第7話 逃げ出した先には

 午後五時を告げる街のチャイムが、遠くで鳴り響いていた。

 駅前のロータリーは、休日を謳歌した人々が吐き出す熱気と、これから夜を迎える街の嬌声で飽和している。西の空には毒々しいほど鮮やかな茜色の雲が垂れ込め、それはまるで、私の疲労感を視覚化したかのような重苦しい色彩で街を覆っていた。


「ねえねえ、次はプリクラ撮ろうよ! そのあとファミレス流れて夕飯食べない?」


 エリナの声が、耳鳴りのように鼓膜を震わせる。

 私の身体はもう限界を超えていた。四時間に及ぶカラオケ、頬に張り付いたままの笑顔、計算され尽くした相槌、そして翔太くんからの無遠慮な視線をかわし続けるストレス。私の魂はすり減り、ペラペラの紙切れ一枚のようになって、今にも風に舞ってしまいそうだった。これ以上、「一ノ瀬ミツキ」という重たい着ぐるみを着て踊り続けることは不可能だ。


 ポケットの中で、硬い金属の感触を指先で確かめる。

 あの鍵だ。その冷たさが脳髄に直接信号を送り、私の生存本能を呼び覚ます。

 ――逃げろ、と。


「……あ、ごめん」


 私は立ち止まり、スマホを見るふりをした。画面は真っ暗なままだったけれど、今の私には着信画面を幻視するくらいの演技力は残っていた。


「お母さんから連絡あって……急用ができちゃったみたい。帰らなきゃ」

「えー! マジで? 今からがいいとこなのにー」


 不満げなブーイングが上がる。翔太くんが「送ってくよ」と言い出す気配を感じ、私は素早く言葉を被せた。


「本当にごめん! ……また埋め合わせするから!」


 言うが早いか、私は返事も待たずに背を向けた。「え、ちょっ、ミツキちゃん?」という困惑した声を背中に浴びながら、私は雑踏の中へと飛び込む。

 ヒールの低いパンプスがアスファルトを蹴る音だけが、自分の心音のように響く。振り返らない。信号が点滅している横断歩道を駆け抜け、駅の改札とは逆方向へと走った。

 家に帰りたいわけじゃない。家には、過干渉な母親と、優秀な兄と比較される息苦しい食卓が待っているだけだ。私が帰りたい場所、呼吸ができる場所は、この街に一つしかなかった。


 電車に乗る気力もなく、私はひたすら歩き続けた。

 賑やかな駅前を抜け、商店街を通り過ぎ、住宅街の坂道を登っていくにつれて、景色から色彩が剥がれ落ちていく。ネオンサインや看板の光が消え、古びた民家の塀や、電柱の長い影が伸びる静寂の世界へと沈んでいく。


 三十分ほど歩き続け、学校の正門が見えてきた頃には、私の息は上がり、整えてきた髪は汗で張り付いていた。

 日曜日の学校は、巨大な墓標のように静まり返っている。部活動の生徒ももう帰ったのか、グラウンドからは誰もいない乾いた風の音だけが聞こえてくる。校門は閉ざされていたが、フェンスの一部が壊れているのを私は知っていた。


 忍び込む背徳感が、麻痺していた私の感覚を少しずつ蘇らせていく。

 誰もいない昇降口、渡り廊下を抜け、夕闇に沈む校舎の脇を通る。それは昼間の顔とは全く違う、冷たくて厳かな表情をしていた。

 雑草が生い茂る旧校舎裏への小道を、パンプスを泥だらけにしながら進む。お気に入りのワンピースの裾が枝に引っかかったが、構わなかった。どうせこの服は、私じゃない誰かのための衣装でしかない。


 鬱蒼とした木々の向こう、夕焼けの残り火を背負って立つ、ガラスと鉄骨の棺が見えてきた。

 温室だ。

 私は最後の力を振り絞って、その扉の前までたどり着く。

 扉には鍵がかけられていた。中に「彼」がいるのか、それともいないのか、私には分からない。震える手でポケットから銀色の鍵を取り出す。先日、彼からぶっきらぼうに手渡された、合鍵。

 それを震える手で差し込むと、カチリ、と世界で一番美しい音が響いた。


 ガチャン、と重い音を立てて扉を開き、中に入る。

 その瞬間、むっとした湿気と、濃密な緑の匂いが私を包み込んだ。

 ああ、酸素だ。

 私は膝から崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込んだ。ようやく呼吸ができる。肺の奥まで、この泥臭くて生温かい空気が満たされていくのを感じた。


「……お前」


 頭上から声が降ってきた。

 驚いて顔を上げると、薄暗い温室の奥、作業台の前に人影があった。蓮見だ。彼は小さなランタンを灯し、パイプ椅子に座って本を読んでいた。日曜日の、こんな時間に。


「どうやって入った……って、そうか。鍵か」


 彼は手元の本を閉じ、私を見下ろした。そこにあるのは呆れたような、けれど拒絶ではない静かな視線だった。私は乱れた呼吸を整えながら、力なく笑った。


「……いると、思った」

「日曜だぞ。俺にだって休む権利はある」

「じゃあ、なんでここにいるのよ」

「家より落ち着くからだ」


 彼は短く答えると、作業台からペットボトルを取り出し、私に放り投げた。常温の水だ。私は礼も言わずにキャップを開け、一気に喉に流し込む。渇いた細胞の一つ一つに水が染み渡っていくようだった。


