第四章:竹林の深淵と継承の儀式(1)
午前二時。美咲は闇に溶け込んでいた体を、ゆっくりと、しかし確実な意志を持って起こした。
アパートの影に潜んでいた数時間は、彼女の体温を奪い、指先の感覚を麻痺させていた。だが、その冷え切った身体の奥底で、ドロドロとした黒い期待が、脈打つ心臓の音と共に熱を帯び始めている。
三人を襲った不可解な連鎖を、ただ沈黙して見過ごしてきたことへの自責の念。禁忌に触れる真相をこの目で見届けてしまいたいという醜い好奇心。そして、かつてあれほど絶対的だった三人の支配が、今や跡形もなく瓦解し、底知れぬ深淵へと墜ちていくことへの、名状しがたい戦慄。それらの感情が美咲の思考を塗り潰し、彼女を安全な自室から、逃げ場のない深夜の闇の中へと駆り立てた。
街灯の光は、まるで寿命が尽きた生物のように頼りなく、数メートル先の闇を照らすことさえ拒んでいる。学校の裏門へと続く道は、昼間の明るさとは全く別の相貌を見せていた。アスファルトの上を這う霧は、美咲の足首にまとわりつき、一歩進むごとに現世への未練を断ち切るように、その重みを増していく。
学校の裏門を越え、その境界線を一歩跨いだ瞬間、美咲の五感は暴力的なほどの変化を捉えた。
整備されていたはずの砂利道は、いつの間にか粘土質のぬかるんだ土へと姿を変えている。美咲の靴が土を踏みしめるたび、泥は「じゅわり」と湿った音を立て、獲物を底なしの淵へ引きずり込もうとする欲望を剥き出しにした。一歩、また一歩と進むごとに、泥は靴の隙間に侵入し、美咲の皮膚を冷たく犯していく。
周囲を支配するのは、竹の硬質な青臭さと、腐葉土が何十年もかけて熟成させた、鼻を突くような甘酸っぱい死の匂いだ。その匂いが肺の最深部まで送り込まれるたび、美咲の意識は、論理的な思考を放棄し、本能的な恐怖へと塗り替えられていく。
竹林の葉がざわめくシャリシャリという音は、もはや風が吹く物理現象ではなかった。
それは、ユウカが剥がれたネイルの奥に見た地獄の叫びであり、リナが泥に塗れた自室で吐き出した絶望の呼吸であり、サキが没落していく一族の瓦礫の中で飲み込んだ沈黙だった。三人の少女が味わった、あの一切の救いのない断末魔が、竹の幹に反響し、数千、数万の囁きとなって美咲の鼓膜を内側から狂ったように引っ掻いた。
美咲が踏み出すたびに、足元の枯れ枝がパキッと不気味なほど鮮明に、乾いた音を立てて折れる。その音は闇の中で増幅され、美咲自身の精神という名の器に、決定的な亀裂を刻んでいく。
竹林の奥へと進むほど、闇は濃さを増していった。美咲は、唯一の光源であるスマートフォンのライトを、すがるように強く握りしめていた。手のひらには不快な汗がにじみ、震えで端末を落としそうになるのを必死に堪えながら、祠の前に辿り着いたのだ。
竹の壁は、道の両側から意志を持って迫りくる、無限に続く檻のようだった。美咲は、一歩進むごとに、自分を繋ぎ止めていた現世のルールが、一枚ずつ皮膚と共に剥がれ落ちていくのを感じた。羞恥心、道徳、倫理。それらは竹の鋭い葉に引き裂かれ、泥濘の中へと沈んでいく。もはや、戻るべき日常は霧の向こうに消え去った。
どれほど歩いただろうか。時間の概念はすでに
唯一の光源であるスマートフォンのライトを、美咲はすがるように強く握りしめていた。手のひらには不快な汗がにじみ、震えで端末を落としそうになるのを必死に堪えながら、一歩、また一歩と闇を切り裂いていく。
美咲の瞳には、夜の重みと、その奥に潜む蛇の祠の冷徹な殺意だけが、確かな現実として映り始めていた。
唐突に、視界が開けた。竹林が円状に口を開けたその中心に鎮座するのは、黒く苔むした石の祠――蛇の祠だ。その石肌は月の光さえ吸い込み、周囲の闇よりもなお深い、絶対的な拒絶の色を湛えていた。
美咲が息を呑む間もなく、その祠の扉が、古い墓を暴くような重苦しい音を立てて開いた。
扉の向こう側から這い出してきた濃密な闇が、足元の石段をゆっくりと照らし出していく。美咲の視線は、その剥き出しになった祠の石段の上で止まった。そこには、一足の女子高生用ローファーが、あまりにも端然と、まるで持ち主が今さっき靴を脱いで、そのまま空中に溶けてしまったかのような姿で揃えられていた。
泥一つついていないそのローファーの光沢は、湿り気を帯びた竹林の中で、異様なほどの存在感を放っていた。美咲は、その靴の前に崩れ落ちるようにして、両膝を地面に突いた。あまりの静寂と、そこに残された生活の断片の重みに、立っていることさえできなくなったのだ。
激しく波打つ呼吸を整えようと地面に伏せた視界の端に、別の遺物が入り込む。ローファーのすぐ横、湿った土と砂に半分埋もれるようにして、一冊の白いメモ帳が落ちていた。
美咲は、それが何であるかを直感的に理解した。泥に汚れた表紙を直視することに耐えがたい恐怖を感じながらも、磁石に吸い寄せられるように右手を伸ばす。
震える指先が、湿った紙の感触を捉える。指先に伝わる土の冷たさを、美咲は自分の罪の重さのように感じながら、それを泥濘から剥ぎ取るようにして拾い上げた。ページをめくると、そこには沙羅の、あの震えのない整った文字で、これまでの惨劇のすべてが克明に綴られていた。
ユウカの右腕、リナのバッグ、サキの没落。それぞれの破滅に至るまでの心理的経緯と、呪いを定着させるための手順。それは単なる記録ではなく、沙羅がこの街の地脈を使い、彼女たち一人ひとりの魂の急所を狙い撃ちにした処刑のカルテだった。
読み進める美咲の呼吸が、喘鳴となって喉を鳴らす。そして、最後に残された数ページ。そこに記されていたのは、これまでの三人への憎悪とは質の異なる、美咲だけに向けられた、冷徹で、そしてゾッとするほど親密な独白だった。
『……あなたは、いつも特等席にいた。ユウカが私を罵倒する時、あなたは少しだけ眉を下げて、悲しそうな顔をした。でも、その瞳の奥は、一度も私を助けようとはしていなかった。あなたは、私の絶望という名のスクリーンを眺めながら、自分だけが汚れなき善人であるという贅沢な錯覚を、誰よりも深く貪っていたのよ。美咲』
美咲の心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりに跳ねた。
沙羅は知っていたのだ。美咲が浮かべていたあの曖昧な微笑が、同情ではなく、自分を守るための最高に狡猾な防波堤であったことを。
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