第5話 アラートは嫉妬の調べ
オフィスに着いても健司の心は休まらなかった。
胸元のネクタイピンに仕込まれたマイク、そしてポケットの中で常に位置情報を発信し続けるスマートフォン。それらが冷たい鎖のように肌に食い込んでいる感覚が拭えない。
「佐藤さん、おはようございます。昨日のプロジェクト完了、本当にお疲れ様でした!」
声をかけてきたのは、隣のチームの後輩、河野だった。明るくて人当たりが良く、社内でも人気の高い女性だ。いつもなら「ありがとう、河野さんもお疲れ様」と笑顔で返すべき場面。しかし、健司の脳裏には愛美の言葉がリフレップした。
『女性の声が三秒以上近くで鳴り続けたら、アラートが飛ぶようになっています』
「あ……ああ、おはよう」
健司は極力、声を低く、短く返した。そして視線を合わせないようにパソコンの電源を入れる。
「あれ、佐藤さん? なんだか今日、元気ないですか? もしかして……あ、そのネクタイピン! 素敵ですね。誰かからのプレゼントですか?」
河野が好奇心に目を輝かせ、ぐいっと顔を近づけてきた。
マイクまでの距離、およそ30センチ。
(まずい。河野さん、離れてくれ……!)
その瞬間だった。健司のポケットの中で、スマホが「ブブブッ」と激しく震えた。
恐る恐る画面を見ると、愛美からLINEが届いている。
『旦那様、楽しそうですね。今、近くにいる女性は河野さんですか? 彼女、昨日の打ち上げで健司さんの隣を狙ってましたよね。不愉快です』
背筋が凍った。なぜ名前まで分かっているのか。
GPSでデスクの位置を把握し、さらに音声解析で特定の個人の声を判別しているというのか。
「佐藤さーん? 聞いてます?」
「あ、いや、河野さん。ごめん、今から急ぎのメールを打たなきゃいけないんだ。また後に……」
「えー、冷たいなあ。あ、そうだ。昨日の資料の修正、ちょっと相談に乗ってほしくて……」
河野が健司の肩に手を置こうとした、その時。
健司のスマホが震動ではなく、大音量の警告音を鳴り響かせた。
『ピピピピッ! 緊急警報! ターゲットのストレス値が上昇しました! 直ちに現場から離脱してください!』
静まり返ったオフィスに機械的な合成音声が響き渡る。愛美の声だ。
「な、なに!? 佐藤さん、その音!」
「あ、いや、これは……防犯アプリの誤作動で……!」
パニックになる健司のスマホに追い打ちをかけるように愛美からの通話が着信した。画面には『愛美(緊急)』の文字。
出なければ、彼女が会社に乗り込んでくるか、あるいはもっと恐ろしいことが起きる。
そう直感した健司は、逃げるように会議室へ駆け込み、通話ボタンを押した。
「……愛美! なんだよ今の音は!」
『あら、いい判断です。離脱成功ですね。おめでとうございます』
電話の向こうの愛美は、驚くほど冷静で、そして甘い声を出した。
『彼女、手が近すぎます。次にあんな距離まで近づいたら、会社全体のネットワークに「河野さんが過去にSNSで呟いた愚痴」を匿名で流すところでした。危なかったですね』
「……本気で言ってるのか?」
『本気ですよ。私は健司さんの専属ガーディアンですから。不純なものはすべて排除します』
健司は壁に寄りかかり、ずるずると座り込んだ。
もはや仕事どころではない。だが、ふと自分の手を見ると、恐怖で震えているはずなのに指先には愛美が今朝持たせてくれた赤飯おにぎりの感触が残っているような気がした。
『さあ、お昼休みにはそのおにぎりを食べて、私のことだけ考えてくださいね。そうすれば、午後のアラートは鳴らさないでおいてあげますから』
電話が切れる。
健司は会議室の鏡に映る自分を見た。
社会的に孤立させられ、彼女という檻の中に閉じ込められつつある。
なのに――。
愛美に守られているという異常な全能感が、彼の心を少しずつ、確実に蝕み、癒やしていた。
「……赤飯、食べるか」
健司は、誰にも見られないように鞄から丁寧にラッピングされたおにぎりを取り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます