第2話 旧校舎裏の植物園
翌日、学校に来てみると、私の顔の皮はさらに一枚分、分厚くなっていた気がした。
「おっはよー、ミツキ! 昨日のドラマ見た?」
「あ、見た見た! 最後の展開ヤバかったよね」
登校して五分。エリナへの挨拶と同時に、私は完璧な同意の笑顔を貼り付ける。
脊髄反射で繰り出される相槌。呼吸をするように吐き出される共感の言葉。
昨日、あの温室で言われた「玉ねぎ」という言葉が、まるで口内炎のように意識の端でズキズキと痛む。
――剥いても剥いても、中身がない。
頭の中からその声を追い払うように、私はさらに声を張り上げた。
「そうそう! 主人公の気持ち超わかるっていうか、すれ違いが切ないよねー」
嘘だ。
本当は、ドラマなんて見ていない。昨夜はあの男の言葉が頭を回って、一睡もできなかったのだから。ネットのあらすじ記事を斜め読みしただけの知識で、私は感動を捏造している。
「だよね! ミツキならわかってくれると思ったー」
エリナが私の肩をバシバシと叩く。
痛い。物理的な痛みではなく、その無邪気な信頼が痛かった。
彼女は私が本心で話していると思っている。私のこの笑顔が、精巧に作られたプラスチック製品だとは微塵も疑っていない。
それが彼女の鈍感さであり、私の罪深さだ。
カメレオンは、背景に合わせて色を変える。
けれど、もし背景が真っ白な部屋だったら? あるいは、暗闇だったら?
自分の本来の色なんて、カメレオン自身も忘れてしまっているんじゃないだろうか。
四時間目の授業中、私は窓の外をぼんやりと眺めていた。
校庭の隅、鬱蒼とした木々の向こうに、あの温室の屋根が小さく見えた。
どうしてあんな男の言葉を気にしているんだろう。
無神経で、失礼で、初対面の女子に「死んだ魚」なんて言うデリカシー皆無な男。二度と関わりたくないはずなのに、視線はどうしてもあの場所へ吸い寄せられてしまう。
あそこには、誰もいなかった。
私を評価する人も、機嫌を伺わなきゃいけない人もいない。
ただ、あの不躾な視線だけがあった。
私の嘘を、嘘だと見抜いた唯一の目。
「……ムカつく」
小さく呟いた言葉は、チャイムの音にかき消された。
私は教科書を閉じると、決心した。
もう一度行って、言い返してやろう。私はそんな空っぽな人間じゃないと。これでも必死に生きているんだと。
そうしないと、この胸のつかえは一生取れない気がした。
放課後。
私はエリナたちの「スタバ行こうよ」という誘いを、「今日は歯医者だから」という一番角の立たない嘘で断り、教室を出た。
足早に廊下を抜け、旧校舎へと向かう。
心臓が少しだけ早く脈打っているのは、怒りからなのか、緊張からなのか。
昨日は逃げるように去った獣道を、今日は強い足取りで踏みしめる。
錆びついた鉄骨の温室が見えてきた。
相変わらず、廃墟のような佇まいだ。
深呼吸を一つ。
笑顔はいらない。愛想もいらない。
私は「怒っている一ノ瀬ミツキ」として、あの扉を開けるのだ。
キィ、と昨日と同じ不快な音がして、扉が開く。
湿った土の匂い。
そして、やっぱり彼はそこにいた。
今日は制服の上から緑色のエプロンをつけていた。
しゃがみこんで、何かを真剣な目で見つめている。
私が中に入っても、彼は振り返りもしなかった。気づいていないのか、無視しているのか。
「……ちょっと」
私は努めて低い声で呼びかけた。
彼――蓮見奏太の背中がピクリと動く。
ゆっくりとこちらを振り向いた彼は、昨日と同じ無表情で私を見た。驚いた様子もない。
「また来たのか」
「また来たのか、じゃないわよ。昨日のこと、言いたいことがあって……」
言い募ろうとした言葉は、彼の手元を見て止まった。
彼の手には、しおれた小さな鉢植えがあった。葉は茶色く変色し、茎は力なく垂れ下がっている。素人目に見ても、もう手遅れのように見えた。
「それ……枯れてるの?」
「枯れてない」
蓮見は即答した。ムッとしたように眉を寄せる。
「溺れてるだけだ」
「溺れてる?」
「誰かが水をやりすぎたんだ。土がずっと湿ったままで、根が息できなくなってる。根腐れ寸前」
彼は手際よく鉢から植物を引き抜いた。
黒く変色した根が露わになる。腐ったような嫌な臭いが鼻をついた。
彼はハサミを取り出し、黒くなった根を迷いなく切り落としていく。
「かわいそうに見えても、腐った部分は切らないと全体が死ぬ。……良かれと思ってやったことが、逆に命を縮めることもある」
