第一章:沈黙と霧の予兆(2)
過去のトラウマという血を流し続けながら、美咲が辿り着いた現在の終着駅。それが私立霧峰高校の、この教室だった。
校舎は、街の東側と西側を分かつ境界線、すなわち合理と怪異が衝突し、火花を散らす断層の上に、冷たいコンクリートの杭を打つようにして建っている。
美咲は、この校舎の空気が一番好きだった。東から流れてくるデジタルな乾燥した空気と、西の竹林から忍び寄る腐葉土の湿った匂い。その二つが混ざり合い、常に薄曇りのように澱んでいるこの空間こそが、自分を隠すのに最適な中立地帯だと感じていたからだ。
彼女の席は、教卓の斜め後ろ。竹林の見える窓から最も遠く、かといって廊下側の喧騒にも近すぎない、教室の幾何学的な死角に位置していた。彼女はここで、日々平均点という名の仮面を被り続けている。
成績はクラスの真ん中、服装は校則を遵守しつつ個性を殺し、休み時間は適度な社交をこなしながら、決して自分の内面を晒さない。彼女の全ての行動は、標的となる注目の中心から逃れ、他者の意識の死角へ潜り込むという単一の生存原則によって貫かれていた。
そんな美咲が選んだ究極の潜伏先は、皮肉にも、校内の頂点に君臨し、異なる世界の権力を体現する三人組の影だった。
最も強い光の直下には、最も濃い影が落ちる。美咲は彼女たちの傍らに身を置くことで、自らを個としてではなく、権力の背景という一部へ昇格させ、不可侵の地位を手に入れていた。その保険料として、美咲は自らの倫理と沈黙を彼女たちに捧げている。
まず、その頂点の捕食者であるユウカ。
グループの絶対女王であるユウカは、東側の再開発エリアが生み出した、血の通わない人形のような美しさを持つ少女だった。
陶器のように滑らかで毛穴一つない肌。その指先には、毎週のように塗り替えられる最新のネイルアートが、獲物を威嚇する牙のように施されている。彼女が周囲に振りまく高価で刺すような香水の香りは、西側の竹林から漂ってくる湿った腐葉土の匂いを力づくで撥ねつけ、塗りつぶそうとする。それは、自分たちが作り上げた新しい街の論理で、この土地の古い気配を支配しようとする、東側特有の傲慢さそのものだった。
ユウカにとって、他者は自分を際立たせるための背景に過ぎない。彼女の自己肯定感は、誰かを支配し、その尊厳を少しずつ削り取ることによってのみ維持される、歪な発電機のようなものだった。美咲は、ユウカが誰かを罵倒する際に見せる、あの陶酔したような瞳の奥に、承認が途絶えた瞬間に霧散してしまいそうな、絶望的な脆さを見抜いていた。
次に、執着の影を纏うリナだ。
ユウカの右腕を自称する彼女は、東側の物質的執着を象徴していた。IT企業の経営者である父親の財力を背景に、彼女は常に新作のブランド品を武装するように身につけている。彼女にとっての価値とは、常に他人が持っていないものを所有していることだった。
リナにとっての友情とは、ユウカという最高級のブランド品の隣に並ぶことで得られる、おこぼれの優越感に過ぎない。彼女は、自分の空虚な精神を、皮製品や貴金属の壁で必死に補強していた。美咲は、リナが新しいバッグを自慢する際の指先が、常に微かに震えていることに気づいていた。それは、いつかこの物質的な城壁が崩れ去ることへの、根源的な恐怖の表れだった。
そして三人目、伝統の重圧に晒されるサキ。
西側の旧家の娘である彼女は、この三人の中で最も複雑な立場にいた。地元の有力政治家を父に持つサキは、西側の古い権威と、そこから生じる陰湿な掟を誰よりも嫌悪していた。しかし、同時にその権力の傘がなければ、校内カーストでの地位も、自分の未来も維持できないことを、サキは理解していた。
サキの瞳には、常に自己嫌悪と、逃げ場のない諦めが混在している。彼女は、父親の権力という古く湿った重い鎖を、あたかも自分を飾る宝石であるかのように装わなければならなかった。美咲は、サキが竹林を見つめる際のその鋭い視線が、憧れではなく、全てを焼き尽くしたいという破壊衝動に満ちていることを知っていた。
美咲は、この三人の強力な個性の摩擦を中和する静寂の支持者として、そこに存在した。
ユウカが誰かを標的に定めれば、美咲は曖昧に微笑んで同意を示す。リナが陰口を叩けば、適度な相槌で彼女を満足させる。サキが沈黙に沈めば、美咲もまた静かに寄り添う。
そうして差し出す感情のどれもが、自分の魂とは切り離された偽造品に過ぎない。状況に合わせて最適な仮面を付け替えながら、彼女の意識の深層は、常に冷徹な計算機のように作動し続けていた。
美咲にとって、その場しのぎの微笑みは、決して彼女たちの悪意への加担ではない。それは、自分という存在が集団という怪物に食い潰されないための、冷徹なコストの支払いだったのである。
「ねぇ、美咲。あんたはどう思う?」
休み時間、ユウカが不快な話題を振り、美咲に同意を求めてくる。その瞬間、美咲の脳内では、小学三年生の時の、あの冷たい床の感触が蘇る。
「……ユウカの言う通りだね。面白いと思うよ」
美咲は、自分の心が砂のように乾いていくのを感じながら、完璧な模範解答を口にする。 彼女のポリシーは誰も傷つけない平均点という名の、傍観者という境界線の上に立つこと。
だがその境界線が、一人の転校生の登場によって、間もなく血に染まる断頭台へと変わることを、この時の美咲はまだ知る由もなかった。窓の外では、風もないのに竹林が「シャリシャリ」と、乾いた爪の音を立てていた。
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