境界線の女王

都桜ゆう

第一章:沈黙と霧の予兆(1)

 美咲の住む街、霧峰市は、その名が示す通り、一年を通じて薄い霧のヴェールに閉ざされていた。それは気象庁が発表する霧という記号を遥かに超えた、街の生理現象だった。




 朝駅のホームに立つと、霧はまるで生き物のように足元から這い上がり、制服の繊維を湿らせ、肺の最深部まで冷たい湿気を送り込んでくる。この街において、霧は単なる風景ではなく、住人たちの意識の底に澱のように溜まった語られざる沈黙が、飽和状態となって溢れ出した実体のようにさえ見えた。




 美咲はこの霧を、生理的なレベルで愛していた。なぜなら、霧は万物の輪郭を曖昧にするからだ。


 電柱も、信号も、見知らぬ通行人の顔も、霧の中では等しくその存在感を剥奪され、柔らかな灰色へと溶けていく。その視界の不透明さこそが、美咲にとっては透明な逃げ場所だった。霧の中に身を浸している限り、彼女は何者からも規定されず、自分という存在の重みから解放されることができた。それは、この閉塞した地方都市において唯一許された、贅沢な孤独の形だった。








 霧峰市の地図を広げれば、そこには奇妙な「断絶」が記されている。


 都心から電車で一時間強。辛うじて通勤圏内に含まれることで、街は現代社会の末端としての機能を維持していた。しかし、その実態は、まるで二つの異なる時代、二つの相容れない哲学が、不器用な外科医によって無理やり縫い合わされたかのような、歪な二重構造を成していた。




 東側は、バブル崩壊という巨大な病巣を削り取った跡地に、政府主導の合理主義という名のメスで再開発された、真新しいニュータウンエリアである。そこには、計算され尽くした縦と横の線が規則正しく交差し、格子状に区切られた道路に沿って、寸分違わぬ形の建売住宅が、まるで墓標の列のように整然と並んでいる。




 個性を削ぎ落とし、機能性のみを追求した住むための箱。そこに住む人々は、高度情報社会の波に乗る、新しい時代の旗手たちだ。


 彼らにとって、霧峰市は都心へのアクセスとコストパフォーマンスを提供する交換可能な部品でしかない。この土地の土が持つ歴史や、古臭い因習などは、彼らの高解像度なデジタルモニターには映らない、無意味なノイズでしかなかった。


 彼らが信じるのは数値化できるデータであり、クラウドに保存された履歴だけだ。目に見えないもの、理屈で説明できないものは、彼らの世界では存在しないと同義だった。




 一方で、西側は東側の光を嘲笑うかのように、一切の開発を拒み続けてきた。そこは、苔むした石垣、鬱蒼とした鎮守の森、そして市域の半分を侵食する広大な竹林が支配する、旧家と寺社仏閣の街だ。




 竹林の根は地中深くで網の目のように絡み合い、まるで古代の神経回路のように、この街が抱える秘密と怨念を共有している。西側の空気は常に湿気を孕み、東側にはない重力が働いているようだった。


 ここに住む人々は、代々この地を守ってきた一族であり、彼らの生活はデジタルデータではなく、人から人へと囁かれる呪言と禁忌によって律せられていた。彼らにとって、竹の葉がざわめく音は単なる風の音ではなく、土地が吐き出す警告の声だった。




 その音を鼓膜が捉えた瞬間、美咲の指先は微かな戦慄を伴って強張り、喉の奥には、苦い砂を噛んだような感触が込み上げてきた。


 ……この音を、彼女は知っている。それは、逃げ場のない静寂が部屋を満たす時、あるいは誰かが自分を冷徹に値踏みしている時、自身の内側から響いてくる終わりの合図と同じだった。




 記憶の奥底で錆びついていた扉が、その乾いた音に抉り取られるようにして開く。脳裏に、不意に古く、それでいて生々しい映像が明滅する。


 今思い出しても指先が凍りつくような、あの小学校三年生の教室の光景。あの時、彼女たちの間で密かに行われていた、「クイーン・ゲーム」の記憶である。








 当時のクラスは、子供特有の残酷なまでの純粋さによって支配されていた。誰かが言い出したクイーン・ゲーム。それは、クラスの女子の中で誰が一番上であるかを決める、一見すれば他愛ない人気投票のような遊びだった。しかしその実態は、子供たちの狭い社会における権力闘争そのものだった。




