第6話 グループデートの憂鬱
日曜日というカレンダーの赤い数字は、本来なら休息を意味するはずだ。
けれど、カースト上位の女子高生にとって、それは「平日にはできない大規模なメンテナンス」あるいは「社交という名の過酷な労働」に充てられる日でもある。
午後一時。駅前のカラオケボックス『フェスタ』。
薄暗い個室の中は、人工的な極彩色の光と、安っぽい芳香剤のココナッツの香り、そして揚げたてのフライドポテトの油の匂いで充満し、換気扇の回る音が低い唸り声のように響いていた。
「――はい、カンパーイ!」
プラスチックのグラスがぶつかり合う軽薄な音が、狭い部屋に反響する。
私の手の中にあるのは、毒々しいほど鮮やかな緑色のメロンソーダだ。氷の間でシュワシュワと音を立てて弾ける炭酸の泡は、まるで私の脳内で常時稼働している「空気を読むための計算機」の作動音のようだった。
「いやー、マジで急な誘いだったのに来てくれてサンキューな!」
「ホントホント! エリナちゃんの友達、レベル高いって聞いてたけどマジだったわ」
向かいのソファに座っているのは、隣の高校のサッカー部の男子たちだ。短く刈り込んだ髪に日焼けした肌、制汗剤とヘアワックスが混ざった独特の匂いは「陽キャ」の証明書のようなものだ。彼らは、先日蓮見が言っていた言葉を借りるなら、まさに「ひまわり」のような存在だった。太陽に向かって真っ直ぐ咲き、曇りのない笑顔を振りまき、周囲を照らす正義の植物。日陰の湿った土壌でしか息ができない私とは、生物としての構造が決定的に違う。
「ミツキちゃんってさ、あんま喋んないタイプ? それとも緊張してんの?」
私の隣に陣取った男子――名前は確か、翔太くん――が、身を乗り出して聞いてきた。熱気が伝わってくるほどの距離感に、私の防衛本能が瞬時に作動し、「営業用スマイル」のスイッチを入れる。
「えー、そんなことないよ! ただ、みんなの話が面白すぎて、聞き入っちゃってて」
口角を完璧な角度まで引き上げ、目尻を三日月型に細め、声のトーンを半音上げる。それは相手を肯定しつつ、自分の内面には決して踏み込ませないための強固なバリアだ。
「なんだよそれ、上手いこと言うなー!」
「翔太、デレデレすんなって!」
ドッと笑いが起き、タンバリンを叩く音がシャンシャンと耳障りに響く。
成功だ。場の空気は温まり、私は「ノリのいい可愛い子」としてのポジションを死守した。なのに、その安堵とは裏腹に、胃の奥底には冷たい鉛が沈殿していく感覚があった。
呼吸が浅い。密閉された空間で、酸素濃度がじわじわと下がっていく錯覚に襲われる。ストローでメロンソーダを啜ると、甘ったるい化学的なシロップの味が舌に絡みつき、喉を焼いた。
(……帰りたい)
心の声が、炭酸の泡のように湧き上がっては消える。
どうして私はここにいるんだろう。今日は家でゆっくり本を読むつもりだった。あるいは、こっそり学校に行って、あの静かな温室を覗いてみるのもいいかもしれないと思っていたのに。
けれど、「ミツキに彼氏候補紹介するから! 絶対来て!」というエリナの善意の押し売りを断れば、「やっぱり何か隠してる」と勘ぐられるリスクがあった。私は自分のついた嘘を守るために、自ら進んでこの息苦しい水槽の中に飛び込むしかなかったのだ。
「てかさ、ミツキちゃんって彼氏いんの?」
曲間の静寂に、翔太くんが爆弾を投下した。
テーブルの上の空気が一瞬止まり、エリナとユイがニヤニヤしながらこちらを見ている。来た。この尋問タイムを乗り切るために、私は今日ここに来たのだ。
「えー、いないよ。ずっとフリー」
まずはジャブのように否定から入り、相手の関心を引く。
「マジで? 絶対嘘だろ。これだけ可愛かったらモテるでしょ」
「ホントだよー。全然モテないし」
「じゃあさ、好きなタイプは?」
定番の質問。ここで「優しい人」とか「面白い人」と答えれば無難だが、それではエリナたちの疑惑を晴らせない。私は「気になる人がいる」という設定を、ここで確実に補強しなければならなかった。
私はグラスの水滴を指でなぞりながら、用意していたセリフを口にする。
「うーん……私、あんまりチャラチャラした人は苦手で……。どっちかっていうと、自分の世界を持ってる人、かな」
「自分の世界?」
「うん。無口でもいいから、何かに真剣に打ち込んでて……嘘をつかない人」
翔太くんが「おっと、俺ら脈ナシか?」と茶化し、周囲が笑う。
私は笑い返しながら、心の中で自嘲した。私が今口にした条件――無口、真剣、嘘をつかない。それは、このカラオケボックスにいる誰にも当てはまらない条件であり、私の知っている、世界で一番不器用な庭師のことだった。
「へー、意外と硬派なんだね」
エリナがマイクを握りながら割り込んでくる。
「でもミツキ、最近なんか雰囲気変わったもんねー。なんかこう、秘密抱えてる色気? みたいな?」
「やめてよ、恥ずかしい」
