3.神を呪い神を屠る言の刃となれ

 影が。

 ざわざわと、影が蠢いている。


 歌え! 歌え! 歌え!

 今こそ喝采の時! 我らが王よ!


 歓喜の歌が聞こえてきた。それは人が歌うものではなく、異質な【それ】らが歌う歌。その瞬間に、遺失物対策課の部屋を飛び出した。課長の「せめて指示を聞け!」という叫びすらも無視をして。

 公務員としては失格だ。上からの命令に従えない駒など、兵隊としても失格だ。それでもヒオウにとっては命令よりも優先すべきことがある。


「そんなに急いでどこ行くのかなぁ、わんわんちゃん?」

「師匠」


 それなのに、目の前に立ちはだかる男がいる。カセツと、それから、彼にいつも付き従う大柄な男。いつも不機嫌そうな顔をした男は今日も同じく不機嫌そうな顔をしている。


「どいてください」


 刀を、抜いた。ひたりと切っ先をカセツの顔前に定めれば、にんまりとカセツは笑う。


「どかないよ。僕は〈幕開け〉を待ってるんだ。君も一緒に待とうじゃないか」


 喝采が聞こえる。

 ひゅおうひゅおうと風を切って何かが待っている。黒い影が立ち上がり、赤い目に鋭い牙の【それ】になり――けれど次の瞬間に、銃声と共に【それ】が爆ぜた。

 カセツは、武器は刀だけだ。かつて師としてヒオウに刀の使い方を教えたのがカセツで、そして彼は刀以外の武器を必要としていない。では、と見れば、カセツの後ろでいつも付き従っている男が銃口をヒオウに向けていた。

 喪服。

 黒いネクタイに、機械仕掛けの歯車の犬アンカー・ドッグ

 黒い手袋に覆われた指先は、既に引き金にかかっている。撃鉄は上がった、後はもうその引き金を引くだけだ。


 歌えホサナ! 歌えホサナ! 歌えホサナ


 喝采の声がする。うわんうわんと耳の奥で鳴り響く音が、何度となく反響してはヒオウの頭を揺さぶった。


「あはは、歌えホサナだって。神よどうか救ってくださいだなんて、悪魔に踊らされてるくせに何様のつもりなんだろうね、人間って」


 自分も人間のくせに、カセツはそんなことを口にする。

 高層ビルの群れの中で、赤い月だけがあった。星ひとつ見えないここでは、織姫も彦星も天の川を渡れない。


「ねえ、どう思う? ボスは何て言うかな」

「うるさい」


 銃声が、もう一発。今度はヒオウのすぐ後ろで、何かが弾ける音がした。断末魔の叫びのようなものがひどく耳障りで、ひたりと切っ先を突き付けたままにカセツを男を見据えたまま顔を歪める。


「あ、わんわんちゃんの後ろにいたんだ? 良かったね、わんわんちゃん」


 歌えホサナ! 歌えホサナ! 歌えホサナ


 がしゃんと窓ガラスが割れる音がした。はっと見上げれば病院の窓が割れて、その破片を赤い月の光がきらきらと飾っている。

 あの部屋は。あの窓は。

 全部奪って生まれてきました。けれど、命だけは残せたようです。でも――でも、だからその命まで、奪わなければならないのですか。これが神の【祝い】の代償ですか。

 ヒノトの命の最後まですべて、ヒオウが奪い尽くすこと。すべてに死を強制的に与えるものは、つまり生を奪うもの。


「ヒノト!」

「駄目だよ、わんわんちゃん」


 駆け出そうとしたヒオウの前に、ふわりとカセツが立つ。どうあっても前へ進ませないというカセツの真意は、一体どこにあるのだろう。

 奪えというのか。その命の最後の一滴まで。何もかもすべて奪って、そうして初めて実ヒオウという存在はひとつの個として確立するのか。

 双子がひとりの人間を分割したものだなんて、そんなものは根拠のない言いがかり。


「どいてください、師匠」


 右手に刀を携えたまま、左手で喪服の下から拳銃を抜く。真っ直ぐにカセツの額に銃口を向ければ、その距離は僅か数センチしかない。


「わお、いつの間にこんなものまで使うようになったの?」


 赤い月が周囲を照らす。焦燥感に苛まれて、目の前で笑っているカセツが悪魔のようにも見えた。赤い月に照らされているせいで顔は暗がりで、それなのに闇を喰らったような口もとだけが弧を描く。

