第5話 ニセモノの恋の予感

 秘密というものは、劇薬だ。

 たった一滴、日常に垂らすだけで、世界の色味を一変させてしまう。


 翌日の教室。

 私の視界は、昨日までとは明らかに違っていた。

 黒板の文字も、クラスメイトの笑い声も、窓の外の景色も、すべてが薄い膜の向こう側にあるように感じられる。

 なぜなら、私のポケットの中には、あの冷たい銀色の鍵が入っているからだ。

 授業中、スカートのポケットに手を入れると、指先に触れる硬質な感触。その冷たさだけが、私と「向こう側の世界」を繋ぐ命綱だった。


「ねえ、ミツキ。聞いてる?」


 昼休み。机を囲んで弁当を広げていると、不意に鋭い声が飛んできた。

 ハッとして顔を上げると、エリナが箸を止めて私を凝視している。


「あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてて……何だっけ?」

「だからぁ、最近ミツキ、なんか雰囲気変わったなって話」


 心臓が嫌な音を立てた。

 エリナの目は笑っていない。猛禽類が獲物の動きを見定めるような、観察する目だ。


「そう? 全然変わってないと思うけど」

「ううん、違う。なんかこう……上の空っていうか。放課後もすぐいなくなっちゃうし」


 ユイも卵焼きを頬張りながら、「確かにー」と追撃してくる。

 マズい。

 私の「擬態」にノイズが走っている。

 完璧なイエスマンであるはずの一ノ瀬ミツキが、最近は群れの行動を乱している。その微細な違和感を、彼女たちは敏感に嗅ぎ取ったのだ。


「もしかしてさー」


 エリナが声を潜める。その瞬間、周囲の空気が真空になったように張り詰めた。


「彼氏、できた?」


 ドクン、と脈が跳ねる。

 教室の喧騒が一瞬遠のいた。

 否定しなければ。全力で首を横に振って、「そんなわけないじゃん!」と笑い飛ばさなければ。

 けれど、私の喉はカラカラに乾いていて、声が出ない。

 否定すればするほど、「じゃあ何をしてたの?」という追及が始まる。旧校舎裏での密会。合鍵の共有。あの場所が見つかることだけは、絶対に避けなければならない。


 沈黙が落ちる。一秒、二秒。

 その沈黙を、エリナは「肯定」と受け取った。


「えっ、嘘! マジで!?」

「顔赤いよミツキ! 図星じゃん!」


 違う。これは焦りの赤面だ。

 でも、沸き立つ彼女たちを前に、私は後戻りできない場所に足を滑らせていた。


「えっと、その……彼氏っていうか、まだ、ちょっと気になる人がいるだけ……かも」


 あーあ。言ってしまった。

 保身のために吐いた、一番安易で、一番タチの悪い嘘。


「キャー! やっぱり! 誰? ウチの学校の人? 何組?」

「どんな人なの? 写真ないの?」


 質問の嵐が吹き荒れる。

 私は引きつった笑顔で、脳内にある「架空の彼」を必死に構築し始めた。


「えっと、そんな、みんなが知ってるような目立つ人じゃなくて……」

「じゃあ地味メン? でもミツキが選ぶんだから、隠れイケメンとか?」

「うーん、まあ……ちょっと無愛想なんだけど、話すと意外と深くて……」


 嘘に嘘を重ねる作業は、ジェンガに似ている。

 崩れないように、慎重に、言葉を選んで積み上げていく。


「あと、すごい手先が器用で……職人さんみたいっていうか」

「何それマニアック! 理系男子?」

「う、うん。植物とか、好きみたいで……」


 はっとして口をつぐんだ。

 私が無意識に語っていた人物像。

 無愛想。職人肌。植物好き。

 それは、私の知っている「彼」そのものだったからだ。


「へー、植物系男子? 新しいねー」

「今度絶対紹介してよね! ダブルデートしよ!」


 盛り上がるエリナたちを前に、私は曖昧に頷くしかなかった。

 胃のあたりが重い鉛を飲んだように沈んでいく。

 最低だ。

 私は自分を守るために、あの偏屈な庭師を、都合のいい「恋人候補」として消費したのだ。


 放課後のチャイムが鳴ると同時に、私は逃げるように教室を出た。

 背中に突き刺さる「応援してるよ!」という無邪気な声援が、罪悪感となって私を急き立てる。


 旧校舎への道。

 いつもなら深呼吸できる場所なのに、今日は足取りが重い。

 ポケットの中の鍵を握りしめる。

 この鍵を使う資格が、嘘つきの私にあるんだろうか。


 温室の前まで来ると、扉は少しだけ開いていた。

 中から、土の匂いと共に、シャリ、シャリ、という静かな音が聞こえてくる。


「……遅かったな」


 中に入ると、蓮見が作業台に向かって何かをしていた。

