第4話 GPSは愛の結び目
キッチンから漂うのは、昨夜予告された通りの懐かしくも濃厚な味噌の香り。
健司がリビングへ向かうと、そこには既に完璧にセッティングされた食卓があった。
「おはようございます、健司さん。昨夜はよく眠れましたね。レム睡眠とノンレム睡眠のサイクル、理想的でしたよ」
愛美はエプロン姿で微笑み、健司の前に豚汁の入った椀を置いた。
一口啜ると、五臓六腑に染み渡るような旨みが広がる。確かに今は亡き祖母が作ってくれた、あの少し甘めでドロリとした豚汁の味だ。
なぜ会ったこともない祖母の味を再現できるのかという恐怖よりも、美味すぎるという快楽が勝ってしまう。
「……美味い。けど、愛美。俺、そろそろ会社に行かないと」
「ええ、準備はできています。はい、これ」
愛美が差し出したのは、健司のスマートフォンだった。手にとって画面を見ると、そこには見慣れないアプリのアイコンが並んでいる。
さらに、通知欄には『位置情報の共有がオンになっています』という不穏な文字が表示されていた。
「これ、なんだ?」
「『ファミリー・ガーディアン』。私のスマホと完全同期した高精度の位置情報共有アプリです。健司さんが今どこにいて、時速何キロで移動しているか一秒単位で私に通知が届くようになっています」
「なっ……! 消せよ、こんなの。仕事に支障が出るだろ!」
「消せませんよ。ルートから外れたり、電源を切ったりしたら、会社に『旦那が誘拐された』って私の自撮り付きで通報が行くように設定してありますから」
愛美の笑顔は、まるで「今日の天気は晴れですね」と言うときのように爽やかだった。
絶句する健司に、彼女はさらに追い打ちをかけるように彼のネクタイを整え始めた。
「それから、これ。新しいネクタイピンです」
差し出されたのは、シンプルで高級感のあるシルバーのピン。だが、その中央に埋め込まれた小さなジルコニアが妙に黒ずんで見える。
「まさか、これも……」
「超小型のマイクです。音声は私のAIがリアルタイムで解析して、女性の声が三秒以上近くで鳴り続けたら、私のスマホにアラートが飛ぶようになっています。不必要な雑談は控えてくださいね?」
健司は眩暈を覚えた。
GPSで居場所を縛られ、マイクで声を縛られる。これでは会社員ではなく、仮釈放中の受刑者だ。
「……愛美、やりすぎだ。信じてないのか?」
「信じていますよ。健司さんが、優しすぎて断れない人だってことを。だから、悪い虫が寄ってこないように私がバリアを張ってあげているんです。あ、もう出発の時間ですね」
愛美は健司の鞄を手に取り、玄関まで彼を誘導した。扉を開ける直前、彼女は健司の頬に柔らかく触れ、その唇を彼の耳元に寄せた。
「駅まで、私のスマホからずっと見ています。寄り道しないで、真っ直ぐ戦場(オフィス)へ行ってきてくださいね。お昼休みには、私が作った特製のお弁当を食べて、私を思い出してください」
玄関のドアが閉まる。カチリ、と鍵が閉まる音がこれほど重く響いたことはなかった。
アパートを出て駅へ向かう道すがら、健司はポケットの中のスマホが微かに熱を持っているのを感じた。位置情報を送り続け、愛美の視線を受け取り続けているデバイス。
(……監視されてる。常に、あいつに)
だが、駅のホームでふと鏡を見た時、健司は自分の顔がここ数ヶ月で一番血色が良くなっていることに気づいてしまった。
徹底的に栄養を管理され、強制的に安眠させられ、そして誰よりも深い愛を注がれている。
その歪な充足感が、健司の心の中に毒のようにゆっくりと回っていた。
「……いらっしゃいませ」
いつものコンビニの前を通り過ぎる。昨日まであんなに頼っていたコンビニの入り口が今はひどく味気ない遠い世界の出来事のように思えた。
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