第2話 潜入命令

路地裏の空気は、雨上がりのように重かった。アスファルトが街灯を鈍く返し、影だけがやけに長く伸びる。


倒れた“それ”はもう動かない。黒い煙のようなものが輪郭から剥がれて、風に溶けていく。怪異の死に際はいつも曖昧で、見届ける側の神経だけが削れる。


レイは短く息を吐き、短刀の刃を軽く払った。血の温度がまだ指に残っている。頬に跳ねた返り血を、血で汚れた手の甲で乱暴に拭う。気持ち悪い。だが今さら綺麗にする理由もない。


「レイちゃ〜ん」


背後から、軽い声が転がってきた。


「昨日より七秒早く仕留めたやん〜。あれ? 新記録更新ちゃう〜?」


カナメだった。銀髪の前髪で片目を隠し、赤い瞳だけが楽しそうに光っている。タバコを指で弾き、レイの足元の“それ”を眺めた。


「……」


レイは何も言わず刃を鞘に収め、怪異がいた場所を踏まずに横を通り過ぎようとする。


「なぁなぁ」


カナメの声が追ってくる。からかうように、甘く伸びる。


「宿主、殺してへんのや? えらいわ〜、レイちゃん。」


レイは歩みを止めない。関われば絡まれるだけだ。耳に入れていないふりをして、路地の奥へ抜ける。


「無視すんの、相変わらず冷たいなぁ」


カナメは笑いながら、隣に並ぶでもなく少し後ろをついてくる。


「知ってる〜? レイちゃん、高校生になるんやって。ええなぁ〜青春って感じやな〜」


その言葉だけは無視できず、足を止めた。


「……は? 俺が?」


振り返ると、カナメは肩をすくめる。まるでその反応を待っていたかのように。


「あれ? やっぱ聞いてへんのか。久世さんも意地悪やなぁ〜」


胸の奥がざわつく。

久世。怪異で金を抜く組織——九尾の長。その手が、レイに“普通”の話を持ち出すはずがない。

学校は餌だ。鎖だ。どちらにせよ、都合のいい道具にするための仕込みだ。


「……ふざけんな」


「ま、文句は久世さんに言い。俺は命令出す側ちゃうし。……あ、でもな」


赤い瞳が細くなる。


「ちゃんと行きや、レイちゃん。逃げたらまた“お仕置”やで?」


嫌な記憶が蘇り、レイは顔を背け、そのまま足を進めた。


九尾の拠点は、古びた雑居ビル。階段は薄暗く、空気が悪い。


レイは血の付いた上着を脱ぎ捨て、洗面台の水で手を洗った。赤が流れて、色が戻る。何度こすっても、指の間の感覚だけは消えない。


無意識に、自分の手首を握りしめた。


奥の部屋に呼ばれたのは、その直後だった。


久世は穏やかな顔で座っていた。丁寧な身なり、柔らかな声。ここが裏社会の巣だなんて、知らないやつには信じられないだろう。


「お疲れさまでした。怪異は処理できましたか?」


「……ああ」


「宿主は?」


「死んではいない。道端で寝てるだろ」


久世は満足そうに頷く。


「本題です」


声が低くなる。


「君を、春から高校に通わせます」


レイは目を細めた。


「手を回すのは大変でした。身元の書類も整えました。表では普通の生徒として振る舞ってください」


机の上に紙束を滑らせる。


写っているのは少女の横顔。整った所作、品のある立ち姿。目だけが少し冷たい。


「灯郷 椿。名門の家です。君の任務は彼女の監視と報告。必要なら接近してください」


「……監視?」


「彼女の家系は“灯”の血筋です。怪異に対抗できる。手に入れば、非常に価値があります」


久世は笑う。優しい顔のまま。


「弱点を探しなさい。どこが折れれば言うことを聞くのか。どこが揺れればこちらに傾くのか。必ず見つけてください」


喉の奥が嫌な味で満ちる。


レイはその少女を知らない。関わりもない。

だが、九尾に引きずり込むことはしたくない。


誰かに手首を引かれた夜。


――自分の過去を、繰り返したくない。


「俺に拒否権はないんだろ」


「ありません」


即答だった。そこに罪悪感はない。久世はただ、当然の事実を告げているだけだという表情を浮かべている。


「期待してますよ。レイ」


久世は淡々と言い放った。


部屋を出て廊下に戻ると、カナメが壁にもたれてタバコを吸っていた。


「大変やなぁレイちゃん。昼も夜も任務て。忙しそ〜」


レイは横を通り過ぎる。カナメの煙が、わざとらしく顔の前に流れてくる。


「黙れ」


吐き捨てるように言うと、カナメが小さく笑った。


「適当な仕事はせん方がええで〜? 久世さん、そういうん嫌いやし」


レイは階段を下りながら、胸の奥に沈むものに気づく。


灯郷椿は、関係ないはずだ。


それでも、頭の片隅に貼りついた冷たい目が、どこかで見た影のように蠢いていた。


「……めんどくせぇ」


誰にも届かない声で呟いて、レイは考えることをやめた。


路地裏の闇に、自分の影が少しだけ長く伸びていることに気づかないまま。

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