第8話 巨大ネギ坊主の秘密

 月曜日の朝というものは、地球の重力が通常の二倍になっているのではないかと疑いたくなるほど、すべてが重たい。

 教室の引き戸を開けるには、物理的な筋力だけでなく、精神的な筋力がいつもの倍以上必要だ。そこは「学校」という名の巨大な水槽であり、私たちは制服という鱗を纏って、淀んだ水の中でエラ呼吸を強いられる魚のようだ。


「あ、ミツキおはよー! 昨日はすごく焦ってたけど、大丈夫?」


 教室に一歩足を踏み入れた瞬間、エリナの声が飛んできた。

 私は反射的に口角を四十五度持ち上げ、眉尻を下げて「心配をかけて申し訳ない」という表情のマスクを装着する。この一連の動作は、もはや脊髄反射の域に達していた。


「うん、ありがとう。昨日は急にごめんね。ちょっとお母さんが貧血起こしちゃったみたいで……でも、もう平気だから」

「そっか、よかったー! 昨日のミツキ、なんか顔色悪かったし、すごい心配してたんだよ。ねー、ユイ?」

「そうそう! ミツキがいないと盛り上がんないし」


 エリナが私の二の腕を優しく撫でる。その手のひらの温かさが、昨日ついた嘘の冷たさを際立たせるようで、私は小さく身を縮めた。

 彼女たちは優しい。私のついた安っぽい嘘を微塵も疑わず、本気で身を案じてくれている。その純粋な善意が、今の私には鋭利な刃物のように痛かった。私は彼女たちの信頼を裏切り、その裏側で舌を出している詐欺師だ。笑顔の下で腐臭を放つ嘘を抱えながら、聖人のふりをして座っている。


 一時間目の現代文。

 教師の単調な声が、眠気を誘う呪文のように教室を漂っていた。

 私は教科書を開いたまま、窓の外をぼんやりと眺める。校庭の向こう、鬱蒼とした木立に隠れるようにして建つ旧校舎の屋根が、陽炎の向こうに小さく見えた。

 昨日の夕方、あそこで過ごした時間だけが、セピア色の古い映画のワンシーンのように、現実味のない記憶として脳裏に焼き付いている。泥だらけになったパンプス、はだけたカーディガン、そして『お前は臭い』と言い放った庭師の、ぶっきらぼうで不器用な優しさ。


 スカートのポケットの上から、そっと指を這わせる。

 硬い金属の感触。あの銀色の鍵だ。

 それは夢じゃなかった。

 指先に伝わる冷たさだけが、私が「一ノ瀬ミツキ」という虚構の役柄ではなく、生身の人間であることを保証してくれる命綱だった。早く放課後にならないかな。そんな小学生みたいな願いを、私は数分おきに教室の時計を見ては繰り返していた。秒針の動きがあまりにも遅く、まるで時間そのものが粘着質の液体の中を泳いでいるようだった。


 午後四時。

 終業のチャイムが鳴り響くと同時に、私は「今日は塾の三者面談があるから」という新しい嘘をついて席を立った。嘘のレパートリーだけが増えていく自分が情けないけれど、背に腹は代えられない。エリナたちの「えー、また?」という不満げな声を背中で受け流し、私は逃げるように教室を脱出した。


