第二章 鍛冶師の息子として

最初に感じたのは、温もりだった。


何かに包まれている。柔らかく、温かく、安心できる何かに。長い間忘れていた感覚。遠い記憶の底に沈んでいた、母の腕の中にいるような——


「おお、泣いたぞ! 元気な男の子だ!」


声が聞こえた。太い、張りのある男の声。何語だろう。日本語ではない。だが、不思議と意味は理解できた。


「名前は——セイ、だ。この子の名前は、セイにしよう」


セイ? 誠一、の「セイ」だろうか。偶然の一致にしては、出来すぎている。


視界がぼやけている。新生児の目は、まだ焦点を結ぶことができないのだろう。ぼんやりと、大きな顔が近づいてくるのが見えた。髭面の男。逞しい腕。額には汗が光っている。


「元気に育てよ、セイ」


男が笑った。目尻に深い皺が刻まれている。労働者の顔だ。何かを作る人間の顔。


これが、父親というものか。


誠一——いや、今はセイというべきか——は、新生児の体で、その顔を見上げていた。


異世界に転生した。


その事実を受け入れるのに、セイは数か月を要した。


最初は夢だと思った。過労で倒れた瞬間の、混濁した意識が見せている幻覚だと。だが、日々が過ぎ、感覚が研ぎ澄まされていくにつれて、これが夢ではないことを認めざるを得なくなった。


空気が違う。光が違う。空の色が違う。そして何より、自分の体が違う。


セイは、ルミナリア王国という国の王都で、鍛冶師の息子として生まれ変わっていた。


父の名はガルド・ハンマーフェル。王都でも中堅の鍛冶師として知られる男だった。母は出産時の肥立ちが悪く、セイが一歳になる前に亡くなった。セイには母の記憶がほとんどない。ただ、優しい手が頬を撫でてくれた感触だけが、朧気に残っている。


ガルドは、妻を失った後も気丈に振る舞い、工房と息子の世話を一人でこなした。近所の女性が時折手伝いに来てくれたが、ガルドは基本的に全てを自分でやろうとした。


「お前の母さんは、強い女だった」


ガルドは時折、そう呟いた。


「俺が弱音を吐いたら、あいつに笑われる」


不器用な愛情表現だと、セイは思った。だが、その不器用さの中に、深い誠実さがあることも理解していた。この男は、自分の息子を、精一杯の形で愛そうとしている。


前世の誠一には、こうした経験がなかった。両親は早くに離婚し、父親とはほとんど会ったことがない。母親も、誠一が高校生の時に病気で亡くなった。以来、ずっと一人で生きてきた。


だから、ガルドという父親の存在は、セイにとって新鮮でもあり、戸惑いの種でもあった。どう接すればいいのか分からない。前世の記憶を持ったまま赤ん坊として生まれ変わるというのは、想像以上に複雑な心理状態を生み出すものだった。


セイは、この世界の言葉を覚えながら、同時にこの世界のことを学んでいった。


ルミナリア王国は、大陸の中央部に位置する中規模の王国だった。北には山岳地帯が連なり、そこにはドワーフと呼ばれる種族が住んでいる。東には広大な森があり、エルフの領域とされている。南は草原地帯で、遊牧民が暮らしている。西には海が広がり、港町が点在している。


そして、大陸の各所には「魔境」と呼ばれる危険地帯が存在し、そこからは定期的に魔物が溢れ出てくる。王国は騎士団を組織し、魔物の脅威から民を守っている——少なくとも、建前上は。


セイが最も興味を引かれたのは、この世界の技術水準だった。


鍛冶、木工、石工、織物——基本的な手工業は存在している。だが、その全てが「職人の勘と経験」に依存していた。標準化という概念がない。図面という概念がない。寸法を数値で管理するという発想がない。


ガルドの工房を観察しながら、セイは何度も驚かされた。


剣を鍛造するとき、ガルドは炉の温度を「色」で判断する。オレンジ色になったら取り出し時、黄色になったら加熱しすぎ。その判断は正確だったが、言語化されていない。弟子に教えるときも、「見て覚えろ」が基本だった。


「父さん、炉の温度って、どうやって測るの?」


五歳になったセイが尋ねたとき、ガルドは怪訝な顔をした。


「測る? 測るってのは、どういう意味だ?」


「数字で表すこと。この温度なら、何度、みたいに」


「ど、ど? 何だそれは」


ガルドは首を傾げた。温度を数値で表現するという概念自体が、この世界には存在しないようだった。


それは温度だけではなかった。長さも、重さも、時間も、全てが曖昧な単位で管理されている。「掌幅」「肘までの長さ」「水時計で砂が落ちる間」——そうした感覚的な基準が、この世界の「標準」だった。


