第3話 添い寝の作法、監視の温
「さあ、旦那様。書類も無事に受理されましたし(※愛美が夜間受付にダッシュした)今日からは同じベッドで眠りましょうね」
愛美の言葉に健司の心臓は、今日何度目か分からない跳ね方をした。
婚姻届に署名した。それは事実だ。だが、いきなり同じ布団に入るというのは、いくらなんでも展開が早すぎる。
「ま、待ってくれ。せめて心の準備というものが……それに、俺のベッドはシングルだ。二人で寝るには狭すぎるし、君の寝床は明日改めて……」
「あら、大丈夫ですよ? 健司さんの睡眠データは三年前から記録しています。あなたが寝返りを打つタイミングも、無意識に左側を空ける癖も、全部把握済みです。私がその隙間に収まれば、シングルベッドでも十分な宇宙が生まれます」
愛美は事も無げに言い放ち、さっさと健司のパジャマ――彼が勝負用として買っておいて、結局一度も出番がなかったシルク混のやつをタンスから引っ張り出してきた。
「お風呂、沸いてますよ。私、先に入って体を温めておきました。健司さんが入る頃には、ちょうどいい湯加減と私の香りが充満しているはずです」
健司はもはや抗う気力を失っていた。
風呂場に行けば、確かに愛美が言った通り、湯気と共に彼女が愛用しているらしい甘い石鹸の香りが立ち込めていた。浴室の鏡は丁寧に拭き上げられ、使い古したはずのタオルは、なぜか高級ホテルのようにふかふかに畳まれている。
(ストーカーなのに、家事のクオリティが高すぎる……)
風呂から上がり、意を決して寝室のドアを開けると、そこには既にパジャマ姿の愛美がベッドに潜り込んでいた。掛け布団から少しだけ覗く彼女の瞳は、暗闇の中で獲物を待つ獣のように潤んでいる。
「遅かったですね。冷えちゃいますよ、こっちにきて」
健司は震えながら、ベッドの端に潜り込んだ。
確かに彼女の言う通り、愛美は驚くほどコンパクトに健司の体のラインに沿うように丸まっている。
背中に伝わる彼女の体温は、先ほど食べた赤飯のように温かく、そしてどこか非現実的だった。
「……愛美。一つ聞いてもいいか」
「なんですか? 旦那様」
「さっき、睡眠データを記録してるって言ったけど……どうやって?」
愛美はクスクスと、健司の背中に顔を押し当てて笑った。
「健司さんの枕、数ヶ月前に買い替えましたよね? あれ、私がプレゼントとして玄関先に置いておいた『公式の粗品』を装ったものです。中には最新のバイオセンサーが仕込んであるんですよ。心拍、呼吸数、睡眠の深さ……全部私のスマホにリアルタイムで届くんです」
健司は絶句した。今まで安眠していたと思っていた枕が、実は自分を監視する装置だったとは。
「今、健司さんの心拍数が上がりましたね。110を超えました。私のこと、意識してくれてるんですね。嬉しいです」
彼女の手が健司の腹部に回される。指先がパジャマ越しにゆっくりと彼の鼓動を探るように這う。
「健司さん。私、ストーカーなんて呼ばれるのは不本意なんです。私はただ、世界で一番あなたの健康と幸せを管理したいだけ。私がいれば、あなたは二度と寂しい思いもしないし、健康診断の結果に怯えることもありません。私がすべて、最適化してあげますから」
耳元で囁かれるその言葉は、呪いのようであり、究極の献身のようでもあった。
異常な恐怖を感じているはずなのに不思議と体はリラックスしていく。
彼女の体温と徹底的に管理された空間の居心地の良さが、健司の防衛本能を麻痺させていくのだ。
「明日も、朝ごはんは赤飯か?」
健司が半ば自棄気味に尋ねると、愛美は満足そうに彼の背中に唇を寄せた。
「いいえ。明日は、健司さんが中学生の頃に大好きだったという『おばあちゃんの特製豚汁』を再現します。隠し味の麦味噌、もう手配してありますから。……おやすみなさい、私の愛しい旦那様」
翌朝、健司が目を覚ましたとき、愛美の姿は既にベッドにはなかった。
代わりに、キッチンからトントンと小気味よい包丁の音が聞こえてくる。
健司は天井を見上げ、深くため息をついた。
自由は奪われた。プライバシーも、平穏な独身生活も、すべて。
けれど、鼻をくすぐる豚汁の出汁の香りに、抗いようのない幸福感を覚えてしまっている自分を彼は認めざるを得なかった。
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