第三章 最初の改善——ポカヨケの導入

その事故は、セイが十歳の夏に起きた。


ガルドの工房には、住み込みの見習いが二人いた。一人は十七歳のトーマ、もう一人は十五歳のラルフ。どちらも農村から出てきた若者で、鍛冶師になることを夢見て修行に励んでいた。


その日、トーマは短刀の仕上げ作業をしていた。刃と柄を組み付ける工程だ。通常であれば、刃を柄に差し込み、目釘を打って固定する。単純な作業に見えるが、刃の向きを間違えると大変なことになる。


そして、その日、トーマは間違えた。


「痛っ——!」


悲鳴が工房に響いた。セイが駆けつけたとき、トーマは左手を押さえて蹲っていた。床には血が滴り落ちている。


「どうした? 見せろ!」


ガルドが飛んできて、トーマの手を確認した。左手の人差し指から中指にかけて、深い切り傷が走っていた。刃の向きを逆に組み付けようとして、自分の手を切ってしまったのだ。


「バカ野郎! 何度言ったら分かるんだ、刃の向きには気をつけろと!」


「す、すみません、親方——」


「謝って済む問題か! 指がなくなってたらどうする!」


ガルドの怒声が工房に響き渡った。トーマは青ざめた顔で俯いている。傷は深かったが、幸い指を失うほどではなかった。それでも、数週間は作業ができないだろう。


騒ぎが収まった後、セイはガルドに尋ねた。


「父さん、こういう事故って、前にもあった?」


「ああ、何度かな。俺自身、若い頃に同じようなことをやった。見習いの頃は誰でも一度や二度は怪我をする。それで覚えていくもんだ」


「でも、怪我をしなくても覚えられる方法があったら、そっちのほうがいいよね?」


「そりゃそうだが——そんな方法、あるのか?」


「あると思う」


セイは、頭の中で設計図を描き始めていた。


翌日、セイはガルドに一つの提案をした。


「父さん、これを見て」


セイは、紙に描いた図面を見せた。この世界では紙は貴重品だが、ガルドの工房には顧客への納品書などを書くための紙が少量ストックされていた。


「何だ、これは?」


「刃を柄に組み付けるときに使う、治具だよ」


「ジグ?」


「道具の一種。これを使えば、刃を逆向きに入れようとしても、物理的に入らなくなる」


図面には、木製の台座が描かれていた。台座の上面には、刃を置くための溝が彫られている。その溝は、刃の形状に合わせて左右非対称になっていた。正しい向きでなければ、刃が溝にはまらない構造だ。


「ここに刃を置いて、この向きでしか柄が入らないようになってる。つまり、間違えようがないんだ」


ガルドは、図面を何度も見返した。


「なるほど——確かに、これなら向きを間違えることはないな」


「うん。人間は間違える生き物だから、『間違えるな』と言っても無駄なんだ。だから、『間違えようのない仕組み』を作るほうがいい」


それは、前世で何度も聞いた言葉だった。ポカヨケ——うっかりミス(ポカ)を避ける(ヨケる)仕組み。人間の注意力に頼るのではなく、物理的な制約によってエラーを防止する。製造業における基本中の基本だ。


「しかしな、こういうものを一つ一つ作るのは手間だぞ。時間も木材も余分にかかる」


「でも、見習いが怪我をして何週間も働けなくなるより、ずっといいでしょ? それに、この治具を使えば、熟練の職人でなくても正確に組み付けられるようになる。作業のスピードも上がる」


ガルドは腕を組んで考え込んだ。息子の言うことには一理ある。だが、長年の慣行を変えることへの抵抗感もあった。


「まあ——試しに作ってみるか。効果がなければ、やめればいい」


「ありがとう、父さん!」


セイは、満面の笑みで答えた。


治具の製作には、三日を要した。


木工は鍛冶師の専門外だが、ガルドには基本的な木工技術もあった。セイの図面を元に、オーク材を削り出し、刃を受ける溝を彫り込んでいく。


完成した治具は、素朴だが実用的なものだった。見た目は単純な木の台座。だが、その単純さの中に、「間違いを許さない」という機能が組み込まれている。


「よし、試してみるか」


ガルドが、新しく鍛造した短刀の刃を手に取った。まず、わざと逆向きに溝に入れようとする。刃が溝の形状に合わず、途中で引っかかって入らない。次に、正しい向きで入れる。刃がぴったりと溝にはまり、自然に正しい位置に収まった。


「おお——確かに、これは間違えようがないな」


ガルドの声には、驚きと感心が混じっていた。


「トーマ、ラルフ、お前たちも試してみろ」


見習い二人が、順番に治具を使ってみた。トーマは、まだ左手に包帯を巻いたままだ。


「これ、すごいですね——何も考えなくても、正しい向きに入る」


「逆に入れようとしても、入らないんですね」


二人とも、その効果に感嘆していた。


「セイ、お前がこれを考えたのか?」


トーマが尋ねた。セイは頷いた。


「僕が怪我させたわけじゃないけど、何かできることはないかと思って」


「ありがとう——これがあれば、俺みたいな間抜けでも怪我しなくて済む」


トーマの言葉には、心からの感謝が込められていた。


この小さな成功は、工房内に波紋を広げた。


「他の工程でも、同じような仕組みが作れないか?」


ガルドが、そう言い出したのは、治具を導入してから一週間後のことだった。


「例えば、焼き入れの温度判断とか、叩く回数の管理とか——今は俺の勘に頼ってるが、それだと俺がいないときに困る」


「それは——」


セイは考え込んだ。温度や回数を「間違えようのない仕組み」で管理するのは、単純な治具より遥かに難しい。前世であれば、温度計や自動制御システムを使うところだが、この世界にはそうした技術がない。