 美咲は生来の生真面目さに加え、常に周囲の顔色を伺い知るような、病的なまでに鋭い洞察力を持ち合わせていた。彼女は誰に対しても公平に接し、困っている友達がいれば迷わず手を差し伸べるような、そんな正しさを信じる少女だった。クラスメイトたちは、そんな彼女を信頼し、ゲームの最終決戦で美咲をクイーンに選出した。




 勝者となった瞬間の、あの高揚感。クラスの全員が自分を見つめ、自分の言葉に耳を傾けている。自分が正しいと思う方向に、この小さな世界を動かせるという万能感。それは、幼い美咲の脳を麻痺させるほどに甘美な毒だった。


 しかし、その絶頂は、わずか一日の命だった。




 翌朝、教室の扉を開けた瞬間、美咲は空気の変化を肌で感じ取った。昨日まで自分を慕っていた友人たちの視線が、一様に冷たく、石のように硬い。


 その刺すような視線の数々は、あたかも教室の奥に座る二人の少女から放たれた見えない糸に、クラス中が操られているかのようだった。そこにいたのは、クラスの真の権力者である、母親がPTAの役員で絶対的な発言権を持つA子と、学年トップの成績を誇り教師からも信頼の厚いB子である。




 昨日までの熱狂を冷酷な拒絶へと塗り替えたのは、間違いなく彼女たちだった。自分たちのコントロール外でクイーンの座に就いた美咲は、二人にとって、もはや排除すべき不純物でしかなかったのだ。




「ねぇ、みんな。美咲さんのあの『良い子ちゃん』な態度、鼻につかない?」




 A子の鋭い声が静かな教室に響いた。それは、公開処刑の開始を告げる鐘の音だった。




「本当。学級委員ごっこしてクイーンになって、自分だけが特別だって思ってるんでしょ。偽善者だよね」




 B子が冷笑を浮かべて追従する。




 彼女たちの言葉は、美咲が純粋にクラスのためにと思って行ってきた全ての行動を、醜い自己承認欲求の産物へと塗り替えていった。美咲は弁解しようとした。しかし、彼女が口を開こうとするたびに、周囲の子供たちは一斉に顔を背けた。昨日まで美咲をクイーンと呼んだ手は、今や彼女を指差し、嘲笑するために使われていた。




「調子に乗ってると、すぐに孤立するよ。誰からも相手にされなくなったら、あんたのリーダーシップなんて、ただの空虚な独り言でしょ」




 A子の言葉は、刃物のように美咲の心を抉った。




 その日から、美咲のロッカーは、誰かが投げ入れた給食の残飯や、ちぎられたノートで埋め尽くされるゴミ箱へと変わった。美咲が挨拶をしても、誰も答えない。美咲が授業で発言しても、教師以外の誰もが、まるで彼女がそこに存在しないかのように振る舞う。それは、暴力よりも残酷な存在の抹消だった。


 美咲は教室という四角い箱の中で、たった一人、底なしの沼に沈んでいくような孤独を味わった。




 教師は、その異変に気づいていないはずはなかった。しかし、A子やB子の背後にある親の影や、クラス全体の空気という名の怪物に立ち向かう勇気はなかった。


 教師ができるのは、休み時間にぽつんと一人で座っている美咲に、申し訳なさそうに「大丈夫か」と声をかけることだけだった。だがその憐れみの視線こそが、クラスメイトたちに「美咲は可哀想な、触れてはいけない敗北者だ」というレッテルを補強し、彼女の孤立をさらに深めていった。




 その数ヶ月に及ぶ地獄の中で、美咲は、自分の魂を削るようにして一つの真理を悟ったのだ。


「集団において、最も攻撃の対象になりやすいのは、中心を主張する者である。中心は、他者の劣等感を刺激し、その安全を脅かすからだ。そして、一度でも標的にされた者は、二度と元の世界には戻れない」


 この冷徹な、血の滲むような教訓が、現在の美咲の基盤となっている。以来、彼女は自分という存在を徹底的に隠蔽し、透明化させる術を磨き上げた。




 目立たないこと。意見を持たないこと。感情を顔に出さないこと。それは、再びあの底なしの沼に落とされないための、唯一の防衛魔術だったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る