第四章:竹林の深淵と継承の儀式(2)

『だから、あなたには最もふさわしい終わりを用意したわ。沈黙という名の加担を続けてきた、共犯者のあなたに。


 ……沈黙は、共鳴を生む。代償は美咲の沈黙。そして、継承。』




 その一文を目にした瞬間、美咲の手の中のメモ帳が、生き物のように熱を帯びた。周囲の竹林が一斉に「ギィィイ……」と、巨大な獣の骨が軋むような声を上げる。祠の奥から、冷たい、しかし甘い香りを孕んだ霧が溢れ出し、美咲の膝から下を、蛇が這うようにして締め付け始めた。




「あつっ……!」




 掌を焼くような異様な熱量に耐えかね、美咲は咄嗟にメモ帳を地面に放り出した。同時に、背後の竹林が、まるで誰かの笑い声のような激しい鳴動を上げる。その音の暴力に弾かれたように、美咲は顔を上げた。


 肺が凍りついたかのように、呼吸が浅く、鋭く乱れる。逃げ場のない霧の向こう側の闇が凝固していくような気配のただ中へと、美咲は必死に目を凝らした。




「――気に入ったかしら。あなたのための、最後の審判」




 祠の背後、闇そのものが声を持ったかのような響きが、美咲の鼓膜に直接注ぎ込まれた。沙羅の声だった。


 だが、そこに肉体はない。声は竹の節々から、足元の泥から、そして美咲の脊髄の芯から同時に湧き上がってくる。




「沙羅、どこなの……! 出てきてよ!」




 美咲は、声のした祠の奥を必死に凝視した。闇が凝固したようなその場所に、沙羅が潜んでいると信じて疑わなかった。だが――。




「――どこ、なんて。私はずっと、あなたのすぐ後ろにいたわよ」




 氷のような囁きが、美咲のうなじを直接撫でた。




 ありえない。声は、間違いなく前方にある祠の方から聞こえていたはずだ。その矛盾に心臓が跳ね上がり、美咲の全身から血の気が引いていく。


 叫ぼうとして開いた口からは、空気の抜けるような掠れた音しか出ない。肺が極限まで収縮し、酸素を拒絶している。金縛りに遭ったかのように、指先はおろか、視線を逸らすことさえ叶わなかった。首を回すことさえ許されない、絶対的な捕食者の気配が、美咲の背中から心臓を直接握りつぶそうとしている。




「……ねえ、美咲。あなたは、自分が無傷でいられると思っていたでしょう? 何も選ばず、何も叫ばず、ただ安全な透明の殻に閉じこもって」




 祠の台座から溢れ出した漆黒の影が、美咲の震える影をゆっくりと、慈しむように飲み込んでいく。




「でもね、あなたのその沈黙こそが、最も冷酷な加担だった。あなたが声を上げなかったから、彼女たちは安心して私をいたぶることができた。あなたが黙って見ていたから、私はこの世から消えることができた。


 ……あなたは、私を壊した共犯者であり、この怪異を完成させるための、最後の一片なのよ」




 美咲は必死に首を振ろうとした。だが、氷のような沙羅の気配がそれを許さない。否定の言葉を叫ぼうとしても、喉の奥が石灰で固められたように固着し、ただひゅーひゅーと虚しい風鳴りだけが漏れる。


 認めろ、と。背後の闇が重圧となって美咲の精神を押し潰し、彼女の沈黙という罪を暴き立てていく。




 その時、背後にいたはずの冷気が、美咲の視界を侵食するように回り込んできた。沙羅の細く、血の気のない指先が、美咲の頬を愛おしげに、それでいて逃げ場を塞ぐようにそっとなぞる。その指が触れた場所から、凍えるような悪意が、毒液のように美咲の体内へと流れ込んできた。




「だから、あなたには全てを与えるわ。ユウカたちのように失うのではなく、この境界線の向こう側の、終わりなき重圧を。


 ……さあ、その手を、汚して」




 沙羅の囁きに呼応するように、足元の闇が激しく蠢いた。美咲が先ほど放り出したメモ帳が、見えない力に煽られるようにして、泥濘の中でバタバタと狂ったようにページをめくり始める。




「……っ!!」




 突如、背後の冷気が美咲の腕にまとわりつき、凍りついていたはずの彼女の両腕を無理やり前方へと突き出した。自分のものではない力が、麻痺した指先を泥の中へと沈ませる。  凄まじい突風が竹林を駆け抜け、抵抗すらできない美咲の体を地面へと押し付けた。逃げることは許されない。




 美咲は、自分の意志とは無関係に動く両手で、狂ったようにのたうつメモ帳を泥ごと強く押さえつけさせられた。その際、指先に残っていたわずかな力が奪われ、光源として握り続けていたスマートフォンが、鈍い音を立てて泥の上に転がった。掌から伝わるのは、熱を帯びた紙の脈動と、逃れられない絶望の感触だけだった。




 その直後、地面に突いた膝のすぐ横で、泥に塗れたスマートフォンが、これまでで最も激しい、断末魔のような振動を上げた。


 両手を泥に沈め、屈み込むような姿勢を強いられていた美咲の顔を、泥の隙間から溢れ出した液晶の光が真下から焼き、強制的にその瞳を奪う。すぐ間近で発せられるその眩い光に、美咲は目を逸らすことさえできず、ただ画面の中で踊る鮮烈な赤色に意識を呑まれていった。




 視界が真っ赤に染まり、意識の輪郭が泥のように溶けていく。その脳髄の裏側に、逃れようのない、冷徹な沙羅の声が直接刻み込まれた。




「《六》 境界は閉じ、円環は成る。傍観者の瞳を潰し、真実の玉座を授けよう。今日からあなたが、この霧の主だ」




 宣告。それが響いた瞬間、美咲の喉の奥を、無数の鋭利な何かが突き破るような激痛が走った。肺の中まで冷たい竹の葉で満たされていくような、悍ましい充足感。


 美咲は悲鳴を上げようとした。喉を震わせ、張り裂けんばかりの声を絞り出す。だが、自分の喉からせり上がってきたのは、血の通った人間の響きではなかった。




「シャリ……、シャリシャリ……」




 口から漏れたのは、乾いた竹の葉が擦れ合うような、不機嫌で硬質な音だけだった。自分の声が、内側から侵食してきた竹林のざわめきに取って代わられたことを悟り、美咲の瞳が絶望に染まる。


 喉を震わせたその乾いた響きを追うようにして、変異の波が全身へと一気に伝播した。




 全身の血管を、氷のように冷たい竹の根が駆け巡る感覚が走る。内側から根を張られ、肉を裂かれるような劇痛に美咲の意識は白濁した。視界から急速に色彩が失われ、世界は煤けた灰色へと塗り潰されていった。




 自責、好奇心、そして心の奥底に隠し持っていた、破滅を望む傲慢な優越感。それらすべてが、祠から溢れ出した闇に溶け込み、美咲という個人の輪郭を無残に食い破っていく。  彼女の指先は、もはや人の温もりを失い、竹のように硬質で、冷徹な意思へと変貌していた。


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