これでは、品質が安定するはずがない。


セイは、前世の品質保証部員としての目で、ガルドの工房を観察した。工程のばらつき、作業者による品質差、検査基準の不在——問題点は山積みだった。だが同時に、それは改善の余地が無限にあることも意味していた。


「ここには、まだ何もない」


セイは、夜、寝床の中で天井を見上げながら呟いた。


「だから、何でもできる」


それは、前世では決して得られなかった感覚だった。複雑に絡み合ったサプライチェーン、動かせない業界慣行、無数の利害関係者——そうした制約から解放されて、白紙の状態から品質システムを構築できるかもしれない。


もちろん、簡単ではないことは分かっている。この世界には、この世界なりの慣行があり、利害関係があり、抵抗勢力がある。だが、少なくとも可能性はある。


転生前、意識を失う直前に聞いた声を、セイは思い出した。


『お前に、機会を与えよう。白紙の世界を』


あれは、夢ではなかったのだ。誰かが——神か、それに類する存在が——自分にチャンスを与えてくれた。品質を、根本から変える機会を。


ならば、その機会を無駄にするわけにはいかない。


セイの幼少期は、観察と学習の日々だった。


ガルドの工房で行われる作業を、一つ一つ目に焼き付けた。鉄鉱石から鋼を作る精錬、鍛造、焼き入れ、焼き戻し、研磨——それぞれの工程には、職人たちの長年の経験が凝縮されている。その経験を、言語化し、数値化し、再現可能な形に落とし込むことが、セイの目標だった。


同時に、この世界の社会構造も学んでいった。


ルミナリア王国は、国王を頂点とする封建制国家だった。国王の下に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という貴族階級があり、彼らが領地を治めている。都市部には商人ギルドや職人ギルドが存在し、一定の自治権を持っている。


鍛冶師もまた、鍛冶ギルドに所属している。ギルドは、職人の技術水準を保証し、価格を調整し、新規参入を規制する役割を果たしている。言い換えれば、品質と供給を独占的に管理する利権団体でもある。


「ギルドに入らなきゃ、鍛冶師として商売はできないんだ」


ガルドは、そう説明した。


「ギルドの親方会議が価格を決め、誰に何を売っていいかを決める。逆らえば、ギルドから追放される。追放されたら、王都じゃ鉄を仕入れることすらできなくなる」


「それって、おかしくない? 良いものを作っても、価格に反映されないってこと?」


「おかしいかどうかは知らんが、昔からそうなってる。文句を言っても始まらん」


ガルドの口調には、諦めの色が滲んでいた。現状を変えられるとは思っていない。変えようともしていない。それが、この世界の職人たちの一般的な姿勢のようだった。


だが、セイは納得できなかった。


品質に差があるのに、価格が同じ。良いものを作る動機が生まれない。それどころか、コストを下げるために品質を落とす動機が生まれる。顧客は品質を判断する基準を持たないから、騙されていることにすら気づかない。


これは、最悪の構造だ。


前世で誠一が戦ってきた「品質問題」の根源と、驚くほど似ている。目先の利益のために品質を犠牲にし、そのツケが最終顧客——この場合は、武器を使う騎士や兵士——に回される構造。


「変えなきゃいけない」


セイは、心の中で決意を固めた。


「この構造を、根本から変えなきゃいけない」


だが、それは子どもの身でできることではなかった。まずは成長し、知識を蓄え、仲間を見つけなければならない。焦っても仕方がない。品質改善は、一朝一夕には成し遂げられない。長期的な視点で、着実に、一歩ずつ進んでいくしかないのだ。


八歳になった頃、セイはガルドに頼んで、工房の仕事を手伝わせてもらうようになった。


最初は掃除や片付けだった。炉の灰を掻き出し、床に散らばった鉄片を集め、工具を定位置に戻す。単純な作業だったが、セイはそこに前世の知識を適用した。


「父さん、工具の置き場所を決めたらどうかな」


「決めてるだろ。あそこの棚に——」


「いや、もっと細かく。このハンマーはここ、このヤスリはここ、って決めて、使ったら必ず同じ場所に戻すの」


「面倒くさいな」


「でも、そうしたら、探す時間がなくなるよ。今、父さん、ハンマーを探すのに毎回何秒かかってる?」


「何秒って——そんなの、数えたことないが」


「僕、数えてみた。平均で十二秒。一日に何回もハンマーを使うから、合計すると結構な時間になるよ」


ガルドは、息子の言葉に面食らったような顔をした。


「お前、そんなことを数えてたのか?」


「数えないと、分からないから」


それは、前世で嫌というほど叩き込まれた基本だった。「測定なくして管理なし」。現状を数値で把握しなければ、改善の効果も数値で示せない。感覚や印象ではなく、データで語る。それが、品質管理の第一歩だ。