独り言のような呟き。
ハサミの音が、静かな温室に響く。
チョキン、チョキン。
痛んだ部分を切り捨て、白い健康な根だけを残していく。その手つきは驚くほど繊細で、残酷なほど迷いがなかった。
「この植物、なんて名前?」
「アジアンタム。湿気は好きだけど、蒸れには弱い。わがままで繊細な草だ」
彼は新しい乾いた土を用意し、小さくなった根を丁寧に植え替えた。
霧吹きで葉にだけ軽く水をかける。
「これで様子見。……持ち直すかどうかは、こいつの生命力次第」
作業を終えた彼は、ようやく私の方に向き直った。
エプロンで手を拭きながら、じっと私を見る。
「で、何? 言いたいことって」
まっすぐな瞳。
逃げ隠れできない、透明な鏡のような目。
私は用意してきた反論の言葉を喉元まで出しかけて、飲み込んだ。
さっきのアジアンタムの話が、奇妙に自分と重なったからだ。
良かれと思って水をやりすぎた。空気を読みすぎ、愛想を振りまきすぎた結果、根腐れを起こしかけている私。
「……あんた、名前は?」
反論の代わりに、口をついて出たのはそんな質問だった。
彼は少し意外そうな顔をした。
「蓮見。蓮見奏太。2年3組」
「私は、一ノ瀬ミツキ。2年5組」
「知ってる」
え、と私が顔を上げると、彼は面倒くさそうに頭をかいた。
「廊下ですれ違ったことあるし。いつも女子の真ん中で、愛想笑いしてる奴がいるなって思ってた」
「……愛想笑いじゃないもん」
「嘘つけ。口角の上がり方が不自然なんだよ。目尻のシワの寄り方も計算高い」
まただ。
この男は、どうしてこうも簡単に人の痛いところを突いてくるのか。
カッとなって、私は一歩詰め寄った。
「あんたねえ、そうやって人のこと分析して楽しい? 失礼だと思わないの?」
「思ったことを言ってるだけだ。植物と一緒で、人間もよく観察してれば状態がわかる」
彼は平然と言い放った。
「水不足でカリカリしてる奴、日照不足でひねくれてる奴、肥料やりすぎて肥大化した自尊心……。お前は、剪定が必要なタイプだな」
「はあ? 剪定?」
「余計な枝葉が多すぎる。他人の顔色とか、同調圧力とか、そういう不要な枝を伸ばしすぎて、幹がスカスカになってる」
ムカつく。本当にムカつく。
なのに、反論できない自分が一番ムカつく。
彼の言葉は鋭利なメスみたいに、私の分厚い皮を切り裂いて、中身を暴き出していく。
悔しくて、涙が出そうになった。
でも、ここで泣いたら負けだ。私は唇を噛んで、彼を睨みつけた。
「……植物と一緒にしないでよ。人間関係は、そんな単純な剪定じゃどうにもならないの」
「そうか? 複雑にしてるのは自分自身だろ」
蓮見は興味なさそうに視線を切り、棚の奥にあるじょうろを手にした。
会話終了の合図だ。
私は拳を握りしめ、踵を返した。
もう二度と来るものか。
そう思ったのに、出口へ向かう私の背中に、彼の声が掛かった。
「おい」
振り返ると、彼は私を見ずに、手元の植物に水をやりながら言った。
「ここ、放課後はいつも俺がいるから」
「……は?」
「誰にも見つかりたくないなら、また来ればいい。俺は干渉しないし、お前の愛想笑いも見たくないけど……場所くらいは貸してやる」
それは、彼なりの不器用な情けなのか、それとも気まぐれなのか。
彼の横顔は、植物を見ている時だけ、少しだけ優しげに見えた。
夕日が差し込む温室の中で、舞い上がる埃が黄金色に輝いている。
その光景が、悔しいけれど綺麗で、私は何も言えなくなった。
「……勝手ね」
捨て台詞のようにそう吐き捨てて、私は温室を出た。
扉を閉めると、心臓の鼓動が早くなっているのがわかった。
怒りで熱くなった頬に、夕方の風が心地よい。
剪定、か。
私の身体にまとわりついた余計な枝葉。それを切り落としたら、私には何が残るんだろう。
蓮見奏太。
変な奴。嫌な奴。
でも、私に「玉ねぎ」以外の名前があることを、初めて思い出させてくれた奴。
教室に戻る廊下のガラスに映った自分の顔は、やっぱり作り笑顔の残骸みたいで歪だったけれど、昨日よりは少しだけ、血が通っている気がした。
(第2話 完)
読んでいただきありがとうございます。 本日は第3話まで一挙公開します。
次回は、本日20:15に更新予定です。
ぜひ続けてお楽しみください。
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