第2話 婚姻届は逃走防止の鎖
一口食べた赤飯の味は、暴力的なまでに理想そのものだった。
固すぎず柔らかすぎず、小豆の皮が破れる瞬間のほのかな渋みと、噛み締めるほどに広がるもち米の甘み。それは、実家の母親が作ってくれたものよりも、かつて高級料亭で口にしたものよりも今の健司が求めていた正解を完璧に射抜いていた。
「……っ、おいしい」
「良かった。健司さんの脳内にある理想のレシピを再現するのに半年かかったんです」
愛美は、健司の向かい側に座って、自分は何も食べずにじっと彼を見つめている。
その瞳は、獲物が罠にかかった瞬間を見守るハンターのようでもあり、愛しい我が子の成長を喜ぶ母親のようでもあった。
「半年? 半年前から俺の食生活を調べてたのか?」
「ええ。ゴミ袋の中身を分析すれば、健司さんの栄養状態も好みの味付けも手に取るように分かりますから。最近は塩分を控えていたでしょう? だから今日のおかずは、出汁を効かせて塩分を抑えてあるんです」
健司の背中に嫌な汗が流れた。ゴミを漁られていた。その事実は悍ましいはずなのに目の前の料理があまりに美味すぎて、拒絶反応が食欲に塗りつぶされていく。
「さあ、お腹が膨れたら、本題に入りましょうか」
愛美がテーブルの端に置いたのは、一枚のピンク色の紙。婚姻届だ。
健司の氏名、生年月日、住所、本籍。さらには証人の欄まで、既に完璧な筆跡で埋められている。
空いているのは、健司の署名と捺印だけだった。
「これに名前を書いてください。そうすれば、私はあなたの『合法的な妻』になります。もう隠れてゴミを漁る必要も、ベランダから寝顔を覗く必要もありません。堂々と正面からあなたを愛せます」
「……正気か? こんなの、無理やり書かせたって無効だぞ」
「無効? 誰がそれを証明するんですか? 警察に駆け込みますか? でも、健司さん。私のスマホには、あなたが以前……そう、二年前の社員旅行で少し羽目を外して、同僚とマッサージ店に入った時の写真があります」
健司の動きが止まった。
「あれは……ただの健全なマッサージで……!」
「世間がどう判断するか楽しみですね? それに、あなたの会社の上司のメールアドレスも、実家の連絡先も、全部把握しています。私が一言『健司さんに弄ばれて捨てられた』って泣きつけば、あなたの積み上げてきた信頼なんて、一晩で赤飯みたいに真っ赤に染まって消えちゃいますよ」
愛美の声は、どこまでも穏やかだった。脅迫している自覚すらないような純粋なトーン。
彼女にとってこれは、愛する人と結ばれるための当然の手続きに過ぎないのだ。
「……どうして、俺なんだ。もっといい男なんて、いくらでもいるだろ」
「健司さんじゃなきゃダメなんです。三年前、土砂降りの雨の中で、あなたが捨てられた子猫に自分の傘を貸して、自分はびしょ濡れで帰っていくのを見ました。あの時、私は決めたんです。この人を世界で一番幸せにするのは、私しかいないって」
そんな些細な善行がこんな怪物を呼び寄せる原因になるとは。健司は絶望した。だが同時に、心のどこかで奇妙な安堵感も抱いていた。
これほどまでに自分を執拗に求め、評価し、分析し尽くしてくれる人間がこれまでの人生にいただろうか。
「書けば、もう不法侵入はしないんだな?」
「不法侵入じゃなくなります。『ただいま』って言えるようになります。健司さんも、毎日この美味しいご飯が食べられますよ」
愛美が差し出したボールペンを健司は震える手で受け取った。インクが紙に染み込んでいく。
自分の名前を書き終えた瞬間、愛美が「あはっ」と小さく、鈴を転がすような声で笑った。
「ありがとうございます、健司さん。……いえ、旦那様」
彼女はすぐさま婚姻届を回収し、大切そうに胸に抱いた。
そして、健司の背後に回り込むと、彼の首に細い腕を絡ませ、耳元で囁いた。
「これで、もう逃げられませんね。もし逃げようとしたら……今度は足首に鎖を繋がなきゃいけなくなっちゃう。そんなの可哀想だからさせないでくださいね?」
首筋に当たる愛美の吐息が熱い。
健司は、自分が取り返しのつかない契約を結んだことを確信した。
食卓に残った赤飯は、もうすっかり冷めていたが、それでもなお、狂おしいほどに甘い香りを放っていた。
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