玉ねぎにも花は咲く

夜桜 灯

第1話 笑顔の仮面

 一分間に六回。

 それが、私が相槌を打つ平均的な回数だ。


「マジでそれなー! あいつホント空気読めないっていうかさ」

「わかるー。すごいわかるよ」


 私は頬の筋肉を極限まで引き上げ、目尻を三ミリほど下げる。声のトーンは「ソ」の音。これが、相手に最も警戒心を抱かせない黄金比の笑顔だ。

 私の名前は一ノ瀬ミツキ。十七歳。

 特技は、空気を読むこと。趣味は、波風を立てないこと。

 そして今、私の大頬骨筋は限界を迎え、痙攣寸前の悲鳴を上げている。


 四月の教室は、深海に似ている。

 新学期特有の、まだ互いの距離感を測りかねている粘着質な空気。誰もが「あぶれる」ことを恐れ、必死に酸素ボンベ代わりのグループを探している。

 私は運良く(あるいは計算通り)、クラスのカースト上位グループであるエリナたちの輪に入り込むことに成功した。


「ていうか、ミツキはどう思う? 今の担任の話」


 突然、パスが回ってくる。

 私はコンマ一秒で脳内検索をかける。ここでの正解は何か。担任を擁護するか、エリナに同調して貶すか、あるいは笑って誤魔化すか。

 エリナの目は笑っていない。「まさか、違う意見じゃないよね?」という無言の圧力が、私の喉元に切っ先を突きつけている。


「……うん、なんかちょっと、感覚古いって感じはするかもね」


 私は最も無難で、かつエリナの意見を肯定する言葉を選び取って、丁寧にラッピングして差し出した。

 エリナが満足げに「だよねー!」と笑う。

 周囲の女子たちも「ミツキが言うなら間違いないわ」という顔で頷く。


 ああ、成功だ。

 今日も私は、私の輪郭を守りきった。

 けれど、胸の奥底には、鉛を飲み込んだような重たい感覚が沈殿していく。

 呼吸が浅い。

 肺の半分しか空気が入ってこない。

 教室の窓から差し込む春の陽射しはこんなにも明るいのに、私だけが、分厚いガラス一枚隔てた向こう側で窒息しかけているみたいだ。


「あ、ごめん。私ちょっとトイレ」


 これ以上ここにいたら、表情筋が崩壊して真顔を晒してしまうかもしれない。

 私は逃げるように席を立った。背中に「いってらっしゃーい」という明るい声を浴びながら、廊下へと出る。


 教室の扉を閉めた瞬間、世界から音が消えた。

 廊下の冷んやりとした空気が、火照った頬を撫でる。

 ふう、と長く息を吐き出すと、ようやく肺が膨らんだ気がした。


 トイレに行くふりをして、私は階段を降りた。

 向かう先は決まっていないけれど、とにかく人のいない場所に行きたかった。誰も私の顔を見ない場所。点数をつけない場所。「一ノ瀬ミツキ」という役割を演じなくていい場所。


 渡り廊下を抜け、人気のない旧校舎の方へと足が向く。

 この学校には、使われなくなった古い温室があるという噂を聞いたことがあった。園芸部もとっくに廃部になり、今は物置になっているらしい場所。

 そこなら、誰もいないはずだ。


 旧校舎の裏手、鬱蒼と茂る雑木林の陰に、そのガラス小屋はあった。

 鉄骨は錆びつき、ガラスの表面は埃と雨垂れで曇っている。長い間、誰にも顧みられていないことが一目でわかる佇まい。

 それはまるで、忘れ去られた遺跡のようだった。


「……ここなら」


 私は錆びたドアノブに手をかけた。

 キィ、と金属が擦れる不快な音が響く。

 重い扉を押し開けると、むっとするような湿気と、土と緑の匂いが鼻腔を満たした。


 中は意外に広かった。

 天井まで届きそうな背の高い観葉植物や、名前も知らない多肉植物が、所狭しと並んでいる。手入れされている様子はないが、枯れてもいない。野生のような逞しさで、勝手気ままに枝葉を伸ばしている。