 渡り廊下を抜け、人気のない旧校舎への小道を急ぐ。

 太陽はわずに傾きかけ、校舎の長い影がアスファルトを黒く染め始めていた。

 錆びついた扉の前で立ち止まり、周囲を警戒しながら合鍵を取り出す。カチリ、という解錠音が、私にとっては「呼吸開始」の合図だ。

 扉を開けると、いつもの湿った土の匂いと、濃厚な緑の香りが私を抱きしめた。

 深呼吸。肺の奥深くまで溜まっていた教室の殺菌された空気をすべて吐き出し、この泥臭くて生温かい空気に入れ替える。


「……遅い」


 温室の奥から、低い声がした。

 蓮見だ。

 彼はいつもの作業台の前ではなく、温室の一番日当たりの良い南側のエリア、ガラス越しに西日が強く差し込む場所に立っていた。

 逆光で表情は見えないが、彼の足元には、私の腰ほどの高さまである大きな鉢植えが置かれているのが見えた。


「ごめん、掃除当番が長引いちゃって。……それ、何?」


 私が近づくと、彼は得意げというよりは、何かを試すような、あるいは悪戯を仕掛ける子供のような顔でその植物を指差した。


「今日、やっと咲いたんだ。……お前に見せてやろうと思って」


 彼の視線の先にあるものを見て、私は思わず目を丸くした。

 それは、異様で、かつ圧倒的に美しい植物だった。

 スッと定規で引いたように真っ直ぐ伸びた太い茎。その先端に、ソフトボールくらいの大きさの、鮮やかな紫色の球体が鎮座している。

 近づいてよく見ると、それは一つの大きな花ではなく、無数の小さな星型の花が密集してできた、完璧な球体だった。

 まるで、夜空に打ち上がった紫色の花火が、一番美しく開いた瞬間のまま空中で凍りつき、そのまま植物になってしまったかのような形をしている。


「……何これ? すごい、変な形」

「変とは失礼だな。幾何学的奇跡と言え」

「だって、魔法使いの杖みたいだし……これ、なんて花?」


 私が顔を近づけて覗き込むと、蓮見はニヤリと口の端を吊り上げた。


「アリウム・ギガンチウム」

「アリウム……?」

「ラテン語だ。和名で言うと、『ハナネギ』だ」


「……ネギ?」


 私が聞き返すと、彼はポンと太い茎を指先で叩いた。


「そう、ネギ。玉ねぎや長ネギの仲間だ。この紫色の丸いのは、言ってみれば巨大なネギ坊主ってわけだ」


 私はまじまじとその紫色のボールを見つめた。

 ネギ。玉ねぎ。

 いつも私が彼に馬鹿にされている、あの野菜の仲間。スーパーで赤いネットに入って安売りされている、茶色い皮を被ったあの地味な玉ねぎが、こんなに鮮やかで、こんなに堂々とした花を咲かせるなんて信じられなかった。


「……嘘みたい」

「嘘じゃない。植物図鑑を見てみろ」

「だって、玉ねぎよ? 切ると涙が出て、皮ばっかりで……」

「玉ねぎだって、人間に食われずに、皮を剥かれずに、じっくり土の中で栄養を蓄えれば、こうやって花を咲かせるんだ」


 蓮見は愛おしそうに、紫色の球体に触れた。その指先は、いつも土いじりをしている無骨な手とは思えないほど繊細で、優しく見えた。


「お前は自分のことを『中身がない』って言ってたよな。剥いても剥いても皮だけで、核がない、空っぽだって」


 ドキリとする。

 一番痛いところを、また蒸し返される。彼は私の傷口を消毒もせずに開く天才だ。


「でもな、その何重もの皮は、中心にあるこの花を守るためにあるのかもしれないぞ」


 彼は私を見た。

 夕日が差し込む温室の中で、彼の薄い茶色の瞳がガラス玉のように透き通って見える。そこには私をからかう色はなく、ただ植物の生態を語る研究者のような真剣さがあった。


「今はまだ、皮を被って自分を守ってるだけでもいい。中身がないんじゃなくて、まだ咲く準備ができてないだけかもしれない。……こいつみたいにな」


 言葉が出なかった。

 玉ねぎ。

 空虚で、涙を出させる厄介な野菜。ずっとコンプレックスだったその言葉が、彼というフィルターを通すと、まるで「希望」の同義語のように聞こえるから不思議だ。

 私は恐る恐る、その紫色の花に手を伸ばした。

 指先で触れると、小さな星型の花びらの一枚一枚が、確かに呼吸をしているような弾力と、微かな湿り気を帯びていた。

 温かい。

 西日を吸い込んだせいだろうか。植物なのに、動物のような体温があるみたいだ。


「……これ、私にも咲かせられるかな」


 小さく呟いた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 蓮見は肩をすくめ、じょうろを手に取った。


「さあな。水やりをサボらなきゃ、可能性はあるんじゃないか? お前は根腐れさせなきゃ育つタイプみたいだし」

「一言多いわね」


 私がむくれて見せると、彼は喉の奥でクックッと笑った。その笑顔は、いつもの皮肉めいたものではなく、どこか春の陽射しのような穏やかさを含んでいた。

 

 温室のガラス越しに、燃えるような夕焼けが紫色の花を照らしている。

 アリウム・ギガンチウム。

 巨大なネギ坊主。

 不格好で、頭でっかちで、でもどこか誇らしげに胸を張るその姿は、教室で縮こまって嘘をついている私よりも、ずっと堂々として美しかった。


「……綺麗ね」

「ああ。俺もそう思う」


 蓮見の「そう思う」は、花のことなのか、それとも夕日のことなのか、あるいは別の何かを指しているのか。

 私は彼の方を見ることができず、ただ目の前の紫色の球体を見つめ続けた。胸の奥にある、冷たくて硬い自己嫌悪の塊が、少しずつ、バターのように溶けていくのを感じる。


 私は空っぽじゃないのかもしれない。

 まだ、準備中なだけ。

 そう思わせてくれるこの場所が、そしてこの無愛想な庭師の存在が、私にとってはどんな高価な肥料よりも必要な栄養素なのだと、自覚せずにはいられなかった。

 紫色の花火は、音もなく静かに、私たちの間に咲き続けていた。それは、私が初めて誰かに見せた「本当の顔」を、優しく祝福してくれているようだった。


(第8話 完)


 次回は、本日18:15に更新予定です。

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