第4話 放課後の共犯者
「じゃあねミツキ、また明日!」
「うん、バイバイ! LINEするね」
教室を出た瞬間、重力に従って口角が落ちる。
頬の筋肉が痛い。
廊下を歩きながら、私は早々に「一ノ瀬ミツキ」のスイッチを切った。
誰にも会わないように、足早に渡り廊下を抜ける。
目指すは旧校舎裏。
あそこに行けば、酸素がある。あの偏屈な庭師がいる。
最近の私は、まるで中毒患者のように放課後のその時間を渇望していた。
錆びたドアノブを回す。
いつもの湿った空気の中に、今日はツンとする鉄の臭いが混じっていた。
「……何してるの?」
中に入ると、蓮見が脚立の上に立っていた。
袖をまくり、額に汗を浮かべて、天井の鉄骨と格闘している。
「あ、玉ねぎか」
彼は私を一瞥すると、すぐに視線を手元に戻した。
「雨漏りの修理。昨日の雨で、ここから水が垂れてきてたから」
「へえ……業者さんみたい」
「管理人がいないんだから、自分でやるしかないだろ」
ギギ、とレンチを回す音が響く。
普段、教室では気配を消している彼が、ここでは誰よりも生き生きとして見えた。
額の汗を手の甲で拭う仕草。真剣な眼差し。
その横顔を見ていたら、ベンチに座って見ているだけなのが申し訳なくなってきた。
「何か手伝おうか? 脚立支えるとか、道具渡すとか」
「いらない」
「なによ、即答しなくてもいいじゃない」
私が脚立に近づこうとすると、蓮見は作業の手を止めて、私を見下ろした。
「来るな。汚れるぞ」
「平気よ。私、そんなにヤワじゃないし」
「その恰好で言うなよ」
彼は呆れたように、私の胸元を指した。
「真っ白なブラウスだろ。上から錆びた鉄粉やら油やらが降ってくるんだぞ」
言われて、自分の服を見る。
今朝アイロンをかけたばかりの、一点の曇りもない白ブラウス。
「……別に、予備くらいあるもん。汚れたら着替えればいいし」
「甘いな」
「はあ?」
「もし汚して、着替えるためにトイレに行くとして。すれ違う奴らに何て説明するんだ? 『旧校舎裏で鉄骨修理してました』って言うのか?」
言葉に詰まる。
それは困る。
私が恐れているのは「服が汚れること」じゃない。「説明できない汚れ」がつくことだ。
放課後、どこで何をしていたら、背中に赤錆と機械油をつけて帰ってくることになるのか。その不自然さは、必ず誰かの好奇心を刺激する。
「……わかったわよ。大人しくしてればいいんでしょ」
私は唇を尖らせて、いつものベンチに腰を下ろした。
彼はふんと鼻を鳴らし、また作業に戻る。
カン、カン、というハンマーの音。
憎まれ口を叩き合いながらも、この空間を共有している心地よさ。私は文庫本を開きながら、この穏やかな時間がずっと続けばいいのにと思っていた。
その時だった。
ジャリ……ジャリ……。
入り口の方で、砂利を踏みしめる音がした。
風の音じゃない。誰かの足音だ。
弾かれたように顔を上げる。
脚立の上の蓮見も動きを止めた。鋭い目が入り口を睨んでいる。
『――おい、こっちの鍵が開いてるぞ』
低い男の声。
心臓が跳ね上がった。生活指導の竹内先生だ。
「嘘……先生だ」
声が震えた。
蓮見が音もなく脚立から飛び降りる。
『園芸部はもう廃部になったはずだが……』
『ちょっと中を確認してみましょう』
ノブがガチャガチャと回される。
見つかる。
頭の中が真っ白になった。
立ち入り禁止場所への侵入? いや、そんなことより――「優等生のミツキが、男子と二人きりで廃墟にいた」という事実が広まるのが怖い。
好奇の目。あることないこと書かれる裏サイト。
私が必死に守ってきた居場所が、一瞬で消し飛ぶ。
「来い!」
蓮見が私の手首を掴んだ。
痛いほど強い力。
考える間もなく、私は彼に引かれて走り出した。
温室の最奥、背の高い熱帯植物が茂るエリア。
肥料袋の裏側の、大人一人がやっと隠れられる隙間に二人で滑り込む。
直後、キィィィと扉が開いた。
『誰かいるのかー?』
懐中電灯の光が、温室の中を走り回る。
私は息を止め、両手で口を覆った。
蓮見の背中が、すぐ目の前にある。
彼の肩と私の肩が密着している。
土の匂い。汗の匂い。
彼の速い鼓動が伝わってくるのか、それともこれは私の鼓動なのか。心臓の音がうるさすぎて、外に聞こえてしまいそうだ。