「……すごい格好だな」


 蓮見が私の全身を見て言った。

 私は自分の姿を見下ろす。淡いピンク色のワンピースに、フリルのついたカーディガン。華奢なパンプスに、髪にはリボン。まさに「清楚で可愛い女子高生」のフル装備だ。

 けれど今の私は、裾は泥で汚れ、カーディガンははだけ、髪は乱れ、化粧も崩れているだろう。まるで、舞踏会の帰りに沼に落ちたシンデレラだ。


「……笑えばいいじゃない」

「笑わねえよ。ただ、強烈な違和感があるだけだ」


 彼はランタンの光量を少し上げた。暖色の光が、私たちの間に揺らめく影を作る。


「その服、お前じゃないみたいだ。借りてきた衣装か?」

「そうよ。……全部、嘘っぱちの衣装」


 私は立ち上がり、ふらつく足でいつものベンチに向かった。

 ドスンと腰を下ろし、足のパンプスを脱ぎ捨てる。締め付けられていた足指が解放される快感と共に、髪を束ねていたリボンを引き抜いた。バサリと髪が落ちる。首元のネックレスも、手首のブレスレットも外す。

 ジャラジャラと、金属音がベンチの上に積み重なる。

 装備解除。私はようやく、ただの一ノ瀬ミツキに戻った。


「デートだったのか?」

 蓮見が本を開き直しながら、何気なく聞いた。

「……グループデート。カラオケ」

「へえ。青春だな」

「地獄よ。……酸欠で死ぬかと思った」


 ベンチの背もたれに頭を預け、天井を見上げる。ガラス越しに見える空は、もう群青色に沈みかけていた。


「みんな、いい子たちだった。明るくて、優しくて、気を使ってくれて。……でも、だからこそ苦しかった。あの中にいると、自分が異物だってことを突きつけられるみたいで」


 ポツリポツリと、言葉が漏れ出る。誰にも言えなかった本音。エリナに言えば「贅沢な悩み」と一蹴され、母親に言えば「もっと協調性を持ちなさい」と叱られるであろう言葉たち。でも、この男だけは違う気がした。


「私ね、途中で逃げてきたの。お母さんが病気になったって嘘ついて」

「最低だな」

「そうよ、最低よ。……でも、もう限界だった」


 私は両手で顔を覆った。掌に残る、ココナッツの芳香剤と、フライドポテトの油の匂い。そして微かに残る、翔太くんの香水。


「ねえ蓮見。私、臭くない?」

「ああ。臭いな」


 彼は即答した。やっぱり。私は傷つこうと身構えたが、彼の言葉は予想とは違う響きを持っていた。


「揚げ物の油と、安っぽいコロンと、お前の嘘の匂いが混ざって、ひどい悪臭だ」


 辛辣な言葉。なのに、不思議と涙は出なかった。むしろ、その「事実」を淡々と指摘してくれることが、今の私には救いだった。「大丈夫だよ」「いい匂いだよ」なんて慰められたら、私はきっと自己嫌悪で吐いていただろう。


 蓮見は立ち上がり、じょうろを持って私の近くにある巨大なゴムの木に水をやり始めた。土が水を吸う、ジュワ、ジュワという音が、私の心の澱も吸い取ってくれるような気がする。


「植物もな」

 背中を向けたまま、彼が言った。


「環境が変わるとストレスを受ける。日陰で育った奴を、急に直射日光の当たる場所に置くと、葉焼けを起こして枯れるんだ」

「……私、葉焼けしちゃったのかな」

「重症だな。葉っぱが茶色くチリチリになってる」


 彼は振り返り、じょうろの先を私に向けた。水は出さなかったけれど、その仕草はまるで私に水をやろうとしているようだった。


「だから今は、ここで休んでりゃいい。日陰で、風通しのいい場所で、ただ水を吸って回復するのを待つんだ」


 彼の言葉は、どんな優しい慰めよりも深く、乾いた胸の奥へと沁み込んでいった。

 頑張らなくていい。無理に光を浴びて笑わなくていい。ただ日陰で、静かに呼吸をしていてもいいのだと、そう赦された気がした。


「……ありがとう」


 小さく呟く声は、湿った空気に溶けていった。

 蓮見は何も言わず、また黙々と植物の世話に戻る。


 私はベンチの上で膝を抱えた。

 薄暗い温室、ランタンの灯り、土の匂い。そして、少し離れた場所にいる、背中の丸まった庭師。ここには、カラオケボックスのような派手な光も、大音量の音楽もない。あるのは静寂と、植物たちの寝息だけだ。


 ふと、ポケットの中の鍵に触れる。逃げ出した先に、これがあってよかった。もしこの場所がなかったら、私は今頃、どこかの路地裏で干からびていたかもしれない。


「ねえ」

「なんだ」

「私、ここが好きみたい」


 独り言のような告白に、蓮見の手が一瞬止まったが、彼は振り返らなかった。


「……物好きな奴」


 それだけ言って、彼はまた作業を続けた。でも、その声色が少しだけ柔らかかったのを、私は聞き逃さなかった。

 私は目を閉じた。瞼の裏に残っていた原色のネオンが消え、深い緑色が広がっていく。ここは世界の掃き溜めのような場所かもしれないけれど、私にとっては世界で唯一の、呼吸ができる聖域だった。


 外はもう完全に夜になっていた。

 けれど、このガラスの箱の中だけは、ランタンの光で優しく守られている。私は泥だらけのパンプスを見つめながら、もう少しだけ、このままでいようと思った。明日また、あの息苦しい戦場に戻るために。


(第7話 完)


 次回は、明日12:15に更新予定です。

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