 手元には小さなハサミと、多肉植物の鉢。


「今日は顔色が悪いぞ。腐りかけの野菜みたいだ」


 彼は私の方を見ずに言った。

 相変わらずの減らず口。でも、その変わらなさが、今の私には痛かった。


「……うるさいわね。ちょっと疲れてるだけ」


 私は鞄をベンチに放り出し、いつもの場所に座り込んだ。

 蓮見の手元を見る。

 彼は多肉植物の葉を一枚一枚丁寧に切り取り、乾いた土の上に並べていた。


「何してるの?」

「葉挿し。多肉植物は、葉っぱ一枚からでも根を出して増える。生命力の塊だ」


 彼はピンセットで、切り取った小さな葉を愛おしそうに土に置く。

 その横顔は、私が教室で語った「職人肌の彼」そのものだった。

 無愛想だけど、優しい手つき。

 胸の奥がチクリと痛む。


「ねえ、蓮見」

「ん?」

「もし私が……あんたのこと好きだって言ったら、どう思う?」


 口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

 温室の空気がピタリと止まる。

 シャリ、という音が消えた。


 蓮見の手が止まる。

 彼はゆっくりと顔を上げ、私をまじまじと見た。

 その瞳には、照れも期待もなかった。あるのは、新種の害虫を見るような訝しげな光だけ。


「……お前、熱でもあるのか? それとも新手の嫌がらせか?」


 心底呆れたような声。

 私は顔が熱くなるのを感じながら、慌てて取り繕った。


「た、たとえ話よ! もしも、の話!」

「なんだ。びっくりさせんなよ」


 彼は興味なさそうに、再び手元の葉っぱに向き直った。


「どう思うって、別に。お前の趣味が悪いなと思うだけだ」

「……何それ。ひどくない?」

「事実だろ。俺みたいな根暗な土いじりが、お前の彼氏として成立するわけがない」


 彼は淡々と、植物の分類をするように言葉を並べた。


「お前は『一ノ瀬ミツキ』だぞ。クラスの中心で、常に笑顔で、みんなに好かれてる優等生。そういう奴の隣には、もっとこう、ひまわりみたいに分かりやすくて明るい奴がいるべきだ。俺みたいな日陰の苔じゃなくてな」


 グサリと、何かが刺さった。

 彼は自分を卑下しているわけじゃない。ただ論理的に、生態系として「釣り合わない」と言っているだけだ。

 でも、その言葉は私にこう突きつけていた。

 ――お前は『偽物の自分』を生きているんだから、隣に置く人間も『その偽物に似合う相手』を選べ、と。


「……あんたって、本当に可愛げがない」

「褒め言葉として受け取っとく」


 蓮見は作業を終え、手をパンパンと払った。

 私は膝の上で拳を握りしめた。

 悔しい。

 何が悔しいのか分からないけれど、涙が出そうだった。

 私が今日ついた嘘は、確かに「ニセモノ」だ。

 でも、今ここで感じている、彼に「似合わない」と言われた時のこの痛みは、本物なんじゃないか。


 ふと、作業台の隅に置かれた小さなサボテンが目に入った。

 丸くて、棘がいっぱい生えていて、決して人を寄せ付けない形。


「……あのさ」

「なんだよ」

「このサボテン、私が育ててもいい?」


 蓮見は怪訝そうな顔をした。


「サボテン? お前、花とかもっと可愛いのが好きなんじゃないのか」

「これがいいの。……なんか、ムカつく形してるから」


 私が指差すと、彼は短くため息をついた。


「好きにしろ。ただし、水はやりすぎるなよ。お前は世話焼きすぎて、根腐れさせて殺すタイプだからな」

「うるさいわね。今度はちゃんとやるわよ」


 私はその小さな鉢を両手で包み込んだ。

 指先に触れる棘の感触。

 チクリとした痛みが、嘘で麻痺しかけていた私の感覚を呼び覚ます。


 ニセモノの恋の予感。

 教室のみんなを欺くために作り上げた虚像。

 だけど、その虚像のモデルになったこの男は、私の掌に棘を刺してくる。

 

「……痛い」


 小さく呟くと、蓮見が「当たり前だ、サボテンだぞ」と笑った。

 その無防備な笑顔を見た瞬間、私は認めたくない事実を飲み込んだ。

 この痛みは、心地いい。

 私は、この「共犯者」との時間を、もう手放せなくなっているのだと。


 夕日が差し込む温室の中で、私は棘だらけのサボテンを抱きしめるように持っていた。

 外の世界では嘘つきの私でも、ここではただの、サボテンを育てる不器用な園芸部員でいられるような気がした。


(第5話 完)


 次回は、明日19:15に更新予定です。

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