第二章:影の転校生、そして最初の摩擦(1)
美咲が高校二年生という、波風の立たない無難な日常を生存の証として守り続けていた、五月の連休明けのことだった。その日は、朝から霧が格別に深かった。東側のニュータウンの直線的な街並みは、乳白色の闇に飲み込まれ、境界線上に立つ校舎は、あたかも
登校した生徒たちの髪や肩は霧で濡れ、教室の空気は人間の体温と湿気が混じり合い、じっとりと肌にまとわりつく。美咲は、その重苦しい空気の中に、自分を消し去るための隠れ蓑を見出していた。
ホームルームの開始を告げるチャイムが、霧にこもったような鈍い音で響いた。担任の教師が、どこか落ち着かない様子で教室に入ってくる。その背後に、一つの影が付き従っていた。
教師がその名を黒板に書く音だけが、静寂の支配する教室にカツカツと乾燥した音を立てて響く。東京の私立女子校から転校してきたという彼女は、この街の、特にこの教室が持つ独自の生態系に、恐ろしいほどに馴染んでいなかった。
それは、あまりにも不意の出現だった。霧の向こうから現れたその少女沙羅の姿は、見る者の意識を強引に捩じ伏せるような、暴力的なまでの美しさを湛えていた。
彼女が静かに歩を進め、教壇の横に立った瞬間、美咲は喉の奥が凍りつくような錯覚に陥った。そこだけ、空間の密度が異常に高まっている。
彼女は、この街の東側の合理にも、西側の怪異にも属さない、全く別の異界から迷い込んできた迷子のようであり、同時に、この閉ざされた教室に死の概念を持ち込んだ執行者のようにも見えた。
肩まで届く黒髪は、窓の外の竹林が最も深い闇を湛える時の色に似て、艶を拒絶するように光を吸い込んでいる。肌は驚くほどに白く、透き通るというよりは、生命の火が消えかかった薄い和紙のようだった。そして何より、美咲の目を釘付けにしたのは、彼女の瞳だった。色素の薄い、底知れない灰色。その瞳は周囲の誰とも視線を合わせようとせず、ただ虚空の一点を見つめている。それは、この世のあらゆる出来事に対して既に諦めを完了させた者だけが持つ、冷徹な静寂を宿していた。
「……水嶋沙羅です。よろしくお願いします」
彼女の口から漏れた声は、あまりにも小さく、掠れていた。それは言葉というよりも、ひび割れた器から漏れ出すため息に近い。
その一言が発せられた瞬間、美咲は確かに感じた。教室の空気が、パチンと音を立てて弾けたのを。
東側の合理的な太陽に照らされていたはずの教室の床に、沙羅の細い体から伸びる影が、じわりと油染みのように広がっていく。その影は、ユウカたちの座る最前列の華やかな席を侵食し、美咲の足元まで這い寄ってくるかのようだった。
ユウカの反応は、捕食者の本能そのものだった。
彼女は、沙羅を一目見た瞬間、その美しい顎をわずかに上げ、瞳を猛禽類のように鋭く細めた。ユウカにとって、沙羅のような異質な美と圧倒的な拒絶を纏う存在は、自分の支配権を揺るがす最大の脅威であり、同時に、いたぶり甲斐のある最高の玩具に見えたに違いない。
ユウカの隣で、リナがこれ見よがしに高価なスマホケースを弄り、鼻で笑う。サキは、ただ無言で沙羅を見つめていたが、その指先は机の下で、自分のスカートの布地を強く、白くなるまで握りしめていた。
美咲は、その光景をいつもの傍観者の特等席から眺めていた。
心の中に湧き上がったのは、沙羅への同情ではなかった。それは、「また、生贄が選ばれた」という、胃の腑がせり上がるような不快な確信と、それ以上に醜い「これで私の安全は、当分の間保証される」という、罪悪感に塗れた安堵だった。
美咲は、沙羅が発する微かな死の匂いを感じ取っていた。それは物理的な腐敗臭ではない。希望という名の酸素が完全に枯渇し、絶望という名の砂だけが肺に溜まった魂が放つ、乾いた、冷たい匂いだ。
美咲は自らの唇を、石のように硬く結んだ。沙羅が、空いている席に向かって歩き出す。彼女の足音は、驚くほどに無音だった。その一歩ごとに、教室の均衡は決定的に崩れ、西側の竹林が、まるで新しい獲物を歓迎するかのように、激しくざわめき始めた。
「……よろしくね、水嶋さん」
ユウカが、蜂蜜に毒を混ぜたような甘い声で、最初の先制攻撃を仕掛ける。沙羅は、その声に反応すら示さない。ただ、割り当てられた自分の席に、壊れ物を置くように静かに座った。
その瞬間、美咲の網膜に、一瞬だけ幻影が見えた。沙羅の背後から、無数の黒い竹の根が床を突き破り、彼女をこの教室に繋ぎ止めようと絡みつく姿を。
いじめという名の儀式が、今、霧の街で産声を上げようとしていた
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