第3話 玉ねぎ娘と、正直な庭師

 人間は、一日におよそ二万回呼吸をするらしい。

 そのうち、私が「美味しい」と感じる呼吸は、一体何回あるだろうか。


「えー、マジで? それユイの勘違いじゃない?」

「違うってば! あっちが先に無視してきたんだもん!」


 昼休みの教室。私、一ノ瀬ミツキの席は、またしても紛争の調停裁判所になっていた。

 原告はグループの一員であるユイ。被告は隣のクラスの女子。案件は「廊下ですれ違った時に挨拶をしたのに無視された」という、ありふれた、しかし女子高生にとっては核戦争の引き金になりかねない重大インシデントだ。


「ミツキもそう思うでしょ? あの子、最近調子乗ってるよね」


 同意を求めるユイの視線。周囲の女子たちも「ここでミツキがどうジャッジするか」を固唾を飲んで見守っている。

 私は脳内の外交マニュアルを高速でめくる。

 ユイの自尊心を守りつつ、隣のクラスとの全面戦争を回避し、なおかつ私自身が「悪口を言っていた」という証拠を残さない絶妙なライン。


「うーん、もしかしたらコンタクトの調子が悪かったとか? ほら、あの子、最近カラーコンタクト変えたって噂聞いたし。気づかなかっただけかもよ?」


 私は「悪意の不在」という可能性を提示して、矛先を逸らす。

「えー、そうかなあ」とユイの怒りのトーンが少し下がる。よし、火消し成功。

 ……疲れる。

 本当に、疲れる。

 私は笑顔を保ったまま、机の下で拳をきつく握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、私の意識をなんとか繋ぎ止めていた。


