灯影の駄菓子屋

沈丁花

第1話 ハルの駄菓子屋

夕日の光が、川面に薄く伸びていた。


キラキラ輝く穏やかな姿とは裏腹に、水は冷たそうで、底は見えない。

—— 一歩踏み外せば、何もかも持っていかれる。


ハルの駄菓子屋は、その川から一本裏の路地にある。


古い木の看板は色が抜け、ガラス戸には子どもの指紋がいくつも残っている。


表向きは、ただの駄菓子屋だ。


けれどこの店には、甘いものより先に帰る場所を求めて迷い込むモノがいる。


その日もハルは店番をしていた。祖父も祖母も高齢のため、最近は店に立つことが少ない。


夕方の子どもたちが引けて、店の前が妙に静かになった頃——


ガラス越しにランドセルを背負った男の子が立っていた。

ぼんやりと、動かない。

まるで誰かに後ろから肩を押さえつけられているみたいに。


ハルは棚に戻しかけたお菓子の箱をそっと置いた。

胸の奥が、じわりと冷たくなる。


——いる。


肌の内側を撫でるような違和感が、空気の奥から滲んできた。


ハルは戸を開けて外に出た。軋む木の床が小さく鳴る。


「おーい。どうした?」


声に反応せず、男の子はゆっくり踵を返し、ふらふらと歩き出す。

足だけが、勝手に川の方へ滑っていく。


ハルは後を追った。


路地を抜け、川沿いに出る。

草の匂いが濃くなり、影が伸びる。


柵の隙間。


男の子は吸い寄せられるようにそこへ近づき、身を乗り出した。


すぐ下に黒い水面。水が、微かに笑っているような波紋を立てる。


ハルは考えるより先に手首を掴んだ。

異様に冷たい。指の間から、ぬるっとした何かが這い出そうになるような感触。


「危ないって! 待てよ!」


ハルは強引に引き戻し、柵から離した。


男の子は川を見て、急に顔を青ざめさせた。


「……僕、いま……」


ハルは男の子の目の奥を覗く。

濁りは薄い。


ただ、黒い影が、瞳の底でゆっくりと蠢いている。

ハルは肩に手を置いた。優しく、でもしっかり。


「名前は?」


「……ユウ」


「ユウか。よし、ユウ。今日なんか嫌なことあった?」


歩きながら、ゆっくり聞いた。

ユウはしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。


「……転校してきたんだ。これで3回目」


ユウは足元の石を軽く蹴って、声を小さくした。


「……学校でも、今日『どうせすぐ引っ越すんだろ』って言われて。もう誰も本気で友達になってくれないんだ」


ハルは軽く頷いて、笑顔を作った。でも目が少しだけ鋭くなった。


「そっか。しんどいよな。俺も昔、似たようなことあったよ」


駄菓子屋の前に着くと、ハルはしゃがんで目線を合わせた。

いつもの優しいお兄さんの顔。


「なあ、ユウ。明日もここにおいで。開けてるからさ。

お菓子でも食べながら、ちょっと話そう。一人で来ても全然いいからな」


ユウが瞬く。


「……でも」


「でもじゃない。来いって言ってるだろ? 約束な」


声に少しだけ力がこもる。

優しさの裏に、切実なものが滲む。


ユウは小さく頷いた。

ハルは立ち上がり、ユウの頭を軽く撫でた。


「家はどこ? 送っていくよ」


ユウが指差した方へ、二人で歩き出す。

風は冷たくなっていたけれど、ユウの足取りは少しだけ軽くなった。


家の灯りを見上げたユウは振り返り、「また明日ね」と呟いて家に入った。


帰り道。


川沿いで、ハルは立ち止まる。


さっきまでまとわりついていた重たい空気が、嘘のように薄れている。


——ハルは、ふと夕闇の中を見つめた。


川の向こう側の草むら。路地裏の影。

そこに、昔の景色が重なった。


小さな手首を掴んだ感触。

車の走る音。

誰かの冷たい手を、同じように引き戻した夜。


「……あいつ、今どうしてるかな」


声に出した瞬間、喉の奥が少しだけ痛んだ。

ずっと昔に置いてきた記憶が、まだ胸の奥に強く絡みつく。


あいつは本当に無口で、無表情で。

話しかけても返事が遅くて。

でも、あの夜——


ハルは首を振る。それ以上は考えない。


店に戻ると、ハルは棚を整理しながら小さな紙を一枚出した。

「ミニ縁日 明日 ラムネ早飲み大会」


子どもが集まる口実。

一人でも来やすい仕組み。


貼り終えて、明かりを少し強くする。


その時、ガラスに映った背後の影が、一瞬だけ人の形に見えた。


細い、長い指が、ハルの肩に伸びているように。


ハルは振り返らない。


落ち着いた声で、誰に言うでもなく呟いた。


「……もう、うちの子には触るなよ」


影は、ゆっくりと溶けるように消えた。


ハルは息を吐き、ラムネを冷蔵庫に並べる。


明日、ユウが来る。

きっと誰かと笑う。

そうなれば、また一つ、影は居場所を失う。


でもハルは知っている。

自分の胸の奥に、まだ冷たいものが残っていることを。


そして、それが、いつか自分の首を掴みに来るかもしれないことを。

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