第2話 命乞いのフルコース、召し上がれ

時が止まった。


俺の蓋は全開だ。

目の前には、茶髪の少女。

彼女の大きな瞳が、俺の中身を凝視している。


俺の中には金貨も宝石もない。

あるのは、醤油と砂糖で甘辛く煮込まれた、豚の角煮だ。

湯気がほわんと立ち上り、ダンジョンのカビ臭い空気を暴力的なまでの「飯テロ」臭で上書きしていく。


少女の目が細められた。

愛らしい顔立ちだが、その眼光は鋭い。

獲物を見定める狩人の目だ。


シャラン。


彼女の腰から、涼やかな金属音が響く。

短剣だ。

流れるような動作で抜かれた刃が、俺の「口元」に突きつけられる。


「……ミミックね」


呟きは冷静だった。

驚きも悲鳴もない。

ただ事実を確認するような、冷徹な響き。

マズい。

これは慣れている。

手際よく急所を貫いて解体するタイプだ。


俺はパニックになった。

逃げられない。

蓋を閉じても、あの短剣なら木の板ごと貫通するだろう。

噛みつく?

無理だ。

あんな鋭利な刃物を突きつけられて勝てるわけがない。

俺はただの箱だ。

元・居酒屋店長の、しがない箱なのだ。


殺される。

せっかく転生したのに、角煮と共に人生終了だ。


「……でも」


少女の手が止まる。

短剣の切っ先が、わずかに震えた気がした。


「なぜ、こんないい匂いがするの?」


彼女の鼻がひくひくと動く。

視線が、俺の「底」にある角煮に釘付けになっている。


チャンスか?

これはチャンスなのか?


俺の生存本能が叫んだ。

食わせろ。

餌付けしろ。

胃袋を掴めば、命だけは助かるかもしれない。


俺は全神経を【調理】スキルに集中させた。

攻撃するんじゃない。

もてなすんだ。


箱の隅に転がっていたフランスパンを【収納】から取り出す際、すでにスライスしておいた。

そのパンを、見えない魔力の手で持ち上げる。

そして、とろとろに煮込まれた角煮を一切れ、そっとパンの上に乗せた。

煮汁がパンに染み込み、褐色のグラデーションを描く。


「……っ!?」


少女が半歩下がった。

箱の中身が勝手に動いたのだから当然だ。

短剣を構え直し、殺気が膨れ上がる。


待ってくれ。

違うんだ。

これは攻撃じゃない。


俺は必死に念じながら、その「角煮パン」をゆっくりと浮上させた。

箱の縁よりも高く。

彼女の目の高さに合わせて。

ふわり、と差し出す。


どうぞ。

毒とか入ってないんで。

ただの美味しい肉なんで。


精一杯の「おもてなし」の心(という名の命乞い)を込めて、俺は角煮を空中で静止させた。


沈黙。

ダンジョンの通路に、場違いなほどの静寂が流れる。

漂うのは、生姜と醤油の芳醇な香りだけ。


少女は動かない。

その表情からは感情が読み取れない。

警戒しているのか、呆れているのか。

ただ、その視線だけは、宙に浮く角煮から外れていない。


やがて、彼女は小さく息を吐いた。

短剣を逆手に持ち替え、空いた左手を慎重に伸ばしてくる。


俺は動かない。

どうぞ、お取りください。


彼女の指先がパンに触れた。

俺は魔力のホールドを解く。

角煮パンは彼女の手のひらに収まった。


食べるか?

それとも、床に叩きつけられるか?


彼女はパンを目の高さまで持ち上げると、じっと観察した。

匂いを嗅ぐ。

色を見る。

そして、短剣の先でちょん、と肉の端を突いた。


「……鑑定」


小さな声が聞こえた。

スキルを使ったのか。

彼女の瞳が一瞬、青白く光る。


数秒の後、彼女の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。


「毒反応、なし。呪い、なし。状態異常、なし」


事務的な口調で呟く。

やはりプロだ。

怪しい出所の食べ物を、決して無警戒には口にしない。

だが、安全確認は済んだはずだ。


彼女は周囲を一度見回し、誰もいないことを確認すると、おもむろにパンを口元へ運んだ。


頼む。

美味いと言ってくれ。

そして剣を収めてくれ。


彼女の小さな唇が開き、角煮ごとパンを齧る。


サクッ。


パンの皮が弾ける音。

続いて、煮込まれた肉がほろりと崩れる気配。


彼女の動きが停止した。

咀嚼が止まる。

長い睫毛が瞬きもせず、虚空を見つめている。


失敗か?

味が濃すぎたか?

異世界の住人の口には合わなかったか?

俺が絶望しかけた、その時だ。


「……ん」


彼女の喉が動いた。

飲み込んだ。

そして、ゆっくりと閉じていた目を開く。


その瞳は、さっきまでの冷徹な観察者のものではなかった。

揺れている。

驚きと、困惑と、そして隠しきれない感動で、瞳孔が開いている。


「嘘……」


彼女は自分の手にある食べかけのパンを見た。

そして、俺を見た。


「柔らかい……。口の中で、脂が溶けた……?」


独り言のように漏らす声は、震えていた。

彼女はもう一度、今度は大きく口を開けてかぶりついた。

一口目よりも勢いよく。

行儀作法など忘れたように。


パンに染みたタレが、彼女の指を汚す。

彼女はそれすらも惜しむように、舌先でペロリと舐め取った。


「美味しい」


はっきりと聞こえた。

その言葉に、俺の全身(箱だけど)から安堵の力が抜けていく。


彼女は夢中で食べ進めた。

あっという間に一切れを完食すると、名残惜しそうに指を見つめ、それから俺の中を覗き込んだ。


まだある。

箱の底には、あと五切れほどの角煮が残っている。


彼女と目が合った。

さっきまでの鋭利な刃物のような雰囲気は消えていた。

代わりにそこにあったのは、純粋な「おかわり」の要求だった。


俺は理解した。

勝った。

戦闘には勝てないが、俺の料理は彼女の防御力を貫通したのだ。


俺は再び【調理】スキルを発動させ、残りの角煮とパンを浮かせた。

今度は二切れ、サービスだ。


彼女の表情が、ぱあっと輝く。

花が咲くような、とはこういうことを言うのだろうか。

彼女は短剣を鞘に納めると、両手で俺からパンを受け取った。


「ありがとう」


短く、けれど丁寧な言葉だった。

彼女は近くの岩に腰を下ろし、大事そうに、本当に愛おしそうに角煮を頬張り始めた。


俺はその光景を、開けっ放しの蓋の隙間から見守った。

奇妙な連帯感が生まれていた。

俺は生かされた。

そして彼女は満たされた。

Win-Winの関係だ。


彼女が食べ終わる頃には、俺の恐怖心はどこかへ消え失せていた。

代わりに湧いてきたのは、料理人としての根源的な欲求だった。


『もっと食わせたい』


この場所で、俺は生き残れるかもしれない。

この箱の中で、俺の「店」が開けるかもしれない。

そんな予感が、角煮の残り香と共に漂い始めていた。

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