 放課後のチャイムが鳴った瞬間、私は「今日は委員会があるから」と嘘をついて教室を飛び出した。

 委員会なんてない。あるのは、酸素不足による窒息の危機だけだ。

 足は自然と、あの場所へ向かっていた。


 旧校舎裏の温室。

 昨日、「もう二度と来るものか」と誓ったばかりの場所に、たった二十四時間で舞い戻ってくるなんて、我ながらプライドがないにも程がある。

 でも、背に腹は代えられない。今の私には、あそこ以外に呼吸ができる場所がないのだ。


 キィ、と錆びついた扉を開ける。

 三度目の訪問。

 むっとした湿気と緑の匂いが、不思議と「帰ってきた」という安堵感を連れてくる。


「……また来たのか」


 奥の作業台で土をいじっていた蓮見が、呆れたような声を出した。

 今日も彼はそこにいた。まるでこの温室の一部であるかのように。


「悪い? 場所は貸してやるって言ったのはそっちじゃない」

「言ったけど、皆勤賞狙う勢いで来るとは思わなかったな」


 皮肉めいた口調だが、追い出そうとする気配はない。

 私は昨日と同じベンチにドスンと腰を下ろした。鞄を投げ出し、ネクタイを少し緩める。

 ここに入った瞬間、教室で張り詰めていた空気がシュウウと抜けていくのがわかる。


 蓮見は私の方を見ようともせず、黙々と作業を続けている。

 今日は小さなポットに種を植えているようだ。ピンセットのような道具で、微細な種を一粒ずつ土の上に置いている。


「……何してるの?」


 沈黙に耐えかねて、つい聞いてしまった。

 別に会話がしたいわけじゃない。ただ、この静寂があまりにも心地よくて、逆に不安になっただけだ。


「種まき。カモミールだ」

「カモミールって、あのハーブティーの?」

「そう。光好性種子(こうこうせいしゅし)だから、土は被せない。光が当たらないと発芽しないんだ」


 へえ、と気の抜けた相槌を打つ。

 彼は繊細な手つきで作業を続ける。


「お前とは逆だな」


 不意に、彼が言った。


「は?」

「お前は、光が当たると死ぬタイプだろ。土の中に隠れてないと息ができない」

「……いちいち一言多い性格、直した方がいいよ」


 私が睨むと、彼は初めてこちらを見て、鼻で笑った。

 馬鹿にされた感じではない。どこか面白がっているような、少年のような笑みだった。

 ドキリとする。

 無愛想な能面が崩れると、案外、年相応の顔をしている。


「で、今日はどんな嘘をついてきたんだ? 玉ねぎ娘」

「たま……っ!?」


 私は絶句した。

「な、なにその呼び方! 最悪なんだけど!」

「一ノ瀬って呼ぶよりしっくりくる。皮ばっかりで中身がないから」

「中身はあるわよ! ただ……見せてないだけ!」

「見せてない中身は、無いのと同じだ」


 蓮見は作業台の脇から、古びたポットと紙コップを取り出した。

 温室の隅にある電気ポットでお湯を注ぐ。爽やかな香りが漂う。


「ほら」

「……何これ」

「レモンバーム。鎮静作用がある。お前のその張り付いた神経にはちょうどいいだろ」


 差し出された紙コップ。

 毒が入っているわけじゃあるまいし。私はお礼も言わずにそれを受け取った。

 口をつけると、レモンのような爽やかな香りと、草っぽい野性味が広がった。

 温かい。

 胃の中に温もりが落ちていくと、強張っていた肩の力がふっと抜けた。


「……ありがと」

「どういたしまして」


 彼は自分の分のコップを持って、少し離れたパイプ椅子に座った。

 近くも遠くもない、絶妙な距離感。

 向かい合って話すわけでもなく、ただ同じ空間にいて、別々の方向を向いてお茶を啜る。

 教室ではありえない沈黙。

 教室なら、沈黙は「気まずさ」だ。誰かが喋り続けないと、関係性が崩れてしまう恐怖がある。

 でも、ここでは沈黙が許された。植物たちが静かに呼吸しているように、私たちもただ、そこにいるだけでよかった。


「ねえ」

「ん?」

「あんたはさ……怖くないの?」


 コップの湯気越しに、私は彼に問いかけた。


「何が?」

「誰からも好かれないこと。変な奴だって思われて、孤立すること」


 彼は不思議そうに首を傾げた。


「好かれるために、自分じゃないものになる方が怖くないか?」


 その言葉は、あまりにもシンプルで、鋭かった。

 

「俺は植物が好きだ。植物は嘘をつかない。水が足りなきゃ枯れるし、日が当たれば伸びる。シンプルだ。でも人間は、笑いながら怒ったり、泣きながら喜んだり、わけがわからない」

「それが人間関係ってものよ」

「面倒くさい。俺は、俺のことを理解できる奴だけが周りにいればいい。理解できない奴に好かれても、それは『俺』が好かれてるわけじゃないだろ」


 ――理解できない奴に好かれても、それは『俺』が好かれてるわけじゃない。


 ガツン、と頭を殴られたような気がした。

 私は今まで、何をしていたんだろう。

 みんなに好かれたくて、エリナに合わせて、クラスの空気に合わせて、完璧な「ミツキちゃん」を演じてきた。

 でも、みんなが好きなのは「都合のいいミツキちゃん」であって、本当の私じゃない。

 もし私が仮面を外したら、あの子たちは一瞬で私を捨てるだろう。

 だとしたら、私は誰からも愛されていないのと同じじゃないか。


「……あんた、本当に庭師みたいね」

「将来は造園家になるつもりだけど」

「そうじゃなくて。……バサバサと、容赦なく切り落とすから」


 私の痛いところを。隠しておきたかった矛盾を。

 蓮見は「また変なことを言っている」という顔をして、コップの中身を飲み干した。


「剪定は、木を生かすためにやるんだ。殺すためじゃない」


 彼は立ち上がり、空になったコップを潰した。


「お前のその何重もの皮も、そろそろ一枚くらい剥がないと、中で腐るぞ」


 彼はそう言い残して、また作業台へと戻っていった。

 私は手の中の温かくなった紙コップを握りしめた。

 

 玉ねぎ娘。

 最悪のあだ名だ。

 でも、不思議と腹は立たなかった。

「いい子」とか「優しい」とか、そんな空虚な褒め言葉より、ずっと私という人間を見ている気がしたからだ。


「……腐る前に、か」


 ポツリと呟く。

 温室のガラス越しに見える空は、茜色に染まり始めていた。

 明日もまた、私は教室という戦場で仮面を被るだろう。

 けれど、ここに来れば、この正直すぎる庭師が、その仮面を無理やり剥がしてくれる。

 それが、今の私には救いのように思えた。


「ごちそうさま。……また明日も、来るから」


 私が言うと、蓮見は背中を向けたまま、ヒラヒラと片手を振った。

 拒絶ではない、適当な肯定。

 私は少しだけ軽くなった足取りで、温室を後にした。


(第3話 完)



 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 明日からも、毎日更新していきます。


「続きが気になる」「二人の関係が好き」と少しでも思っていただけたら、 作品フォローや★評価で応援していただけると執筆の励みになります。


 どうぞ、最後まで二人の行く末を見守ってください。

 次回は、明日19:15に更新予定です。

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