製品ができる。でも、それだと、腕が悪い職人が作ったものや、たまたま失敗したものが、そのまま顧客に届いちゃう」


「検品はしないのか? 完成品を確認して、悪いものを弾くとか」


「してるところもある。でも、完璧じゃない。さっきの剣みたいに、肉眼じゃ見えない欠陥もあるから」


リーナは頷いた。確かに、あの剣は見た目には何も問題がなかった。刃は鋭く、重さのバランスも良く、装飾も美しかった。それなのに——折れた。


「だから、僕が考えてるのは、二つのことだ」


セイは、指を二本立てた。


「一つは、『不良を作らない工程』を設計すること。さっき話した介在物みたいな欠陥が入り込まないように、製造の各段階で管理する。温度とか、時間とか、材料の状態とか——全部を数値で管理して、最適な条件を維持する」


「それは——できるのか?」


「今すぐは難しい。この世界には、まだそういう技術がないから。でも、少しずつ整えていける」


「もう一つは?」


「もう一つは、『万が一不良が出ても、流出させない仕組み』を作ること。完成品を全部チェックして、基準を満たさないものは絶対に出荷しない。そのために、明確な基準と、それを確認する方法が必要だ」


リーナは、少年の言葉を噛み締めていた。


「つまり、『良いものを作る』だけでなく、『悪いものを出さない』という発想——」


「そう。両方が必要なんだ。どっちか片方だけじゃ、完璧にはならない」


「それを、お前は——この工房で、実践しようとしているのか?」


「この工房だけじゃ足りない。王都全体の鍛冶業界を変えないと、意味がない。騎士団に納入される武器の全てが、品質を保証されたものになるまで」


セイの目には、静かな決意が宿っていた。子どもの目ではない。何かを成し遂げようとする者の目だ。


「だから、騎士様——リーナさん。力を貸してほしい」


「力を? 私に?」


「うん。僕は、まだ子どもだ。いくら正しいことを言っても、誰も聞いてくれない。でも、騎士様なら——現場で武器の問題を知っている人なら——声に重みがある」


リーナは、黙って少年を見つめていた。


この少年は、本気だ。十歳の子どもが、王国の産業構造を変えようとしている。荒唐無稽だ。不可能だ。そう思うのが普通だろう。


だが——


「私は——」


リーナは、折れた剣を見下ろした。柄だけになった、かつての相棒。この剣と共に、何度戦場を駆けたか分からない。この剣を信じて、命を預けてきた。


そして、この剣が折れたとき——マルクは死んだ。


「私は、もう二度と、部下を失いたくない」


声は震えていた。だが、目は真っ直ぐだった。


「武器を信じられないまま、戦場に出たくない。自分の命も、部下の命も、こんな欠陥のある武器に預けたくない」


「なら——」


「協力する」


リーナは、はっきりと言った。


「お前の言う『品質保証』とやらが、本当に武器の信頼性を上げられるなら——私は、できる限りのことをする」


セイの顔に、静かな笑みが浮かんだ。子どもらしい無邪気さではない。同志を得た者の、深い喜びを湛えた笑みだった。


「ありがとう、リーナさん。一緒に、この国の『ものづくり』を変えよう」


その夜、ルミナリア王国における「品質革命」の最初の同盟が、古びた鍛冶工房の中で結ばれた。

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