ふと、袖口に違和感があった。
暗がりで目を凝らすと、ブラウスの袖に黒い汚れがついている。
さっき肥料袋の角に擦ったのだ。
ああ、やっぱり。
でも不思議と、ショックはなかった。
むしろ、この「消えない汚れ」が、今の私を証明している気がして、背筋がゾクゾクした。
『……誰もいないみたいですね』
『いたずらで誰かが明けたのか? ったく』
光の筋が、私たちの頭上を通り過ぎていく。
蓮見が、私を隠すように少し体をずらした。
もし見つかったら、こいつは一人で出ていくつもりだ。そういう奴だ。
私は無意識に、彼のシャツの裾をギュッと掴んでいた。
『念のため、鍵閉めておきますね』
『ああ、頼む』
ガチャリ。
扉が閉まる音。
そして、ジャラジャラという鍵束の音と共に、重々しい施錠音が響いた。
カチャリ。
その乾いた音は、私たちを世界から完全に隔離した。
足音が遠ざかっていく。
完全に気配が消えるまで、私たちは数十秒、石像のように固まっていた。
やがて、蓮見がふぅと長く息を吐き、体の力を抜いた。
「……行ったか」
「し、死ぬかと思った……」
私はへなへなとその場に座り込んだ。
足が震えて力が入らない。
怖かった。本当に怖かった。
なのに、喉の奥から乾いた笑いが込み上げてくる。
「ねえ、ちょっと待って」
笑いそうになるのを堪えて、私は言った。
「鍵、かけられちゃったんじゃない?」
「ああ、そうだな」
「『そうだな』じゃないでしょ! どうすんのよ、出られないじゃない!」
閉じ込められた。
普通ならパニックになる場面だ。
でも、蓮見は焦るどころか、楽しそうに口の端を吊り上げた。
「大丈夫だ」
彼はポケットから、チャリと音を立てて何かを取り出した。
夕闇の中で鈍く光る、銀色の鍵。
「……え?」
「合鍵。前に落ちてたのを拾って、こっそり作っておいた」
「はあ!? それ犯罪じゃ……」
「正当防衛であり、環境保全活動だ」
彼は悪びれもせずに胸を張った。
「ここが施錠されたら、植物は全滅する。水やりも換気もできない。俺が管理できなくなったら、こいつらは干からびて死ぬだけだ。だから、俺が持ってる」
めちゃくちゃな理屈。
校則よりも、植物の命が大事。
そのブレない価値観が、今の私にはどうしようもなく眩しかった。
彼は立ち上がり、私に手を差し出した。
節くれだった、土と油で汚れた手。
「ほら、立てるか? 共犯者」
「……共犯者?」
「お前も、俺がここを不法占拠してるのを知ってて黙認した。挙句、一緒に隠れた。もう同罪だろ」
共犯者。
その言葉が、甘い毒のように胸に広がっていく。
優等生の私が、初めて手に入れた「悪いこと」。
誰にも言えない秘密。
私は苦笑して、その手を掴んだ。
温かくて、硬い手。
「……ずるい言い草」
「事実だろ」
彼の手を借りて立ち上がると、心の中の何かが、カチリと音を立てて外れた気がした。
あるいは、私という空っぽな器の中に、初めて確かな「芯」が入ったような。
蓮見は合鍵を使って、内側から器用に錠を開けた。
外に出ると、世界はすっかり茜色に染まっていた。
「……ほら、これ」
蓮見は今しがた使った合鍵を、私に差し出した。
「もし俺がいない時に入りたくなったら、使えばいい」
「……いいの?」
「一人は寂しいからな。……植物が」
「素直じゃないわね」
私がクスリと笑うと、彼もふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。夕日に照らされた彼の耳が、少しだけ赤い。
帰り道。
私はブラウスの袖についた黒い汚れを指でなぞりながら、一人で歩いた。
予備のブラウスに着替えれば、明日の私はまた完璧な一ノ瀬ミツキに戻れる。
でも、この汚れがついた瞬間の高揚感だけは、どんなに洗濯しても落ちそうになかった。
スカートのポケットに手を入れると、指先に冷たくて硬い金属の感触が触れる。
学校中が知らない、二人だけの秘密基地への鍵。
私は空を見上げて、小さく息を吐いた。
今日の夕焼けは、今まで見たどんな景色よりも、鮮やかで、目に沁みた。
(第4話 完)
次回は、明日19:15に更新予定です。
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