 カセツを師としていた時に、こんなものは使わなかった。これは彼が遺失物対策課を裏切って姿を消してから、遺失物対策課で学んだものだ。


「でもさあ、銃って至近距離じゃ駄目だと思わない? あと、僕は殺せないんだよ」

「やってみなければ分かりません。俺は全部、奪えます」

「君の【言祝ぎ】は断ち切ることだもんね。縁を強制的に断ち切る【祝い】だ」


 笑んで、言葉を紡いで、カセツは光へと視線を落とす。足元の影ではなく、彼は赤い光に視線を向けていた。まるでそれに、懇願でもするかのように。

 背後にいる男はまた引き金を引いて、断末魔の叫び声が耳を劈く。


「人間ってさ、縁を結んでほしかったり断ち切って欲しかったり、我儘だよね」


 ヒオウとヒノトの間にあるものは、何だろう。奪うもの、奪われるもの。たったそれだけの言葉で表せる繋がりしか、もう存在していないのかもしれない。

 自由になんてなれなくていい。ならなくていい。生まれた瞬間に奪ったヒオウのできる償いとして、ヒノトがずっとヒオウに縁を縛り付けておいてくれれば良いのに。

 それなのに――ヒノトは、その縁を手放そうとする。


「おかげで僕は、ずーっと自分の命の縁が結ばれたままなんだ。切っても切っても強制的に結び直しがされるから。そういう【言祝ぎ】だからね」


 また、窓が割れた。そして病院の建物が、ぴしりぴしりとひび割れていく。

 あれは、何の群れか。黒い影が病院の上を覆っていく。翼のある影は何を手にして、何をしようというのか。そもそもどうして、あの病院ばかり狙われるのか。


「駄目だよ、わんわんちゃん。行ったら君は殺さないといけなくなるからね」

「どういう意味です! あの病院にはヒノトがいる! 師匠だって知ってるはずだ!」

「そうだね、君にとって誰より大事な片割れで、そして君の【祝い】の代償だ」


 ヒノトの病室で、影が蠢くのを見た、気がしていた。けれどヒオウは、それを気のせいだと片付けた。【それ】らはすべて、自分が処理したはずだからと、傲慢にも。


「寂しい。苦しい。悲しい。終わりたい。死にたくない」


 病院を指し示すカセツの姿に、ぴたりと喝采の音が止む。

 それはきっと、あの場所にいる人たちの叫びだ。日中には誰かいても、夜になれば独りぼっち。そうして自分は終わりに向かうのかと、そういう孤独がきっと誰かを蝕んだ。

 誰かが影に手を伸ばしても、誰も否定することはできない。そういうものであると、諸外国から流入してきたものたちが嘲笑う。


「相反する感情が渦巻いて、寂しい誰かが手引きした。ほら、見ると良い。もう影があんなに覆って、喰らおうとしている。あれはね、【悪魔】って呼ぶんだってさ」


 影が、何かの形に変わっていく。あれはきっと、病院にいるすべてを呑み込もうとしている。どうせ最後には爆発事故とか建物の瓦解に巻き込まれたとか、そういう『当たり障りのない事故』として処理されるだろう異常が、今まさに進んでいっている。


「名前は何だったかなぁ。ボスが言ってたけど、忘れちゃった」

「ふざけないでください!」


 引き金を引いた。銃弾はカセツの額に命中して、ぱっと赤い花が咲く。どさりと落ちたカセツの体を踏みつけて、ただ病院へと突き進む。

 どうせ、カセツは死なない。彼は何があっても死ねない。そういうものとして、神からの【祝い】を受け取った身だ。


「ヒノト! ヒノト!」


 奪え。

 あの影を、喝采の声を、何もかもをすべて。


「ああああぁああぁぁあああ!」


 そこにヒノトがいるのだ。あの影が奪おうとするのなら、それよりも前にヒオウは奪わなければならない。誰にも奪われてはならない、母の胎の中でも一緒にいた片割れを。

 奪うことが当然だ。そうして天津神もこの日本という土地に降臨したのだから。ならばその彼らを手本とする人々が、何かを奪うことは必至――。


「あ、れ……」


 静寂の中で、ふと気付く。


「ヒノ、ト……?」


 そこには、病院があったはずだ。けれど今、ヒオウの目の前には何もない。

 守らなければならなかったものも。奪いたくなかったものも。何もかもすべて、どこにもない。ただ更地になったその場所だけが、赤い月に照らされて静寂を保っている。


「あ、ああ、俺。俺、は」


 膝をついた。


「違う! 違う、奪って……俺は、何も」


 頭を抱えた。


「違う、これは……俺は、そういう……!」


 喉を切り裂くほどの、絶叫を上げろ。響き続ける喝采を塗り潰すように。何かを待つ【それ】の声など、すべて喰らって潰して何もかも奪って。それこそが神がヒオウに与えた役割で、それこそがヒオウにとっての【祝い】だった。

 神は確かに実ヒオウに【言祝ぎ】を与えた。

 神は確かに実ヒオウに【祝い】を与えた。

 そうだ。奪わなければ。すべて何もかもを奪って、そして――そうでないのなら、こうして自分の奪った家族やヒノトにどうやって顔向けができるのか。

 言葉にもならない、ただの絶叫。自分でも何を言葉にすれば良いのか分からないまま、赤い月に向かって吠え立てる。


 何が【言祝ぎ】だ。こんなものは、【呪言ことほぎ】だ。

 何が【祝い】だ。こんなものは、ただの【呪詛】だ。


 絶叫。悲鳴。何もかも、この口から出ていくすべての言の葉よ。


 どうか――神を呪い、神を屠る、言の刃になれ。

 こんな【祝い】をヒオウに押し付けて、何もかもを奪わせた、神の。

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