 埃の中を舞う光の粒子が、曇りガラス越しに差し込む陽光に照らされてキラキラと光っていた。

 静かだ。

 教室の喧騒が嘘のように、ここだけ時間が止まっている。


 私は入り口近くの、古びた木製のベンチに腰を下ろした。

 誰も見ていない。

 その事実を確認してから、私は両手で顔を覆い、大きく息を吐き出した。


「……つっかれた」


 口から出たのは、可愛げのない本音だった。

 顔を覆っていた手を離し、だらりと力を抜く。背中を丸め、足を開き、口元をへの字に曲げる。

 これが、私の本当の顔だ。

 誰からも好かれない、愛想のない、つまらない顔。

 でも、今はこれが一番楽だった。


 ふと、視線を感じた。

 植物の葉擦れの音とは違う、衣擦れの音が聞こえた気がした。


 ビクリとして顔を上げる。

 目の前の、巨大なモンステラの葉の陰から、誰かがこちらを見ていた。


 男子生徒だ。

 着崩したブレザー。寝癖のついた黒髪。手には園芸用のシャベルを持っていて、指先は土で汚れている。

 目が合った。

 切れ長の、色素の薄い瞳が、私の顔をじっと見つめている。


 思考が停止した。

 心臓が早鐘を打つ。

 見られた。

 あられもない格好で、「疲れた」と毒づいているところを。学校一の「いい子」である一ノ瀬ミツキの裏側を。


 コンマ一秒で、私の防衛本能が作動する。

 背筋を伸ばし、膝を閉じ、口角を引き上げる。

 瞬時に「一ノ瀬ミツキ」の仮面を再構築する。


「あ、ご、ごめんなさい! 誰もいないと思って……お邪魔でしたよね?」


 声のトーンをワントーン上げる。小首を傾げ、申し訳なさそうに眉尻を下げる。完璧な「迷い込んでしまった女子生徒」の演技。

 これでいい。これで誤魔化せるはずだ。

 大抵の男子は、こうやって愛想良く謝れば「いや、いいよ」と照れて許してくれる。


 けれど、彼は動かなかった。

 シャベルを持ったまま、私の顔を観察するように見つめている。その視線は、まるで珍しい虫か、病気の植物を見ているかのように無機質だった。


「……なに」


 彼が口を開いた。声は低く、平坦だった。


「え?」

「なに、今の」


 心臓がドクンと跳ねる。

「えっと、何のことかな……?」

「さっきまで死んだ魚みたいな顔してたのに。急にスイッチ入ったみたいに笑うから。……怖いんだけど」


 仮面にひびが入る音がした。

 怖い。

 そんなことを言われたのは初めてだった。

 いつも「癒される」「話しやすい」「いい子」と言われてきた。そう言われるように努力してきた。なのに、この初対面の男は、私の必死の防衛策を「怖い」と切り捨てた。


「そ、そんなことないよ。私、ただびっくりしちゃって……」


 なおも笑って取り繕おうとする私に、彼はふいと視線を外した。興味を失ったように、手元の植木鉢に視線を戻す。


「玉ねぎみたいだ」


 ボソリと、独り言のように彼が言った。


「……え?」

「玉ねぎ」


 彼はシャベルで土をいじりながら、私のことなどもう見ていなかった。


「剥いても剥いても、中身がない。何重にも皮を被って、自分を守ってるだけで、芯がない」


 時が止まった気がした。

 温室の湿った空気が、急に冷たく張り詰める。


 中身がない。

 それは、私が一番恐れていた言葉だった。誰にも気づかれないように、何層もの笑顔と処世術で隠し続けてきた、私の正体。


「……ひどい」


 震える声が出た。これは演技ではなかった。

 彼は手を止め、再びこちらを見た。その瞳には、悪意も嘲笑もなかった。ただ事実を述べただけだというような、透明な残酷さだけがあった。


「事実だろ。今の笑顔も、その前の死んだ顔も、どっちも嘘くさい」


 彼は立ち上がり、土のついた手をパンパンと払った。

 名札には「蓮見(はすみ)」という文字が見えた。


「ここは俺の場所だから。用がないなら出て行ってくれない?」


 拒絶。

 これほど明確に、誰かから拒絶されたのはいつぶりだろう。

 私は何も言い返せなかった。

 怒りよりも、悲しみよりも、図星を指された衝撃で体が動かなかった。


 私は逃げるように立ち上がった。

「……失礼しました」

 震える足で出口へ向かう。

 扉を開ける直前、もう一度だけ振り返った。

 蓮見という男子生徒は、もう私には関心がないようで、黙々と植物の世話を続けていた。


 温室を出ると、春の風がやけに冷たく感じた。

 剥がされた仮面の跡が、ヒリヒリと痛む。

 玉ねぎ。中身がない。

 その言葉が呪いのように頭の中でリフレインしていた。


 予鈴のチャイムが遠くで鳴る。

 私は頬を両手で強く叩き、無理やり口角を持ち上げた。

 まだ、学校は終わっていない。教室に戻れば、私はまた「一ノ瀬ミツキ」に戻らなければならない。


 けれど、一度剥がれかけた仮面は、もう以前のように肌に馴染んではくれなかった。

 作り笑いの下が、泣き出しそうなほど引きつっているのを、私自身だけが知っていた。


(第1話 完)


 読んでいただきありがとうございます。 本日は第3話まで一挙公開します。

 次回は、本日19:45に更新予定です。

 ぜひ続けてお楽しみください。

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