第3話 入学前夜

夕食の席は、いつだって何かを決定するために用意されている。


母屋の食卓は広い。けれど椅子と椅子の間にある空気は、驚くほど狭く感じる。皿の数、銀のカトラリーの並び、飲み物の温度。何ひとつ乱れないのに、重苦しい雰囲気に呼吸だけが乱れる。


当主――父は、端正な笑みを浮かべていた。


「椿も、もう高校生だな」


ワイングラスを軽く傾け、続ける。


「卒業後のことも考えていかないと。下手に社会に出す前に、相手を探しておいた方がいい」


椿の肩がピクリと反応する。表情を変えず、ただ耳を傾ける。


「三年もあれば、外に出しても恥にならないよう仕上がるでしょう」


母が肯定した瞬間、決まった。


喉の奥が詰まるのを飲み込む。従順でいることには慣れていた。


椿は“灯”の血筋に生まれた。怪異を祓う力を持つ家系。

この家にとって椿はただの道具に過ぎない。家のために怪異を祓う。家のために嫁ぐ。息苦しさを感じ、急いで食事を済ませる。


父は次の話題に移った。


「…最近、九尾の動きが目に余る。灯の血筋を狙っている噂もある。金で動く連中に仕事を減らされては困る」


椿の話題はもう出ない。


子供の頃、兄に嵌められて離れに追いやられてから、父は家業を兄にしか伝えなくなった。


「……私はこれで失礼いたします」


器を静かに置き、椅子を引いて立ち上がる。父は頷くだけ。


離れに戻る廊下が長く感じる。部屋の戸を閉めると、息ができた。


窓辺から外を見ると、遠くの街の灯りが自由に見えた。


鳥かごの中で生活する事に慣れていた。それでも今日、自由を手に入れる日は来ないのだろうと思った。


……監視は、今ならいない。


逃げようと思ったわけではない。ただ、灯りに引き寄せられるように窓を開けた。夜の空気が頬を撫でる。


初めての反抗だった。今夜はここにいたくなかった。


靴を掴んで窓枠に腰を掛け、外へ降りる。


抜け出せない監獄だと思っていた家は、窓1枚で外と繋がっていた。


街までたどり着くと、甘い匂いと煙の匂いが混じる。笑い声が漏れ、車が通り過ぎる。


目的地もなく歩く。このまま逃げてしまおうかと思ったが、気温が急に下がった。


――怪異の気配。


それは、肌の内側を薄く擦られるような違和感だった。視界の端が揺れる。気配が、妙に刺々しい。


椿は立ち止まった。


街の灯りは眩しいのに、そこだけ空気が暗い。


近づく男の歩き方が不自然。肩が落ち、首が前へ突き出る。視線は獲物を探すようだ。


足元に黒い影がまとわりつき、息をするたびに脈を打って男の背中を押す。


(……憑いている)


男が正面に立ち、椿の肩に手が伸びる。

椿は一歩退くが、踵が舗道の段差に引っかかり体がほんの少し揺れる。


その瞬間、男の目が細くなり口角が上がる。


「ああ……灯かぁ…!」


言葉に釣られるように、黒いものが濃くなる。


怪異が喉を借りて喋った。人を操れるほどの力。それを祓える力は椿にはまだなかった。


男の呼吸が荒くなり、肩が跳ねる。腕が、今度は掴む形になって伸びた。


椿は、掌の中に熱を集めた。できなくても、やるしかない。


身体の奥に沈めてきた灯を、ほんの少しだけ引き上げる。手のひらに薄い光が灯り空気が張り詰めた。


男が椿に触れる直前、その灯を男へ向けて押し出した。男の背にまとわりつく黒い影が、ぴくりと震える。布を焼いたみたいに、焦げた匂いが一瞬だけ混じった。


男の動きが一瞬止まり、黒い影が男の輪郭から浮かび上がったが、それは逃げる隙にもならずまた男の中に戻っていく。


椿の喉がきゅっと締まった。灯を押し出すほど、身体の内側が空になる。指先が痺れ、視界の端が一瞬だけ白く霞む。


……まだ、無理だった。

男が体勢を立て直しかけた、そのとき。


「なにやってんの!」


甲高い声が割り込んだ。


「はい、これ被ってろって!」


突如現れた女の子は、そこにあった金属のゴミ箱をひっ掴むと、後ろから躊躇なく男の頭に被せた。


ガン、という鈍い音。男の罵声がゴミ箱の中でくぐもる。視界が奪われた瞬間、男の腕が空を掴んで振り回される。男の元へ戻りかけていた黒いものが再び乱れた。


「早く!逃げるよ!」


女の子が椿の腕を掴み、引き倒す勢いで路地の影から引き剥がす。


椿は抗う暇もなく、走らされる。街の明るい方へ。


背後でゴミ箱が倒れる音。男の怒鳴り声が追いかけるが、人の波に消える。


自販機の前で足を止めた。


「……はぁ。危なっ」


息を切らしながら、彼女は椿を見上げる。


「大丈夫? 変なやつ、最近多いからさ。ああいうのに絡まれたら、真面目に相手しないで逃げた方がいいって」


椿は呼吸を整え、指先の冷たさを隠す。


「…ふっ、あははっ」


笑いが込み上げる。あんな事が起きたのに、清々しい。


「何笑ってんの?こわっ」


「ご…ゴミ箱にあんな使い方があるなんて、知らなくてっ……」


「変なやつだな、怖くないのかよ」


女の子は呆れたように呟き、少し考えてから。


「……アタシはエマ。あんた名前は?」


「灯郷 椿と申します」


「……いいとこのお嬢様?なんでこんな時間に、あんなとこいたんだよ?」


「それは…」


普段なら話さなかっただろう。でも今夜の椿は自由だった。


「…あの家にいたくなかったんです」


「へぇ。贅沢な悩みだね。そんな高そうな服着て、夜の街の危険も何も知らなくて。温室育ちの何が気に入らないって?」


エマは悪びれもせず笑って、指先で自分の耳をちょいと触った。ピアスがいくつも光っている。


椿は視線を落とした。誤魔化すことや強がることは得意だった。けれど、今夜は——自分の本心と向き合いたいと思った。


「……そう、ですね。でもあの家は…監獄と同じです。父は私を口もきかない操り人形だとでも思っているでしょうね」


エマは一瞬だけ黙って、それから、妙にあっさり言った。


「よし!今から遊びに行くか。帰りたくない夜ってあるじゃん」


椿は顔を上げた。


「……遊ぶ、とは」


「ゲーセンとかカラオケ。お嬢、行ったことないでしょ。そういう顔してる」


「……ない、ですけど……お嬢?」


「ほら、金あるなら奢れよ。ちょうど暇してたんだ」


差し出されたエマの手を取り立ち上がる。


「……分かりました。……ただ、走るのはもうやめませんか?」


「無理。ついてきて!」


ネオンの灯りが、二人の影を長く伸ばす。


椿は走り出しかけて、ふっと振り返る。


さっきの影の気配が、まだどこかで感じる。

だがすぐに暗闇に消えた。


……それでも、背後に誰かの視線が刺さるような気がした。


「どした?」


「あ、いえ。なんでもありません」


椿は、もう一度だけ息を吸って、エマに引かれるまま走り出した。


今夜だけは、鳥かごの外で呼吸をしてみたかった。

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