顔を伏せる。秘密。そう、私のワンピースのポケットの中には、冷たい銀色の鍵が入っている。この喧騒の中で、その鍵の存在だけが、私を正気につなぎとめていた。
モニターには流行りのラブソングの歌詞が流れている。『君に会いたい』『素直になりたい』という安っぽい言葉の羅列。でも今の私には、その安っぽさが羨ましかった。素直に誰かに会いたいと言える、その単純さが眩しい。
「じゃあさ、俺とかどう?」
不意に、翔太くんが私の肩に腕を回そうとしてきた。
馴れ馴れしいボディタッチと共に、強い香水の匂いが鼻をつく。甘い、ムスクの香り。
その瞬間、私の脳裏にあの温室の匂いがフラッシュバックした。湿った土と、錆びた鉄と、蓮見の汗と、雨の匂い。飾らない、生命そのものの匂い。
――生理的な拒絶反応だった。
私は反射的に身をよじり、彼の腕を避けて立ち上がってしまった。
ガタン、とテーブルが揺れ、メロンソーダがこぼれてテーブルクロスを緑色に染める。
「あ……」
部屋の空気が凍りついた。音楽だけが、空虚に流れ続けている。
翔太くんの手が空中で止まり、気まずそうな顔をしている。エリナとユイが、信じられないものを見る目で私を見上げていた。「空気を読む」ことにかけてはプロフェッショナルであるはずの一ノ瀬ミツキが、場の空気を粉々に破壊した瞬間だった。
「ご、ごめん! ちょっと、飲み物こぼしちゃって……お手洗い行ってくる!」
苦し紛れの言い訳を叫んで、私は部屋を飛び出した。背後で「え、大丈夫?」という声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
トイレの個室に逃げ込み、鍵をかける。
カチャリ、という金属音が響いて、ようやく呼吸ができた。
鏡に映った自分の顔は青白く、メイクが浮いて見える。頬に張り付いたままの作り笑いの残骸が、あまりにも醜悪だった。
「……何やってんの、私」
蛇口を捻り、冷たい水で手を洗う。メロンソーダのベタつきを洗い流しても、翔太くんの香水の匂いが鼻の奥に残っている気がして、何度も何度も執拗に手を擦った。
彼らは何も悪くない。翔太くんも、明るくて気さくな、普通のいい人だった。エリナだって、私を仲間外れにしないように気を使ってくれただけだ。
悪いのは私だ。
勝手に嘘をついて、勝手に息苦しくなって、勝手に拒絶して。
私は、自分が思っている以上に、あの温室の空気に侵食されているのだと気づかされた。
あの静寂。蓮見の遠慮のない視線。『玉ねぎみたいだ』と言われた時の衝撃と、仮面を剥がされた後のヒリヒリするような感覚。
あれを知ってしまった後では、このカラオケボックスの「優しさ」も「楽しさ」も、全部が分厚いオブラートに包まれた味のしないガムみたいに思えてしまう。
ポケットからスマホを取り出す。時刻はまだ二時半。あと二時間は、この苦行が続く。
ふと、スマホの画面に通知が来ていないか確認してしまう自分がいた。誰からの? 蓮見からの連絡なんて来るわけがない。そもそも連絡先すら交換していないのだ。私たちはただの「共犯者」であって、友達ですらないのに。
「……バカみたい」
濡れた手をハンカチで拭う。真っ白なハンカチ。
昨日のブラウスについた黒い汚れは、結局、漂白剤を使っても完全には落ちなかった。薄い灰色のシミとなって、繊維の奥に残っている。
私はそのシミを指でなぞった。戻りたい。今すぐここから消えて、あの薄暗くて、埃っぽい場所に行きたい。
個室を出ると、廊下の向こうから別の部屋の歌声が漏れ聞こえてくる。
私は深呼吸をして、再び「一ノ瀬ミツキ」の仮面を被り直した。笑顔、謝罪、言い訳。私の武器はそれしかない。
部屋に戻ると、微妙な空気が漂っていた。翔太くんは少し拗ねたようにスマホをいじっていて、エリナが必死に場を盛り上げようとしている。
「あ、ミツキおかえりー! 大丈夫だった?」
「ごめんごめん! ちょっと服濡れちゃって乾かしてた! さ、歌お歌お!」
私はマイクを奪い取り、一番盛り上がる曲を入れた。タンバリンを叩き、ステップを踏み、大声で歌う。道化だ。私は必死に踊るピエロだ。
歌いながら、窓のない壁に描かれた偽物の夜景を見る。
ビルの隙間から見えるはずの空を想像する。あの日、温室から見た夕焼けの鮮やかさを思い出す。
(早く、五時になれ)
祈るように願いながら、私はサビの高音を張り上げた。
喉が張り裂けそうだったけれど、この痛みだけが、今の私に許された唯一の贖罪のような気がした。
グループデートという名の集団演技の中で、私が学んだのは、彼氏を作る方法でも、場を盛り上げるテクニックでもない。
私はもう、この「普通の幸せ」というサイズの靴には、足が入らなくなってしまったという絶望的な事実だけだった。
(第6話 完)
次回は、明日19:15に更新予定です。
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