半信半疑のガルドだったが、息子の提案を試してみることにした。工具の定位置を決め、それを壁に貼った図で示した。最初は職人たちも戸惑ったが、一週間もすると、その便利さに気づき始めた。


「確かに、探す手間がなくなったな」


「あの図を見れば、誰でも道具の場所が分かる」


「セイの坊主、頭がいいな」


小さな成功だった。だが、セイにとっては大きな一歩だった。改善は、小さな一歩の積み重ねだ。一つ一つは些細なことでも、それが積み重なれば、大きな変化になる。


そして何より、職人たちが「改善」の効果を実感してくれたことが重要だった。変化を恐れる人間に、無理やり変化を押し付けても反発されるだけだ。小さな成功体験を積み重ね、「変えることで良くなる」という実感を持ってもらう。それが、組織を変えるための王道だ。


十歳になったセイは、本格的にガルドの弟子として働き始めた。


朝は日の出前に起き、炉に火を入れる。火加減を見ながら、鉄を熱する。赤く燃えた鉄を取り出し、ハンマーで叩いて形を整える。水か油に浸けて焼き入れをし、再び低温で熱して焼き戻しをする。その後、研磨と仕上げ。


一本の剣を作るのに、何日もかかる。地道で、体力を使う仕事だった。前世のデスクワークとは対極にある肉体労働。だが、セイは不思議と嫌ではなかった。


自分の手で何かを作り出す喜び。形のないものが、形あるものに変わっていく充実感。それは、前世では味わったことのない感覚だった。品質保証の仕事は、誰かが作ったものを評価し、問題点を指摘する仕事だ。自分で作る側に回ることは、ほとんどなかった。


「父さん」


ある夜、セイは夕食の席でガルドに尋ねた。


「剣を作るとき、どうやって品質を確認してる?」


「品質?」


「良い剣かどうか、ってこと。どうやって判断してる?」


ガルドは顎の髭を撫でながら考え込んだ。


「そうだな——まず、見た目だ。刃に傷やムラがないか。形が整っているか。次に、重さのバランス。手に持ったときの感触。それから、試し斬りをして、切れ味と耐久性を確かめる」


「試し斬りって、何を斬るの?」


「藁の束とか、古い革鎧とか。本当に丈夫かどうかは、何度も斬ってみないと分からん」


「でも、それだと、一本一本試し斬りしなきゃいけないよね? 百本作ったら、百回試し斬りする?」


「そりゃ、全部はできないさ。代表して何本か試すだけだ」


「じゃあ、試さなかった剣が、たまたま悪い出来だったらどうするの?」


ガルドは言葉に詰まった。


「そりゃ——まあ——そういうこともあるかもしれんが——」


「実際、戦場で剣が折れることがあるでしょ? それは、検査で見落とされた不良品だったってことじゃないの?」


「お前、難しいことを言うな」


ガルドの声には、苛立ちが混じっていた。息子の指摘が、痛いところを突いていたからだ。


「俺だって、全ての剣を完璧にしたいと思ってる。だが、時間も金も限りがある。できることには限界がある」


「分かってる。でも——」


セイは言葉を選んだ。


「限界を押し広げる方法はあると思う。例えば、『どういう作り方をしたら、どういう品質になるか』を記録して、分析して、良いパターンを見つけ出すとか」


「記録? 分析?」


「うん。『この温度で、この時間、焼き入れしたら、こういう硬さになった』みたいなことを、全部メモしておくの。そしたら、後で見返して、最良の条件が分かるでしょ?」


ガルドは、息子の顔をまじまじと見つめた。


「お前——本当に十歳か?」


セイは苦笑した。実年齢は十歳だが、精神年齢は三十九歳と十歳を足した四十九歳だ。もちろん、そんなことは言えない。


「本で読んだんだ。昔の偉い学者が、そういうことを言ってたって」


嘘ではない。厳密に言えば嘘だが、この世界でそれを確かめる手段はない。ガルドは半信半疑の顔をしていたが、それ以上追及はしなかった。


「まあ、試してみるのは悪くないか。記録を取るだけなら、金もかからんし」


父の了承を得て、セイは密かにガッツポーズをした。


これが、異世界における「品質管理」の、最初の小さな一歩だった。

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