「温度は、まだ難しいかも。でも、回数の管理なら、方法があると思う」


「どうやる?」


「数える道具を作るんだ」


セイは、再び紙に図を描き始めた。


描いたのは、単純なカウンターの仕組みだった。木製の板に、溝を刻んだ棒が並んでいる。一回叩くごとに、棒を一つ動かす。規定の回数に達したら、全ての棒が端に移動し、視覚的に「完了」が分かる。


「アバカスみたいなものか」


ガルドが呟いた。アバカスとは、この世界で使われている計算道具だった。珠を動かして数を数える、前世の算盤に似たものだ。


「似てるけど、違う。これは『数える』ためじゃなくて、『管理する』ための道具。決められた回数に達したかどうかを、一目で確認できるようにするんだ」


「なるほど——数えることに集中しなくてもいいわけか」


「そう。人間は、複数のことを同時にやろうとすると、どちらかがおろそかになる。だから、一つのことに集中できる仕組みを作る」


ガルドは、息子の図面をじっと見つめていた。その目には、複雑な感情が浮かんでいた。驚き、感心、そして——少しばかりの不安。


「セイ——お前、本当に俺の息子か?」


「え?」


「いや——まるで、何十年も工房で働いてきた熟練職人みたいなことを言うからな。十歳の子どもの発想じゃない」


セイは、一瞬どきりとした。さすがに、ここまで踏み込んだ発言をすると、怪しまれる。自分の正体を隠し通すためには、もう少し抑制的に振る舞うべきかもしれない。


だが、ガルドの目には、疑惑よりも困惑のほうが強く浮かんでいた。彼は、息子が異世界からの転生者であるなどとは、夢にも思っていないだろう。ただ、息子が異常に頭が良いと感じているだけだ。


「昔の偉い学者の本を読んだんだ」


セイは、いつもの言い訳を使った。


「そういう考え方が、書いてあった」


「ふん——お前が本好きなのは知ってるが、どこでそんな本を見つけてくるんだ」


「王都の古書店に、たまに掘り出し物があるんだよ」


嘘ではない。実際、セイは暇を見つけては古書店を巡り、この世界の知識を吸収していた。もちろん、「品質管理」に関する本など見つかるはずもないが、数学や論理学に関する古い文献は存在した。それらを読んで「着想を得た」ということにしている。


「まあいい。お前の考えが正しいかどうかは、結果で分かる。この『数え道具』とやらも、作ってみるか」


「ありがとう、父さん」


セイは、内心でほっとしていた。ガルドは、理屈よりも実践を重んじる人間だ。口先だけの理論よりも、実際に効果を示すことで、彼を説得できる。


数週間後、ガルドの工房には、いくつかの「改善」が導入されていた。


刃の組み付け用治具。叩き回数の管理カウンター。工具の定位置管理図。そして、作業手順を簡潔に記した「手順書」。


どれも、見た目は地味なものばかりだった。魔法のような派手さはない。だが、その効果は確実に現れていた。


「最近、手直しが減ったな」


ガルドが、ある日の夕食時に呟いた。


「前は、十本作れば一本か二本は何か問題があった。今は、ほとんどない」


「本当? 数えてみた?」


「ああ、お前に言われて記録をつけるようにしたからな。先月は、三十二本作って、手直しが必要だったのは一本だけだ」


「すごい! 歩留まりが九十七パーセントだ」


「ブドマリ?」


「良品の割合のこと。百本作って、九十七本が良品なら、歩留まりは九十七パーセント」


「ふむ——そういう言い方もあるのか」


ガルドは、息子の言葉を反芻していた。数値で成果を表現するという発想自体が、この世界では新鮮なものだった。


「それでな、セイ」


ガルドが、少し改まった口調で言った。


「近所の鍛冶屋が、うちのやり方を知りたいと言ってきた」


「え?」


「どうやら、うちの製品の品質が上がったことが、噂になってるらしい。何か秘密があるんじゃないかと思われてる」


「秘密——まあ、秘密といえば秘密だけど」


「俺は別に隠すつもりはない。お前はどう思う? 他の工房にも教えてやるべきか?」


セイは、少し考えてから答えた。


「教えるべきだと思う。品質が上がれば、王都全体の鍛冶業界が良くなる。そうすれば、お客さんも喜ぶし、職人の評判も上がる」


「だが、うちだけの強みがなくなるぞ」


「なくならないよ。教えることで、僕たちも学べる。他の工房がどうやって工夫してるか、聞けるかもしれない。それに、品質管理の考え方は、まだまだ発展途上だ。今の方法が完成形じゃない。一緒に考える仲間が増えれば、もっと良い方法が見つかるかも」


ガルドは、息子の言葉を聞きながら、何度も頷いていた。


「お前は——本当に十歳か」


「また、その質問?」


「いや、何度聞いても信じられんのだ。まあいい。お前の言う通りにしてみよう」


こうして、ガルドの工房は、王都の鍛冶業界において、ちょっとした注目を集める存在になり始めた。


「ハンマーフェル工房は、何か変わった方法を使っているらしい」


「品質が安定しているそうだ」


「あそこの親方の息子が、頭が良いらしい」


噂は静かに、しかし確実に広がっていった。


その噂を耳にした人々の中に、後にセイの運命を大きく変えることになる、一人の女性騎士がいた。

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