帰ったら赤飯を炊いてるストーカーが居た。そのまま結婚した。

空落ち下界

第1話 お祝いは、侵入者の手料理

 その日の佐藤健司は、人生で指折りの達成感に包まれていた。

 三ヶ月に及ぶ大規模なシステム刷新プロジェクトが大きなトラブルもなく無事に完了した。

 上司からは肩を叩かれ、同僚からは称賛され、明日からは一週間のリフレッシュ休暇が待っている。


「コンビニで一番高いエビスビールでも買うか」


 駅ビルの地下で、普段なら手を出さないような豪華なつまみを買い込み、鼻歌まじりにアパートへの階段を上がった。

 しかし、玄関の前に立った瞬間、健司の背筋に冷たいものが走った。

 鍵を差し込むより先に異変に気づいた。


 ――開いている。


 オートロックのない古いアパートだが、鍵を閉め忘れるような迂闊な性分ではない。

 強盗か空き巣か。心臓の鼓動が速まり、ビニール袋の中のビール缶がカチリと音を立てた。

 おそるおそるドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。

 ゆっくりと扉を開ける。暗いはずの部屋には、オレンジ色の温かな光が灯っていた。

 そして、鼻を突いたのは、血の匂い――ではなく、食欲をそそる香ばしく、どこか甘い香辛料のような、懐かしい香り。


「おかえりなさい、健司さん。お疲れ様でした」


 リビングの入り口に女が立っていた。

 健司の記憶にはない女だ。

 しかし、彼女は健司のキッチンから、見覚えのないフリル付きのエプロンを着て現れた。

 黒い艶やかな髪を後ろでまとめ、透き通るような白い肌に三日月のような細い笑みを浮かべている。

 その手には、湯気を立てる大きなお椀が握られていた。


「だ、誰だ……っ!? なんで俺の家に……」

「ひどいです、健司さん。忘れちゃったんですか? 今日はお祝いですよ。プロジェクトの成功、本当におめでとうございます」

「な、なんでそれを……。いや、それより出ていけ! 警察を呼ぶぞ!」


 震える手でスマホを取り出そうとする健司に対し、女――愛美は、全く動じる様子もなく、むしろ愛おしそうに首を傾げた。


「通報してもいいですよ。でも、その前にせっかくのお料理が冷めてしまいます。今日は健司さんの大好きな『お赤飯』を炊いたんです。小豆からじっくり煮てもち米も最高級のものを用意したんですよ」


 見れば、ダイニングテーブルの上には豪華な食卓が整えられていた。山盛りの赤飯。鯛の塩焼き。

健司が以前「母の味だ」とSNSで呟いたことのある少し甘めの卵焼き。

 健司は呆然とした。なぜこの女は、俺の個人的な嗜好を知っているのか、なぜ今日がプロジェクトの打ち上げだと知っているのかと。


「……君は、誰なんだ」

「愛美(まなみ)です。三年前から、ずっとあなたのことだけを見てきました。健司さんがどのコンビニで何を買うか、どの窓を開けて寝るか、どんな夢を見てうなされるか……全部、知っています」


 愛美はトポトポと歩み寄り、健司の目の前で足を止めた。

 彼女からは、石鹸の香りと、炊き立ての赤飯の香りが混じり合った狂気を感じるほど家庭的な匂いがした。


「合鍵、作っちゃいました。健司さんがあまりに無防備だから、型を取るのも簡単だったんですよ?」


 彼女はポケットから、健司の持っているものと寸分違わぬ鍵を取り出し、悪戯っぽく微笑んだ。


「健司さん。私と『結婚』して、幸せな毎日を送るか。それとも、ここで今すぐ私を通報して、一生私という恐怖に怯えて暮らすか選んでください」


 愛美の手が健司の頬に触れる。その指先は驚くほど冷たく、視線は焼けるように熱い。


「もし結婚してくれたら、毎日この赤飯よりも美味しいご飯を作ってあげます。お掃除も、洗濯も、夜の……癒やしも。全部私が完璧にこなします」


 健司は動けなかった。

 異常だ。目の前の女は完全に狂っている。

 しかし、三ヶ月間、不規則な生活とコンビニ飯でボロボロになっていた健司の胃袋は、目の前の赤飯の香りに情けなくもギュウと鳴ってしまった。


「……お腹、空いてるんですね。ふふ、可愛い」


 愛美は健司の腕を取り、無理やり、けれど優しく椅子に座らせた。


「さあ、冷めないうちに。私たちの、結婚記念日の御飯です」


 逃げ出すチャンスはいくらでもあるはずだった。

 しかし、一口差し出された赤飯を口にした瞬間、そのあまりの理想的な味に、健司の理性がわずかに崩壊したのを本人はまだ自覚していなかった。

 こうして、赤飯の香りと共に異常な新婚生活の幕が開けたのである。

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